中立性をめぐる試論

 近頃は「歴史を学ばなければ」という焦燥に駆られながら本を読んでいます。『永続敗戦論』の白井聡が漫画版を刊行するも、ニコニコニュースのコメント欄には出版元(朝日新聞社)を罵倒するコメントが並んでいて、それでいいのかよ……という複雑な気持ちにならざるを得ません。

「今、歴史を学ばないと…死ぬんです」白井聡さん、永続敗戦論マンガ版の危機感
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1708201

マンガでわかる永続敗戦論

マンガでわかる永続敗戦論

 ここで問われているのは、議論が依って立つ言説の中立性と立場の基礎にあたるものであると思います。むしろ思想的立場があやふやな大手新聞社など信用に足りるのだろうかという疑問も浮かびますが、何より「今こそ歴史を学ぶべきではないかという問いかけ」が、語りの主体の一部を構成する「マスコミの存在意義の問いかけ」へと、読者によってさも当然のようにすり替えられる光景ほど、見ていて痛ましい透明な嵐は無いでしょう。ここに、ネチズンによるマスコミ批判言説の機能不全と限界の一端を見ることができると思います。

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 物事に斜に構えてコメントを加えるという「遊び」が内輪でクローズドな領域内で共有されているうちは、公的な場に私的な関心を過剰に持ち出さないという意味においては、秩序が保たれていると言えます。その意味では、岡田斗司夫の罪とは、関係を持った女性リストを作成して仲間内で見せ合ったことではなく、その事実を公衆の面前に曝け出しすような事態を作り出してしまったことであると言えます。何事も無かったかのように活動を再開して人々の前に再び現れた彼の姿は、一見憮然としているようでそうした自己完結が彼のロジックとして正常に行われているという左証であるように受け取ることができますし、みっともない野次を飛ばすネチズンとの相対化が図れる唯一の点であるとも言えます。

 この話題提供は、事態の責任をネチズンや当事者に求めるものではなく、人々の公私に関する意識を可視化するネットのメディア特性を浮かび上がらせようとするものです。

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 世界史専攻の兄弟がいるものですから、実家にいるうちは歴史書に事欠きません。実際の精読には、兄弟や親しい歴史学の教員に力を借りることにはなりますが。今日読んだのは『現代史の読みかた』で、以下いくつか関心を惹かれた文章の抜粋を紹介します。

もし対象との距離が客観性の保証を増すのであれば、近い出来事をも遠い出来事と同じように眺められないものであろうか。……「第二次世界大戦は『今日』であることを止め、『昨日』になった。……」「私はこの歴史を、だれか未来の歴史家の眼にはこうも映ろうかという形で物語ってみようとした。」(西川(1997) p.28-p.29)

対象との距離があっても、「現在」の眼で歴史を見る限り、国とか置かれた状況とかによってさまざまな立場の相違、したがって歴史の見方―史観の相違の生じることは避けられないように思われる。……逆にどんな史観でも立場・価値意識によって制約されており、盲点を持っている。だが、盲点の場所や大きさは立場によって違うのではなかろうか。(同 p.31-p.32)

 歴史というスケールの大きな話ですが、評価の絶対的中立性を打ち立てる困難さと、そのなかでいかなるアプローチで評価を行うかについて述べられています。

現代史の読みかた

現代史の読みかた

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 ふだん括弧付きの「女装」をしている私ですが、セクシュアル・マイノリティの「代表」などとてもできませんし、私が出来ることは「女性寄りの立場・価値意識に基づいたMtFのいち提言」でしかありえません。そこで中立性を独りで打ち立てるには些かでない困難が待ち受けているでしょう。最近、弊学部へのクイアトイレ導入の是非について「すねお」としての意見を求められまして、あれこれと述べた末に上述した違和感をようやく言語化できた次第です。

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 今日弊学部で開かれた最終講義「公共圏論」では、公共圏論における宗教の扱いについて、最近のハーバーマスの公共圏における宗教に対する認識の変容と回転が話題に挙げられました。つまり、宗教を「理性的・批判的な議論の場である公共圏」の成立阻害因子になりかねないとする「世俗主義」が前期ハーバーマスであるのに対して、公的領域における宗教の役割の見直しや、宗教的言語の倫理的直感・道徳的洞察を表現能力を踏まえて、宗教的言語を使用可能な「インフォーマルな公共圏」と世俗的言語のみを使用可能とする「フォーマルな公共圏」の区別を試みるのが現在のハーバーマスというわけです。

公共圏に挑戦する宗教――ポスト世俗化時代における共棲のために

公共圏に挑戦する宗教――ポスト世俗化時代における共棲のために

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 歴史/ジェンダー/公共圏というマクロ的/ミクロ的/ミドル的な中立性を考えるにあたって私の日常観測範囲から適当に持ってきた話題に過ぎませんが、ただ言えることとして、中立性を追求するには相応の泥臭いエネルギーが必要だということが挙げられましょう。翻れば、中立性の追求に耐え得る言説空間としてネットはいかに役割を機能を果たしうるのかについて、公私の境界と距離をめぐるメディア特性の検討を踏まえながら議論することに意義を感じ取るわけです。

 なんとなく、以前にも挙げたポール・ヴィリリオが分析に強力な力を借りることになりそうだと考えていますが、いかんせん彼の文章は和訳にしても難解で、今作成している『戦争と映画』のレジュメも多少苦戦しているところです。ゆっくり、ゆっくり考えていくつもりです。