美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

純愛と任侠(不可能な試みとして)

「任侠」というのは、昔ユーミンがアルバムコンセプトでも使っていたような気がするが、この本も、その両者の共通性を枕に始まる。共に「不可能な試み(それゆえ人を魅了する)」ということだ。

モテと純愛は両立するか?

モテと純愛は両立するか?

この本のタイトルは、編集者が付けたのだろうが、ちょっと誤解を招くかも。だって、純愛はたくさん語られているが、実は作者の大野さんに「モテ」に対する興味はそれほど感じられないから。作家の渡辺淳一氏を「モテの代表」として攻撃している、という読み方もできようが、どちらかというと、彼のセックス観、特に隠しもしない男根中心主義を攻撃していて、いわゆる「モテ」「非モテ」論争とはちょっと位相がずれているような気がする。
しかし、本文は、身も蓋もない(笑)書きっぷりで、読ませる。特に渡辺氏の小説のモチーフが、同工異曲で、それも「50代の経験豊富な男が、30代のまだエクスタシーを知らない人妻を開発しちゃって(以下略)」というものであると喝破しているのには大いに納得且つ大笑い(僕はこのくだりを読んで、確か野坂昭如だったと思うが、「阿部貞事件」もエクスタシーを初めて知ってしまったがゆえの悲劇とか言っていたのを思いだした)。
「純愛」については、最近のベストセラーを席巻していてお腹いっぱいなわけだが、読まずに毛嫌いしていた『セカチュー』を、大野さんの本を読んだおかげで読みたくなったぞ(笑)。恐らくブック○フで買うだろうけど。でも、純愛小説や実話の純愛物語も、「世間の目」というのを凄く気にしているわけで、

二人の現実が純愛ものの王道の条件を備えていることを、当事者(『愛と死をみつめて』のミコとマコ―引用者注)はよく知っていた。「世間の人達」の受け止め方までおそらく先取りできていた。手紙の文面がところどころ、まるでカメラ目線の役者の演技のようになっていたのは、そのためであろう。
したがってこの純愛本の特異点とは、「泣ける」ことや、河野氏の言うノンフィクションであったことではない。ノンフィクションの当事者がその最中に、フィクション=物語を意識しないではいられなかったということである。(pp.177-178)

という指摘は膝を打った。そうだよねえ。

なお、僕個人として、純愛といえば、この作品というのを挙げておこう。

草の花 (新潮文庫)

草の花 (新潮文庫)

実は、昨晩大野さんの本を読み終えた後、本棚から取り出してパラパラ見ちゃいました。

しかし僕は、空気のように僕の廻りに立ちこめている不安、いつ来るか分からないこの未来の瞬間への不安と闘いながら、わざと、容易に千枝子に会いに行かない自分の意志を大事にした。それは決して僕の愛が小さかったからではない。会おうとさえ思えば、毎晩のようにでも出掛けることは出来たし、感情は常に僕を促してやまなかった。それなのに僕は自分の意志を靱(つよ)く保つことに、奇妙な悦びを覚えていたのだ。それにぎりぎりまで感情を抑え、千枝子への愛をこの隔離された時間の間に確かめることほど、僕に愛というものの本質を教えるものはなかった。(p.175)

このフレーズなんか、若いとき体に悪そうな我慢をしていた自分を正当化してくれそうで、むずむずしますね(笑)。
大学に入りたての時、ある女の子が「性欲を押さえ合うのも恋人の義務よ」と言っていたのだが、恐らく彼女は押さえることからもっと大きな悦びを引き出そうとしていたのかもしれないな。