アンナ・ヴィニツカヤ



 6月14日に録画しておいたものの、時間が無くて見ることが出来ずにいたN響第1806回定期演奏会(4月17日)を、この数日でようやく見ることが出来た。なぜ、数日もかかったかというと、その一部を繰り返して何度か見ていたからである。

 この日の指揮者はV・フェドセーエフ。かつて、1986年と1993年に、彼がモスクワ放送響と仙台に来た時、その演奏に接し、ロシアのオーケストラの音量と力とに驚愕したことがあった。既に50歳を過ぎていたとは言え、若々しいフェドセーエフの指揮ぶりを格好いいとも思った。そのフェドセーエフが80歳を過ぎ、どんな風貌になり、どんな音楽を作るのかに興味があったが、いざ見てみれば、私の関心をいたく引き付けたのは、ラフマニノフの2番を弾いたアンナ・ヴィニツカヤというピアニストであった。数日間、繰り返し見ていたのも彼女の演奏。

 まだ30歳そこそこらしい。非常に魅力的な風貌の美しいピアニストである。もっとも、鼻の下を長くしてそんな彼女の姿に見とれていたわけではない。その音楽に、正に釘付けになったのである。

 技術的に優れていて、表情豊かで繊細なドルチェが弾けるかと思えば、男勝りの強靱なフォルティッシモを響かせる。私の大好きなロシア人ピアニスト、E・ギレリスを彷彿とさせる。聴く前には、「なんだ2番か。やっぱりラフマニノフは3番だよな・・・」などと多少の不満を持っていた私が、1秒たりとも退屈を感じることなく聴き通してしまった。

 それでもやはり、最も感心したのは、アンコールで演奏されたプロコフィエフピアノソナタ第2番第2楽章だった。プロコフィエフというのは、ヴァイオリン協奏曲やバレエ音楽「ロメオとジュリエット」の一部など、心引かれる音楽が多少あるとは言え、私が好きだと言えるほどの作曲家ではない。だいたい、代表作と言われる交響曲第5番の価値が、私には分からない。だが、ヴィニツカヤの演奏は素晴らしいと思った。右手がせわしなくスタッカートの分散和音を鳴らす一方で、左手がその左右を跳ね回りながら、明晰なメロディーを激しく刻んでいく。その慌ただしい激しさは、同じプロコフィエフの「トッカータ」を思い出させた。音楽は、およそ緩みとか曖昧さといったもののないものすごい意志の力で、ぐいぐいと前に進んで行く。穏やかな中間部との対比も明瞭。

 えっ!?プロコフィエフの第2番のソナタってこんな音楽だったかな?と、買ったきりほとんど聴いたことのなかったイェフム・ブロンフマンによるCDを持ち出してきて、聴いてみた。あまりに間延びした演奏で、ヴィニツカヤの興奮は蘇ってこなかった。印象に残らなかったわけだ。ヴィニツカヤの演奏の方がかなり速く、それが異様な緊張感の元になっていることが、対比してみることでよく分かった。

 私にとって意外だったのは、この曲に充ち満ちた「諧謔」である。プロコフィエフってこんなにもショスタコーヴィチに近い作曲家だったのかな?だが、ピアノソナタ第2番の作曲は1912年。プロコフィエフが亡命するきっかけとなるロシア革命までは、まだ5年の月日が残っている。ショスタコーヴィチのゆがんだユーモアが、スターリン政権下の抑圧による精神的な屈折を表すと理解している者にとって、ロシア革命以前、まだ21歳のプロコフィエフショスタコーヴィチを彷彿とさせる曲を書いたというのは、なんとも意外であり、理解に苦しむことである。その謎を解くためにも、一度、ヴィニツカヤの演奏で、プロコフィエフの他の曲をいろいろ聴いてみたいな、と思った。いや、プロコフィエフだけではない。聴き慣れたベートーヴェンやバッハを、この人はどう弾くのだろうか、強い関心が湧き起こってきた。特にバッハは合いそうだ。

 フェドセーエフは老いた。「老巨匠の魅力」というようなものも感じなかった。1806回定期が終わった後、番組の残り時間で、1991年のモスクワ放送響との日本公演の一部(アンコール)が放映された。ハチャトゥリアンの「レズギンカ舞曲」とグラズノフの「マイムの場面」。「伝説の名演」とかで、確かに「レズギンカ舞曲」は白熱の演奏だった。そしてそこには、私がかつて見て感動した、若くて颯爽としたフェドセーエフがいた。時というものは、否応なく流れる。