世界の切り取り方

  
 比較的にまだ生まれたばかりであり、そのためにまだあまり知られていないけれども、面白いお気に入りのウェブログがあります。
 今の規模のままのほうが、本人も変に格好つけずに思ったことを思ったままに書けそうな気がするのと、こっそり気に入っているのであまり注目を浴びるとしゃくなので敢えて伏せておきます。
 まぁ、id:gyu-sanさんの『そうでもない。』というウェブログなんですけどね。
  

最近はこの「理由はないけど」の価値観の部分まで説明せにゃならんなったような気がする。
「理由はないけど」は駄目で、「ちゃんと説明できる」がいいみたいな。
理由はないけどという『なんとなく』という自分が絶対に信じている価値観、正義感に自信がなくなっているんだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/gyu-san/20070328/1175091952

  
 客観性というのは、究極的には、自然科学における反証可能性があるとされる状態であり、社会科学や人文科学においては、客観的法則性を下敷きにするとしても、厳密にはほとんどが実験による実証が出来ないわけで、そこは説得力勝負となり、説得力とは論理的な一貫性だけが根拠になります。
 つまり「こういう前提であれば、こうなる」というのが論理であり、そこに一貫性さえあれば、それは論理的になるわけです。
 つまりは、何の説得力もない不安定な状態に耐えられない人間という生き物は、安定という説得力が欲しいために、論理にすがるのです。
 ただ、いくら一貫性のある論理であっても、その最初の「前提」が間違っていたら、全く何の意味も持たなくなります。
 たとえば、昔は雷というのは天神様の祟りだという前提があり、それを祀ることによって落雷火災の被害をなくそうとしたり、荒ぶる神のご機嫌を取ろうとしたりしてきました。
 少し前には、万世一系の皇譜の御稜威を信じて、現人神がおはします皇国のピンチには神風が吹いて負けるはずがないという、誠にもっともな論理がそれなりにはあったわけです。
 それが今は、科学主義や民主主義や資本主義や合理主義や近代国家主義という、別の「前提」が取って代わったのです。
 私たちが今、天神様や犬神様の祟りや、荒ぶる神や現人神を莫迦にして鼻で笑うが如くに、百年後には、私たちも笑われる可能性はあるわけです。
  
 この「前提」というのが、イデオロギーというものであり、嫌な言い方をすれば宗教であり、それ以上の根源に遡るのは不可能な、形而上学的なものです。信じるしかないのです。
 万人が有するとされる普遍的な「人権」という概念というか、イデオロギーというか、信仰は、その根拠たるものはなく、あると信じるしかないわけです。私は信じませんけど。
 この「人権」に根拠を求めるとするならば、フランス革命の『人間と市民の権利の宣言』といういわゆる人権宣言ですが、そこまで遡り、さらにその先は「最高存在」というロベスピエールの人工神という宗教に行き着きます。
 ということで、どの「前提」すなわち、どのイデオロギーが正しいのか、となると全てが無根拠になるわけで、つまりは相対主義に陥ります。相対主義という名の絶対主義なんですけどね。
 面白くないな。この話はとりあえずここで止めるとしまして。
  
 イデオロギーというのは、世界の切り取り方です。
 反証テストが行われる極めて客観的な自然科学ですら、実はその「自然科学」という切り取られた世界の中でだけ通用する概念です。
 つまりは、その「枠組み=前提」の中では、客観的であり論理的であるということは存在するわけですが、その「前提」が問題とされるわけです。
  
 人間は、なんらかの世界の切り取り方を選択しないことには、世界を認識することが出来ないわけで、それぞれ漠然と形が歪であれイデオロギーを持っています。
 つまり、なんらかの「事実」を自分の脳にインプットする際に、それは、その人の世界の切り取り方によって切り取られてインプットされるのです。
 それをアウトプットするには、またその世界の切り取り方で言語化し、劣化しながらフィルターに引っかかりながら、アウトプットされるわけです。
 そのディスクールは、当然、それぞれの世界の切り取られ方に影響されるわけで、解釈した人の切り取り方が反映されたものになります。
 やっぱり面白くないな。この話はとりあえずここで止めるとしまして。
  
 人間は非合理な存在であり、また、世の中には理不尽が溢れているわけです。
 人間は、河童とは違い、自ら生まれるかどうかを選択することすら許されない。生まれながらにして不条理からスタートしているわけです。
 そもそも「合理的」などで世界がコントロール可能だという認識が間違っているのです。
 だから、人間認識として、合理では片付かないことがある、という考え方は全く正しいといえるでしょう。
  
 ただ、二点ほど、気を付けなくてはならない点がありまして、まず一点は、オーケンです。
 大江健三郎は『そもそも人をどうして殺してはいけないのかという質問をすること自体がおかしい』と言ってますが、オーケンは合理主義の人間ではなかったのか? という点。
 もう一点は、「人間は不合理である」と認識する線をどこで引くのか? ということです。
 もちろん、ここも恣意的にならざるを得ないわけですが、たとえば、愛する人を独占したいという感情。これについては根拠を問うのは難しいと思われるので、私はもう「業(カルマ)」と認識しています。あるいは自分の子供が可愛いというのも。
 では、今度は「売春婦は生理的に嫌い」という場合の「生理的」というもの。これは本当に「生理的」なのかと問えば、人間に最初から「売春婦」という存在の認識が刷り込まれているわけがなく、明らかに後天的な概念なわけです。
 であるならば、そこは「理由はないけど」で通してしまうのは、明らかに知的怠惰によるものでしょう。
  
 で、やっと引用部分になるわけですが、「近代」というのは、人間の理性を根拠にし、合理主義により世界を全て数値化し、コントロール下におけると思い込んでいるイデオロギーで、私たちはそこで生活しています。
 自然も含め、どれだけ管理できるかを努力し続けることが「近代」に課せられているわけです。
 故に、近代合理主義を取る以上は、人間という不合理な存在さえ、「理性」を根拠に全てを割り切る必要があるのです。
 オーケンが「駄目なものは駄目」で済ますならば、オーケンはこれまでの「近代」主義者との整合性は合理的にどうなってるの? という点は、ここにかかってくるわけです。
 読む人がえらく限られた内容のような気がするな。まぁええか。
  

と言っている時点で私も理由はないけどの部分を一生懸命考えているわけです。

  
 人間は意味に生きる生物ですから、言葉と言うもの、文字と言うもの、これを生み出してからは、ずっと呪われ続けているのです。