7時10分に家を出て別所沼まで散歩に出掛けました。襟巻きや厚手のコートを着た人々が通勤客の中に見受けられます。

takuzemi2014-11-17

 7時10分に家を出て別所沼まで散歩に出掛けました。この時間帯は相変わらずのな顔をした通勤客や通学客などしか見られないのですが、襟巻きや厚手のコートを着た人々が通勤客の中に見受けられます。いつものように埼玉県原爆死没者慰霊の碑に合掌しました。それから別所沼弁財天に賽銭を入れて柏手を打ちました。月極駐車場を見掛けました。家人が子供の頃のことですが「月極さんってあちらこちらに土地を持っているのね。」と考えたそうです。我が家の都市伝説の一つです。
 自宅に帰って書斎に閉じ篭もって私の「メタ・ノート」を久し振りに読み返してみました。香川景樹さんの「大空にたわるる蝶の一つがい目にもとまらずなりにけるかな」や太田青丘さんの「物思ふ葦にしあればゆく雲の�癲きに作品を舞はむ心をわが有つ」などの短歌があり、ヴァレリーの「自分自身と秘密結社を結ぶ。」やストリンドベリーの「苦しみつつなおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である。」などの言葉が続きます。桑原武夫の「もっとセオレチカルに把握する訓練を積まないかん。」や「〇〇君はなかなかの勉強家でっせ。しかし、シャープなところがない。」の言葉には私自身のこんなコメントが付けられていました。(その知性にどこか不良じみたところが必要だ。)と有りました。桑原武夫の言葉はもう一つ続きます。「ファイチング・スピリットのない人間は嫌いや。」と有るのですが桑原武夫の京都弁が目立ちます。コン・ウィルソンの「すべてのものは崩れ、また築かれる。また築くものは朗らかなり。」この言葉は私の能率手帳に長い間書いてあったもので今は止めてしまいましたが懐かしい言葉です。コリン・ウィルソンの言葉はもう一つ有って「倦怠とは、自己の生命力に充分関わっていな状態であることを私は知った。それへの解答は、いたって単純なことだが、意識範囲を拡張することに有る。」と書かれていてコリン・ウィルソンの愛読していた昔を懐かしく思い出したものでした。

Bunkamuraザ・ミュージアムで「夢見るフランス絵画 印象派からエコール・ド・パリへ」を観賞しました。

 12時21分の快速新木場行きで移動を開始しました。車中では太田紫織さんの『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』(角川文庫)を読みました。骨が大好きなお嬢さんの櫻子さんと平凡な高校生館脇正太郎の二人が活躍する物語です。
渋谷に着いてBunkamuraザ・ミュージアムで「夢見るフランス絵画 印象派からエコール・ド・パリへ」を観賞しました。今回は三回目となるのですが飽きると言うことは有り得ません。第1章は「印象派とその周辺の画家たち」と題されていてポール・セザンヌの「大きな松と赤い大地」が有るのですが、いつ観ても癒されるような気持ちがします。クロード・モネの「レ・ムレット(小さな積藁)」は積藁好きのモネの真骨頂の絵画で暖かい日差しを浴びた積藁がのんびり描かれています。クロード・モネの「エトルタ、夕日のアヴァル断崖」は奇岩の多いことで知られるエトルタの風景を映したもので背景に夕日を置いたことで奇岩が黒いシルエットになっています。モネの企みが成功した例だと思ったことでした。クロード・モネの「睡蓮のある池」は晩年のモネの大きなモチーフになるそうで可愛らしい睡蓮が二つ池の上で花開いていました。ピエール・オーギュスト・ルノワールの「宝石をつけたガブリエル」は三度目になるのですが、私を魅了して止むところを知りません。薄絹を身に着けて胸も露わに薔薇の花を髪に付けようとしているガブリエルは美しいと言う他ありません。キスリングの「裸婦」の瞳はどこを見つめているとも知れぬ茫洋とした雰囲気です。金髪の髪で乳房を露わにしている裸婦の考えていることは分かりません。マルク・シャガールの「サーカス」「青色の道化師」「太陽の中の雄鶏」「大きな花束」の四作は色彩の乱舞と言っても良い作品です。赤や緑、青、黄色などの色彩が踊り戯れていました。