大澤真幸京大辞職とか

 さっき友達から聞いた。このブログで彼のことをとりあげたのは一回だけ。それが僕の彼への評価のすべてかな。

 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080930#p4

 大澤氏の著作のファンは多いらしいんだけど僕が読んだのは上の本と金子勝氏との共著。モラリスト的な感じがしたかな、という程度の印象しかない。 

稲葉振一郎って何なのか?

 稲葉振一郎社会学入門』。もらえるはずだったが松尾匡セミナーに行かなかったのでいままで本屋に積読(違。しかし僕は稲葉さんは趣味オタク、本業は社会政策かな、と思ってたんだけど、社会学の先生だったのか。知らんかった 爆

 さて本書はデュルケム、フロイトウェーバーパーソンズフーコーらビックネームの貢献を「合理性」という主題から、主にいまの日本の社会状況を念頭において、解説した意欲的な本である。「合理性」が本書を貫くテーマなのか、と胸倉つかまれてゆさぶられたら「すみません!」と謝るしかないが、僕にはそれが社会学の有象無象の話の中でいま最も関心のあるテーマであるのでそこだけを拾い読みしたというのが本当のところである。

以下続く

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

NHK連続テレビ小説『つばさ』と昔住んでた所

 NHKの解説委員殿の発言を批判した同じ日に、全然反対にNHK大好きネタでせめるオレ田中(笑)。もう『つばさ』も来週が最終週でかなり淋しい。こんなに毎日見ているのは人生の中でも稀有なことなので、このドラマの質の高さには敬服している。ファンミーティングにもいって僕なりに輝いてきたし(笑)。

 ところでいまでている『ステラ』を思わず買ったのだが、ドラマをみている人にはおなじみのサッカーの練習場が、どう見ても僕が30年近く前に住んでいたところの横で、なんともあまり変わっていず懐かしさがあった。この『ステラ』には「<つばさ>の思い出を探して」と、ドラマの主要シーンがどこにあるのか詳細に書かれていて、その記事を読んで「やはり!」と思った。ちなみに30年前は、そこらへんはまだあまり整備されてなくて、イタチはもちろんのこと確かウサギもいて、不法で散弾銃で撃っている人とかもいて、薬きょうが転がってたりした(笑)。

 30年前の川越の蔵造り通りも前も書いたけど、いまほど観光地化してなくて、時の鐘の下あたりのせんべいやも不景気なばあさんが手焼きのせんべいをやいてたりして、夕方には下町的なけだるい雰囲気全開で、まさに落ちぶれゆく小江戸感全開だったわけだがw 間違っても(ドラマででてくる)サンバダンサーが狂喜乱舞するような雰囲気ではなかった。

 しかし多部未華子は演技うまいなあ。『不毛地帯』も期待したい。


購入はこちら→http://shop.nhk-sc.or.jp/shop/goods/goods.aspx?goods=010211518

吉本隆明『全マンガ論』

 たまにはマンガの話題。かなり前に購入して積読状態だったものを読みました。しかしこれは作品論を扱った冒頭部分や、対談のところはまだいいとして、原理論と称された部分を、読者はさくさく理解できるのでしょうか? 僕はさくさく理解しないですっ飛ばして眺めましたが笑。この評論集をなぜ読んだかというとメビウス論の包括的なやつを準備してて、その関連で大友克洋論として吉本の論を参考にしようと思ったのです。吉本の大友論は、視野的には面白い関連が書かれていて、大友の作品中の「執着点」が、つげ義春と共通しているといったり、またここは僕も同意するのですが『AKIRA』のまとまりのなさを指摘したりと読ませる部分もあります。

 しかし例えば次のような吉本の主張は、わかる人には理解できるのでしょうが、僕には彼が何をいっているのかわかったようでわからず(笑

つげ義春からはじまって岡田史子大友克洋のコミックス画像に象徴されるような、画像の様式化と言語の位相を平準化する方法は、ラジカルな自己主張をいちばん強力に集約できる方法におもえる。だがいつも新しい様式の補給を必要としている。そうでないと画像が言語の<意味>の重さにおしつぶされてしまいそうだからだ」

 大友のマンガが<言語>の重みと絶え間ない表現様式とのある種の格闘である、という感じなのだろうか。むしろ言語の<意味>の重みよりも大友がメビウスに似ているといわれているのは、その表現様式の洗練性と、言語の<意味>の消去とでもいえる事態に思える。

 まあ、それを格闘した結果、画像の様式化と言語位相の平準化が極限にまでいき、表現もすっきりした線で描かれ、ついでに言語も表層的には失われた軽くなった、とみてもいいのかもしれないけど。というか吉本にひかれて自分で何を書いているのかだんだんわからなくなってきた 笑 吉本からするとそういう「平準化」に至る背後の大友らの無意識への注目こそ重要なのだろうか。

 というわけでほとんど30分で読破

吉本隆明 全マンガ論―表現としてのマンガ・アニメ

吉本隆明 全マンガ論―表現としてのマンガ・アニメ

「ムダの削減」も「予算の組み替え」もほとんど同じ

 たまたまNHKの時事公論「鳩山新政権の経済運営は?」(NHK解説委員山田伸二)を見た。山田氏の解説を見ながら、例えば政権の考える子ども手当の規模が防衛費などと拮抗する巨額であることなどが図表でさすがテレビ的にわかりやすく構成されていた。しかしこれらの民主党の「財源」にふれたところで、山田氏が「予算の組み替え」だとプラスマイナスゼロであり景気への効果がないが、「ムダの削減」での「財源」調達だと景気効果がある、という趣旨のことをいったと思う。

 録画していなかったので正確ではないかもしれないが、これはおかしい話だと思う。「ムダの削減」自体は政府部門の効率化を促すという意味ならばどんどんやってもらうのはいいが、それで浮いたお金を子ども手当にまわすというのであれば、それは「予算の組み替え」と同じで原則プラスマイナスゼロであり、大して景気効果はないだろう。

 比喩でいえば、経済がいま椅子取りゲームだとして、椅子が5個あって、それに座ろうとしている人が椅子の数以上あるとしよう。すわれない人はこのゲームで損をする人、経済でいえば失業者と同じと考えられる。景気対策はこのすわれる椅子の数を増やして、より多くの人が損をしないゲームにしようというものだ。で、「予算の組み替え」というのは、座る椅子の数を変えないで、誰か(ここでは鳩山政権)が、「こちらの椅子に座っていいのはあなた、こちらの椅子に座っていいのはあなた」と座る椅子と人間の組み合わせを変えるだけである。すわれないひとはすわれないままである。この意味で、山田解説委員のプラスマイナスゼロという発言は基本的に正しい。

 では「ムダの削減」とはこの比喩でどう考えるべきか。これも椅子の数は増えない。なぜなら椅子取りの椅子がガタガタになって壊れていて、それはもうゲームに使うことができない、といってその椅子をゲームから排除するのが、「ムダの削減」だ。これだとさらにゲームの椅子の数が減るが、これをちゃんと真新しいのか、そこそこゲームに使えるように直してか、あるいはガタガタしている椅子でも座るのに不便を感じない人に、この椅子を提供するのが、「ムダの削減」を「財源」にする場合のケースである。当然に椅子の数は増えない(予算の組み替えよりも減る可能性がこのムダの削減にはついてまわることにくれぐれも注意を)。

 山田解説委員の独自の持論としては、積極的な金融政策への認識の欠如が毎度あるように思える。日本銀行も広義の政府機関であり、鳩山新政権がこの日本銀行とどのように財政金融政策を協調して行うかが、欧米のケースをみても重要ではないのだろうか?

 対して、山田解説委員の重要視した政策は、環境や介護などの「産業政策」であった。仮にこれらの分野が彼のいうように成長分野であるならば、市場の機能を高めればいいだけで、政府の産業政策など不用であろう。むしろそのようなムダな産業政策はせっかく政権が「ムダの削減」をしても新たなムダの発生にもつながることで長期的な成長を阻害するのではないか。

 NHKは一度解説委員の発言をきちんと精査し、よりバランスのとれた、そして国際的に標準的な見解のある人に代えたほうが、より公共放送の地位を高めるのではないか。一部の解説委員のユニークだが、標準ならざる意見が公共の場で主流になることで、多くのまともな意見が排除されるのならば、それこそ公共放送の長期的な成長を阻害するだろう。