手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏法あっての人生

 上代日本に伝わった『仏説無量寿経』の教えを聞いて初めて、この人生は最初から阿弥陀さまの光が照っていたということに気づくわけです。お釈迦さまによれば、法蔵菩薩はこれから阿弥陀如来になられるのではなくて、もうすでになられているのです。なられたということは、私たちの往生という人生の大問題はすでに解決しているということです。
 これまで事あるごとに申しましたが、私は昔、手術をした時、お医者さんに名を呼ばれて集中治療室で目を覚ましたら、もう手術は終わっていました。あの時、「大峯さん、返事してください」と私に呼びかけてくれた医師は、いわば阿弥陀さまにあたります。これから手術をするのかと思っていたら、もうとっくに終わっていて、「もう大丈夫だから返事してください」と呼ばれたお医者さんに、私は「はい」と返事をしたのです。
 ちょうどそのように、私たちが南無阿弥陀仏を称えることは、阿弥陀さまがもう大丈夫だと言われている喚び声を聞いて、それに「はい」と答えるようなことです。長い時間をかけて私の病気の根源を取り除いてくれた、そのお医者さまにあたる方を法蔵菩薩と申しあげるのです。法蔵菩薩は、凡夫の悪い病患を取り除いて、凡夫はこれで間違いなく往生できると思われたから、安心して阿弥陀仏になっておられるのです。だから、その成仏の姿である南無阿弥陀仏の名号を聞いたら、「有難うございました、私は安心です」と言うことができます。
 と言っても、私たちはこの問題が解決していると思いながら生まれてきたわけではありません。この深い道理は、人生で仏法を聞かないことには決してわかりません。仏法に遇えずに、この真理をまだ知らない方もおられることでしょう。すでに知っている人もおられましょう。もう知っている人とまだ知らない人との二種類の人が、人生を生きているわけです。どちらも阿弥陀さまの広大な本願のなかに生かされていることには変わりはないのですが、そのことを知らないで死ぬ人と、お浄土に生まれていく私だ、何の心配もないと思っている人とでは、大きな違いです。知らないで死んでいく人のことを、蓮如上人は「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」(『御文章』第二帖第二通、『註釈版聖典』一一一〇頁)とおっしゃったのです。往生することを知らないということが地獄なのです。私は罪悪と煩悩の凡夫だけれども、本願に生かされていると知っている人は、阿弥陀さまを信じている人なのです。
【永遠と今 浄土和讃を読む 上 大峯 顯 本願寺出版 P153〜P155より】