霜月神楽─保呂羽山波宇志別神社

tenti2007-11-08


                  (参之釜湯立て式 午前4時)


                  (山の神舞・・1時過ぎにはじまる強烈な舞)

                 (貳の釜湯立式の神子の舞 3時)

秋田県・保呂羽山波宇志別神社(はうしわけ・横手市大森)の霜月神楽に行くことができました。七日の夕七時から八日の朝七時まで夜通しの神楽でした。

宮城県の浜神楽等と異なり、演じ手は面をかぶらず素顔なので、気をつけて紹介いたします。


参考までにマネキンですが。(ほろわの里資料館・神官大友家に伝わった衣装) 
http://www.netoomori.gr.jp/kankou/s_horowa/horowasan.htm)

波宇志別神社は式内社で、その霜月神楽(国指定重要無形民俗文化財)は信濃三河のそれと呼応し、明治初年に廃れた伊勢の霜月の寄合神楽の形態を伝える貴重なものとされています。伝承1200年とされていますが、天正18年(1590年)の「保呂羽山御開山以来之次第」などから少なくともこの時期には存在していたようです。そして、当時の仙北地方の武将の起請文には仙北郡の鎮守保呂羽小荒神として見えております。また、保呂羽山は仙北・平鹿・由利三郡の境界に位置する山で、さほど高くない山(440m)でありながら、中世まで唯一続いた式内社で、その信仰圏は北出羽一円に及び、修験の山でもあったという(『秋田県の歴史』図説日本の歴史)。南の麓を平鹿─由利を結ぶ道と寺社が山々に鎮座していたようです。また、中世には保呂羽山天国寺(波宇志別神社)が蔵王権現を保呂羽山に祀ったされています(以上「羽後式内社と保呂羽山信仰」塩谷順耳1977年『東北霊山と修験道』等による)。
 ⇒旧大森町HP
 http://www.netoomori.gr.jp/kankou/m_simotuki/simo.html
 ・保呂羽山(秋田フィードワークHPより)
  http://www.kensoudan.com/firu-minami-y/forowa.html

里宮神殿(八沢木木ノ根坂)。菅江真澄の碑が立っている。
  霜八度 おく八沢木の 笹をたく さとりてはらふ 八小女  (菅江真澄 文政七年1824)
「八小女」とは八人の神子(巫女)さんのことでしょう?

室町時代建立の神楽殿と「ほろわの里資料館」


左に神楽殿のある森がみえる。

上の写真の対面。 左端が「ほろわの里資料館」

八沢木宮脇にある神楽殿近景。「本宮」とも呼ばれていたのはなぜ?

右手には池があります。

室町時代!建立の神楽殿


しっかりした骨格の神楽殿 室町時代にはここで神楽が?

波宇志別神社(はうしべつじんじゃ)の霜月御神楽


波宇志別神社里宮神殿前

御初穂をお納めしたら、神符と鼠さんと赤飯をいただいて、夕食とすることができて、波宇志別の神に感謝。

ほろは の山に向かいて

神前の炉と湯釜 湯箒(笹の束)が載せられている。

修祓式から始まる(7時半)

   荘重に

花入れノ式
お膳に新米、神酒などが載せられます。楽人が口に含んだ後、参会者にも神酒と餅のような米粒が廻ります。

保呂羽山の舞 
酒などの供物が奉納される。

神子の舞(保呂羽山の舞)には託宣が(形式的ですが)あり古い形態を伝えています。             
高岳山舞
歴代神官(現在も)の大友氏は高岳山、御嶽山の神々(式内社)を勧請したという。その神々の舞か。
http://www.iimachi-akita.jp/special/1997/10th/simo.html(いい町秋田HP)
・波宇志別神社里宮と菅江真澄(秋田県農林水産部)http://www.pref.akita.jp/kankyoho/mizumidori/tinjyu/kennan/148hausiwakesatomiya/hausiwakesatomiya.html

11時50分頃 ようやく「中入」にくつろぐ。


8日1時10分 突然 激しい「山の神舞」が始まった!
鳥兜をつけ顔を覆い、


白い切絵のようなハタ(「三十六童子の幡」)が激しく飛び回ります


  神のような流れる色彩の塊


後半には素顔(直面)で餅?まき

(神人舞だったかな)

湯加持

..やがて 参之釜湯立て式(四時)

剣舞(つるぎまい)

                  (奉幣式舞)

御供頂戴
神前の供物をいただく。

神送り
  神送る高座の山も雲晴れて 残らで行けや 四方の神々
  注連切るや 注連切る刀はさえ刀 幸いここに 切れる小刀


鯛を釣り上げる         (「恵比寿」)

  5時53分

 朝!..

「打身祝儀」となりめでたく終了。
斎主を前に楽人・巫女一同による直会とのことです。

参会の人々には おいしい 朝食がふるまわれる。

7時 ゆっくりと朝食をあじわう暇もなく、迎えのタクシーの時間になり、里宮をあとにする。
大友家はじめ大森の皆様 参会の皆様 たいへんお世話になりありがとうございました。

 朝日が

波宇志別の神・神子の託宣・葦毛の駒


(ほろわの里資料館・神官大友家に伝わった神子の衣装) 
この八沢木の地域は中世において夜叉鬼と呼ばれ、領主は大友氏(小野寺氏の家臣)であり、保呂羽山の神官でもあったとされています(『秋田県の歴史』図説日本の歴史)。その大友氏が現在も神官として霜月神楽を継承し、地域の精神的紐帯の役割を担っていることに感動せざるを得ません。波宇志別神が山の神でお不動さまの眷属の三十六童子が守るのか? この式内社のみが生き延びた理由は中世に修験道の拠点になったせいなのかななど 考えています。ただし、前述の塩谷氏は神官の大友氏が領主化したことを生き延びた原因と考えています。
真澄が歌った「八小女」は八乙女のことだろう。中世の能(世阿弥の「蟻通」「住吉」)やお伽草子(「烏帽子折 草子」)にも「八人の八乙女 五人の神楽男」がセットで登場します。「八乙女」(八少女)は神に奉仕する神子 さんのことのようですが、託宣が八乙女で、神楽は男性陣と本来はの役割は分かれていたのだろうか? そういえば、仙台にも地下鉄「八乙女駅」があってハッとしました。 八乙女氏氏は国分盛氏の一家と伝えられています(『宮城県姓氏家系大辞典』)が元はやはり、8人の神子に由来するのかもしれません。

                   (神楽殿)
あと、わたしは聞き逃しましたが波宇志別神社の霜月神楽にも「葦毛の駒」が神降ろし歌に登場したとする  と、ネットで調べると神様が乗る馬は「葦毛」の馬が多くて(桜川市五所駒滝神社の神様とか)、貴人の頼朝も そうでした。そういえば遠野の物語の禁断の地トンノミの森の貴人もそうでした。葦毛の馬はいい馬が多いの でしょうか? 謎は尽きません。
【参考】
 波宇志別神社・葦毛の駒(「北方の滄海」HPより) 
  http://blog.goo.ne.jp/boogiewoogiesunday/s/%C7%C8%B1%A7%BB%D6%CA%CC
  ・参考にした本『別冊太陽№115 お神楽』