「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年12月17日(金) (69歳) 渋沢栄一を団長とする渡米実業団一行、横浜に帰着 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

日栄一、渡米実業団を率ゐて横浜に上陸し、直に東京に入り、宮内省に出頭し、宮内大臣を経て帰朝の旨を奏上す。午後、東京外五商業会議所聯合会主催同団帰朝歓迎式、東京商業会議所に催さる。外務大臣伯爵小村寿太郎・農商務大臣男爵大浦兼武の祝辞に対して栄一答辞を述ぶ。次で解団式行はれ、栄一団長として告辞を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款 渡米実業団 【第32巻 p.396-415】

全米50余りの都市を訪問する長い旅を終え、渡米実業団一行が横浜に帰着したのは1909(明治42)年12月17日のことでした。猛暑の中を出発してから約4か月、一行を乗せた地洋丸は朝日と冠雪の富士山、そして出迎の歓声に迎えられて、横浜港の税関新波止場の桟橋に横付けにされました。
港では横浜商業会議所による歓迎式が開催され、紅白の幔幕(まんまく)が張り巡らされた港新港第六号上屋に上陸した一行は、国旗彩旗がひるがえる式場で「東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋六商業会議所員、実業家家族・親戚知己等一万有余の歓迎者」に出迎えられました。
歓迎式の後、一行は馬車・人力車で岸壁から万国橋を経由、裁判所前を通過し、横浜から11時10分発の臨時列車で新橋へと向かいました。渋沢栄一は新橋で団員と別れて一人自動車で帰国挨拶のため宮内省に出頭、その後東京商業会議所で団員らと合流して帰朝歓迎式解団式に臨みました。
京商業会議所会議室で開催された帰朝歓迎式では大橋新太郎(おおはし・しんたろう、1863-1944)や外務大臣小村寿太郎(こむら・じゅたろう、1855-1911)らが歓迎の辞を述べ、それに対する渋沢栄一答辞で終了。引き続き開催された解団式では中野武営(なかの・ぶえい、1848-1918)の旅行概要報告があり、その後に栄一が解団告辞を行いました。解団の宣言に先立ち、栄一は団員に対して「一同が愛国の情と奉公の心で誠意を持って米国人と接したため無事に旅を終えることができた」と、また現地での米国人の歓迎や現地邦人の助力に対しても「誠心誠意感佩の意を表す」と感謝の言葉を述べています。
解団式散会後は別室で午餐となり、和やかな談笑の後に一同が家路についたのは午後3時ごろのことでした。
渋沢栄一伝記資料』第32巻p.396-408には『竜門雑誌』『渡米実業団誌』などの記事が採録され、このときの栄一の演説のほか当日の様子が詳細に紹介されています。
 

 1909(明治42)年12月17日(金) 渡米実業団一行、横浜に上陸 【航海第17日】

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.443-458

 ○第一編 第九章 帰航日誌
     第三節 船中の下
十二月十七日 (金) 快晴
 今暁船は已に東京湾口にあり。天晴れ、気清く、富岳皚々として中天に聳へ、又我等を迎ふるものゝ如し。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.380掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.473-492

 ○第一編 第十章 帰朝
     第一節 上陸
時に十二月十七日午前七時、我地洋丸は横浜に入れり。直ちに検疫官来船、乗船者一同食堂に参集し簡単なる検疫を受け、上陸の準備をなす。此時既に小汽艇を駆りて出迎の為め来船せるもの多数、布哇出帆の時、団長渋沢男より浅野東洋汽船会社社長に懇請せし如く、地洋丸は先例を破つて税関新波止場の桟橋に横付と成れり、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.399掲載)


竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41

   ○青渊先生の御帰朝
横浜港十二月十七日の曙は、快晴さながらに拭ふが如く、窮陰師走の空も朝日影麗かに、日米親善の最大光栄を荷へる青渊先生一行の帰朝を迎へぬ
   ○横浜の歓迎
△一行の帰途 是より先き本邦実業家の萃を抜きたる青渊先生の一行が、歓呼の声に送られて横浜の埠頭を辞したるは、実に八月十九日なりき、爾来九月一日シヤトルに於ける歓迎会を始めとし、十一月二十九日桑港に於ける大晩餐会を最終として、前後三箇月間大陸の観光を遂げたる一行は、米国民に尠からさる好感を与へ、延いて近来動もすれば面白からざる徴候を呈すべく訛伝流説の播布される日米の国交に円満敦睦なる連鎖を与へ、ロツキー山の夕、ミスシツピー河の朝、両国の人士が互に握手して親善の好誼を契る間に多大の成功を博し、斯くて十一月三十日桑港を辞し、懐かしき故国の天には向へるなり
△横浜港外の光景 一行を載せたる東洋汽船会社の地洋丸は、途中布哇に寄港したる後、再び錨を捲きて西を指し、一路平安、舟行また予定よりも早く十六日の夜は既に東京湾に入り、十七日昧爽星影漸く薄れて一碧に明くる朝、空の寒さは身に沁むばかりなるも、風凪ぎたる海は一波動かず、港外五六浬を進む頃、海末の紫がかりし横雲の上に朱盆の如き大旭日現はれ、同じき紫雲に裾を消されたる富士山は絵の如く天半に雪白の嶺を見せたり、この朝日影此山影を目前に地洋丸の上に見る一行の歓喜の情や思ひやられぬ、斯くて港外八・九浬の海上にて初めて地洋丸の船影を認むるや
△歓迎船の包囲 斯くと見るより、海上に点々する歓迎船は一斉に万歳を叫びつれて、彼の本船に向つて進航し、漸く数十間の距離に進めば、蜃気楼の如き東洋一の大客船の二階船室外廓に立並ぶ一行の影も明かに見られ、蝶の飛ぶが如く翻々と打振ふ手巾は、我より叫ぶ歓迎の万歳に答ふるなり、忽ちにして本船は四方八方より簇り来る彩旗の船に囲まれつゝ徐々として港内に入り、予定の錨地に就けば、船梯は卸されて先づ検疫官は乗り移れり、僅かに本船と数間の距離に在るランチよりは外廊に立てる一行の誰々なるを識別し得べく、帰旅途上病に罹れりとの報ありし青渊先生の姿の外廊に現はれし時は、覚えず万歳の声挙り、先生もこれに答へて頻りに絹帽を振り、極めて壮健の体に見えしも嬉しく、各歓迎船はいづれも迎へんとする主人公を見出しては其名を呼びて歓呼する状を、物珍らしげに打眺むる外国船客も多く、人形のやうなる愛らしき子供を抱きて、美しく飾られたる歓迎船を指しつゝ何をか子に打語る西洋婦人もありき、検疫始まりしと覚しく、外廊の人影は皆船室内に入り階下室の二等船客は外廊に整列して検疫を受け、其間小一時間を費したるが、上船を待ち兼ねたる歓迎船は犇々と舷梯の下に詰めかけ、人に先んじで上らんとして船員に追ひ下ろさるゝもあり、山の如く満載されたる歓迎人は船より船に伝ひて本船に接近せんとするあり、その危険云ふべからず、本船々員は飽くまで上船を防ぎて時間を費し、漸く許可が下るや各船の人何れも先を争ふて上らんとし、舷梯の混雑危険甚だしく、小蒸汽船は一方に傾きて舷危く水に入らんとするの有様にて、僅に一部分の人のみ上船し得たるに過ぎず
五十余人の一行を彼処此処に捉へて談話を聞かんとする新聞記者、無事の安着を賀する知人など、船内は右往左往、先生を初め一行は一方にて祝辞を雨と浴び、一方には記者の手帳鉛筆責に忙殺さるゝ有様なりしも、三箇月の海外修業に馴れ切つたるものにて、欣々として愉色に満たされつゝ忙中に要を語り、其交際振り渡米前のその人に比べて水際立て見られたりき
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.396-397掲載)


 1909(明治42)年12月17日(金) 横浜上陸後、横浜商業会議所による歓迎会に出席

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41

△横浜商業会議所の歓迎 斯くて午前九時四十分となり、一万三千八百噸の巨船は八戸繋離指揮官の先導により、恙なく岸壁に横附けとなり、万歳の声は雷の如く、余韻海面に轟き渡り、音楽隊の奏する歓迎の曲に和して盛なり、先生始め一行は上陸地点なる新港第六号上屋の周囲紅白の幔幕もて張詰め、国旗・彩旗翩翻たる式場に入りぬ、此処には東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋六商業会議所員、実業家家族・親戚知己等一万有余の歓迎者一行を迎へ、横浜商業会議所副会頭来栖壮兵衛氏起ちて歓迎の辞を読む
  ○歓迎ノ辞ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
右に対し青渊先生は、満面笑を湛へて次の如く挨拶せり
  ○栄一ノ挨拶ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
△握手の包囲攻撃 拍手喝采の裡に此答辞を終りて将に式場を立去らんとするや、先生と相識の人々は一斉に先生の周囲に推寄せ、前後左右より握手を求めぬ、其お手は殆ど引切れんとしたるべし、流石に此包囲攻撃には頓と閉口して暫時立往生となりしも道理、一西洋人の如きは、其様を見て気の毒とや思ひけん、一旦差出したる手を引込めて其場を立去りぬ
△横浜発車 辛うじて此の群衆の裡より身を脱したる一行は、兼て用意しある馬車・人力車に打乗り、車声轢轆停車場に向ひしが、岸壁より万国橋を経て裁判所前位に至る途の両側には、歓迎人堵の如く整列し一行の通過に対して万歳を唱へ、歓呼の声到る処に湧き返へれり、斯て一行は十一時十分の臨時列車に搭じ、同五十三分新橋に着して、爰に目出度く前後四箇月間の光栄ある旅行を終へたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.397-398掲載)

 

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.473-492

 ○第一編 第十章 帰朝
     第一節 上陸
[前略] 九時下船し、税関上屋内に於ける横浜商業会議所の歓迎式に臨む。団員一同式場に着席するや、来栖横浜商業会議所副会頭は起て、左の歓迎の辞を述ぶ。
     来栖副会頭の辞
渡米実業団長及び団員諸君
回顧すれば諸君は本年盛夏の候を以て、友邦視察の途に上り、爾来数閲月、親しく農工商業の実況を視、洽く都市の経営を察し、或は教育の場に出入して米国文明の由来を考へ、或は誼を朝野の貴紳に結びて友邦通交の途を講ずる等、観光旁富国の策に於て研究する所極めて多かるべきを信ず。則ち諸君の旅程は尋常一様汗漫の遊に非ず。実に我邦公私の厚望を満たし、光輝ある成功を齎らしたる者と謂ふべし。吾人は諸君が此旅行における研究を、将来の事業に放出して、其各方面に於ける企画経営、必ず面目を改むる者あるべきを信じて疑はず。横浜商業会議所は、茲に諸君の帰朝を迎へ、諸君の成功を頌するを光栄とし、一言を述べて歓迎の辞と為す。
     渋沢男の答辞
副会頭及び臨場の淑女紳士、我々実業団が今日芽出度帰朝致しましたに就て、地洋丸が此港に着するや否や、当横浜商業会議所は、斯る丁重なる方法を以て、吾々を歓迎して下さる事を、吾々一同深く感謝する次第であります。歓迎に就ては米国に於て凡そ百回ばかりも受けましたから、稍々其事には慣れて居ると申上ても宜しう御座います。けれども斯の如く言葉が分り、一章一句も通訳を要せずして答辞を申上ぐるは、今日が始めてゞ御座います。此愉快は吾々の心の有丈を、皆様が十分御諒知下さるであらうと思ふので御座います。吾々の任務は甚だ大である、此大を大ならしむる丈に、自分等の能力の無いのを愧づる次第でございます。(ノウノウの声頻りに起る)併し幸に過失なく予期の如く旅行を終りまして、此所に於て諸君にお目に掛り、且つ斯の如く着早々に愉快なる歓迎を受けました事は、実業団一同の最も感謝に堪へん処で御座います。尚ほ吾々一同の見聞した事に就ては、是から追々諸君に御報道する機会があると信じます。
終りて一行の紀念撮影をなし、直ちに馬車を列ねて、横浜停車場に向ふ。沿道の彩飾美観を極む。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.399-400掲載)

 

 1909(明治42)年12月17日(金) 東京に移動し、東京商業会議所で帰朝歓迎会。渋沢栄一は宮内省へ参内

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41

   ○東京の歓迎
△新橋駅の壮観 団員を乗せて恙く入港せる地洋丸の雄姿を横浜に迎へたる家族・親戚・知己の大半は、午前十時四十分発列車に乗り、一行に先じて帰京せるが、十一時半列車新橋に着して改札口を出づる者少く、概ねプラツトホームに群集して臨時列車の到るを待つなりき、又新橋停車場内外は歓迎者の為めに宛ら蟻塔を崩せしが如くに、見渡す限り人を以て埋められ、停車場前広場には中央僅かに行路を剰したる外、市内各区各商店より出迎へたる人々の手に手に捧げし町旗・店旗は、其の色紫緑紅白のとりどりなる、何れ小春を偲ぶ初冬の風に翻へり、勇ましくも賑かなり、何々様御出迎へ、誰々様御出迎へと記せる白地の長旗、亦た打続きて地上を彩り、仰げば蜘蛛手に渡せる万国旗亦美しく中空を飾りぬ、空は晴れて一碧秋天の如く、地は凱旋軍を迎ふる如く立錐の所もあらず、胸に赤章を附けたる係員馳駆して群集の間に斡旋し、フロツクコートの紳士プラツトホームに充満し、又多数の婦人の流行の粋を集めて屯集せるは、恰も此処に東都の富と流行を併せ観るが如く、剣光帽影の燦爛たるに馴れし新橋停車場は、記録を破りて珍しき歓迎者に充てり
午前十一時五十分、臨時列車着するや、先きを争ひて車窓に家父兄弟知己を吟味し廻る人々、誠に肩摩轂撃の光景を呈し、其の互に見当りたるは嬉々として握手し、感極りては遽かに挨拶の言葉さへ出でざるもあり、歓迎者中最も多くの人の求めらるゝ青渊先生は、歓迎の人波にもまれて容易に其姿見え申さず、斯くて正午を過ぐる十分、漸くにして一行は車寄に出で、一行の分乗せる馬車は日米両国旗を車頭に交叉し、二葉町河岸を右折日吉町に入り、数寄屋橋を渡りて東京商業会議所に到れる、此間煙花空に響きて勇ましく、歓呼沿道に鳴りて、壮観いはん方なかりき
△青渊先生の参内 団長青渊先生は新橋に着するや、単身自動車を駆りて市民歓呼声裡に参内し、侍従長を経て渡米団一同を代表して天機を奉伺し、併せて帰朝の御挨拶を言上し、即刻退出して東京商業会議所の歓迎式場に臨まれたり
△東京商業会議所の歓迎 車馬絡如として、殿堂風の歓迎門を設けたる商業会議所は、小村外相・大浦農相を始め、朝野の紳縉を以て充たさるゝに至れり、号砲一発、実業団の帰着を報ずるや、参着の歓迎者益々繁く、頓て参内を済せし青渊先生は馬車を駆つて来著し、間もなく一同参着せり、長途の行程にも拘らず各自の元気頗る旺盛にて、無事を祝せる握手は其処此処に行はる、別室にて休憩するも少時、一同階下に降り立ちて各実業団体の歓迎を謝し、此等の団体は紅旗紫幟を打ちふり、星野氏の発声に団員万歳を三唱し、次で歓迎の式を開かる式場は会議室を以て之に充つ、嚠喨たる奏楽裡に一同着席し、東京・京都・大阪・名古屋・横浜・神戸の六会議所を代表して、大橋新太郎氏左の歓迎の辞を朗読す
  ○「歓迎の辞」ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
次で小村外相登壇し述べて曰く
  ○後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
次で大浦農相登壇述べて曰く
  ○後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
次で松尾日銀総裁は、一行の無事帰朝せられたることを祝すると共に一行が日米親交の上に致せる効績を感謝し、星野錫氏又聯合実業組合を代表して歓迎の辞を述べ、終て先生は一行を代表して答辞を述べて曰く
  ○栄一ノ答辞ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス。
之にて歓迎式を終り、更に解団式に移れり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.398-399掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.473-492

 ○第一編 第十章 帰朝
     第二節 歓迎式
午前十一時十分特別列車にて横浜を発し、東京に向ふ。新橋停車場の歓迎亦盛んなり。而して一行は差廻されたる馬車にて東京商業会議所に達し、東京外五会議所聯合の歓迎式は、同商業会議所内に於て開かる。渋沢男は団を代表して、直ちに宮内省に出頭、宮内大臣を経て無事帰朝の旨闕下に奏上せり。式は午後零時三十分を以て始まり、大橋新太郎氏委員総代として、先づ歓迎辞を述ぶ、小村外相・大浦農相・松尾日本銀行総裁・星野東京実業組合聯合会長等の祝辞、渋沢渡米実業団長の答辞を以て、午後一時半終了せり。
     東京商業会議所副会頭大橋新太郎君歓迎之辞
東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋の六商業会議所は、本日我渡米実業団員各位の帰朝を迎へて、茲に謹んで歓迎の式を挙ぐ。
回顧すれば昨秋、我商業会議所の米国太平洋沿岸に於ける実業家を招請して、握手交驩其の誠を尽すや、米国商業会議所は本年に至り更に我実業家を招致して相互の親交を温め、通商の増進に資せんとせり。茲に於てか我等商業会議所は、特に各位に請うて親しく米国の各市を訪問し、是れが懇儀に応へられんことを以てせり。爾来四閲月、各位の熱誠にして勤勉なる、全米国五十有余の都市を歴訪して我赤誠を披瀝し、交驩尽さゞるなく、修好及ばさるなし、蓋し米国に於て各位を迎ふるに空前の盛儀を以てしたるもの、亦故ありと謂ふ可し。而して斯の如くにして、爰に日米実業上の城府を撤去し以て、彼我実益交換の発達を増大し、延いて実業の鎖鑰を緊密にして、以て国交の親善を助長するを得べきなり。是れ実に我等の各位に深く感謝の意を表する所なり。思ふに各位の米国に在るや、風俗習慣の異、風土季候の変、或は各位の健康を害し、或は各位の精神を労したるものあらん。是れ我等本土に在るものゝ、日夕憂慮措く能はざる所なりし。然かも各位の勇壮なる、急激多忙なる大旅行を継続して、更に何等の異常なく、所期の目的を遂行して、今日愉快なる帰朝を見るに至る。是れ実に我等の欣喜措く能はざる所なり。
我等六商業会議所は、茲に重ねて感謝と満足の誠意を表し、謹んで各位の健康なる帰朝を歓迎す。
   明治四十二年十二月十七日
     外務大臣伯爵小村寿太郎君祝辞
閣下、諸君、今日此盛大なる歓迎に参列するを得ましたのは、誠に光栄と致す所でございます。渡米実業団の諸君が熱心に尽すべきを尽され、予定の目的を達せられて、今回無事帰朝になりましたのは誠に欣喜に堪へぬ次第でございます。
茲に諸君の御成功を祝し、併せて御健康を祈ります。
     農商務大臣男爵大浦兼武君祝辞
閣下、諸君、本日は渋沢男爵其他諸君が米国より御帰朝になりまして、斯の如き盛大なる歓迎の席に臨みますのは、最も光栄とする所でございます。我国の最も有力なる声望ある所の諸君が、米国の招請に応じて我国の商工業者を代表して、殆ど四ケ月の御苦労になりましたことは、之を国家の為めに祝すると同時に、最も私の喜ぶ所でございます。此間に於て米国の官民の非常なる歓迎を受けられまして、至る所彼の国の紳士紳商と談話を交へ、最も意志の疎通を計られたと云ふことに於ては、我国の太平洋上に於ける貿易の発展上頗る有益なることゝ感じます。而して各市の諸工場、其他実業上に関する所の、最も嶄新なる施設を御見聞になりましたに付きましては、将来我国の為めに其嶄新なる所を以て、我国の商工業貿易上の発展に貢献せられんことを、偏に切望致します。今日は渋沢男爵其他の芳顔に接しまして、茲に祝意を表し一言申上げます。
     日本銀行総裁男爵松尾臣善君祝辞
渡米実業家各位
各位曩きに北米合衆国太平洋沿岸商業会議所の招待に応じ、我実業界の各方面を代表して同国へ渡航せられ、今や海陸長途の旅程を終へて無事帰朝せらる。各位の米国を巡歴せらるゝこと約四ケ月、到る処に非常の款待を受けて、足跡を重要の都市に普くし、或は交驩応酬に或は視察研究に、一の寧日なかりし盛況は、余等の夙に伝知せる所なり。各位今次の壮遊は彼を知ると同時に、彼をして我を知らしめ、日米両国民公私の交誼をして、益々親善ならしむるの効、既に甚だ顕著なるものあり。聞く米国人士は各位を目するに実業界の特派大使を以てせりと、余等の各位に期したる所亦此に外ならず而して各位は遺憾なく其使命を遂行せられたるものなり。各位の旅程は今日を以て終ると雖、其効果は決して今日を以て尽くべきにあらず。米国は我善隣の友邦にして、且つ貿易上の好華客たり、其経済上の施設に至ては、取て以て参考に資すべきもの頗る多し。左れば各位の渡米によりて結ばれたる諸種の関係は、今後我国民を裨益し、殊に我経済上の発達を助長すること極めて大なるものあるを疑はず。茲に各位の帰朝を迎ふるに当り、各位の成功を祝し、我実業界の為めに尽されたるの労を謝するは、余の光栄とする所なり。
     東京実業組合聯合会々長星野錫君祝辞
国際通商条約は、相互国民の相知り相信じ、其情誼の歓密に基かざるべからざるや言ふを竢たず。我邦の米国に於ける、其交誼の親密にして情意の歓洽せる、日や已に久し。曩には我商業会議所の招請に応じ、彼地実業団の来りて我邦に観光するあり、嗣で我重立ちたる商業会議所の代表者諸君は、彼地実業団の招待に依り、遠く彼地に渡航せられ、彼我両国民の相知り相信ずるの道に於て、亦遺憾なからしめんとす。諸君の任務たる実に重且大なるものありき、而して諸君巡遊の際各地到る処熱心な歓迎を受けられ、其余声は我邦に反響し、既に已に諸君の成功を発揚するに足るものあり。吾実業界の幸慶何者か之に加へん、今や光彩ある諸君が平安無事なる帰朝を迎ふるに当り、諸君が彼地に於て実際に親睹目撃せられたる実業経営の方法、通商取引の状況等、吾人が鶴首翹望して教を請はんと欲する処の者一・二に止まらずと雖ども、特に茲に両国民の間に於ける歓密の情誼を敦うし、以て将来通商上の福利を増進せられたる、無形の賜の至大なる者あるを颺言して、衷心より其労を謝し、併せて其健康を祝す。之を歓迎の辞となす。
   明治四十二年十二月十七日
     渡米実業団長男爵渋沢栄一君答辞
閣下並に来賓諸君、久々で斯く御打揃ひの皆様に拝眉を致しますのは、第一に一身に取つて此上もない愉快でございます。而して斯かる御席に私が団員を代表致して、茲に受けた歓迎の御答辞を致しますのは、光栄此上もございませぬ。
今般の旅行に付きましては、既に業に新聞で至る所の模様を御報道も致してございまする、で繰返して各地の有様を陳情するは、頗る繁雑に渉つて、寧ろ効能がなからうと思ひますが、大体に約めて申しますると、私共……団員中総てとは申しませぬけれども、不肖ながら団長の任務を持ちました私が、不肖も顧みず斯かる任務を持つて四ケ月の旅行を致しましたのは、実に恐懼に堪へぬのでございます。而して其旅行が誠に都合宜く、各地に於て満足な歓迎を受け、情意も十分交換し得られたと思ふのは、蓋し是は予想の外と申す他はございませぬ。是は全く団員の自身の力で為したとはどうしても思はれませぬ、国家の効能が我々の団員に影響したものと思ふ他ございませぬのであります。
果して斯く解釈致しますれば、寧ろ我々が此臨場の諸君に謝辞を申し、臨場の諸君を歓迎せなくてはならぬので、歓迎を受けるは頗る恐縮の至りでございますけれども、身其衝に当りましたに付て、茲に斯かる盛大の歓迎を受けまするは、又以て望外の仕合と申上げなければならぬのでございます。
航海中を除きまして「シアトル」に到着以後、桑港に帰りますまでが丁度九十日、廻りました場所が五十三ケ所、至る所に随分丁寧なる御饗応を受け、一面には親しく事物を見、又演説も頗る沢山伺ひました。故に今日斯の如き皆様御打揃ひの演説が、平生であつたら長きを厭ふのでございませうが、亜米利加から帰つた考から見るともう少し御長くやつて下さつたら、更に聞栄えがあるやうに感じて外務大臣の御演説などは、余り御少ないに失しはしないか、亜米利加風からは寧ろ無さ過ぎると申上げたい位でございます。併し之に引換へて私が長いことを申すと云ふと、御馳走より御返礼が余り多過ぎますから、成る丈私も極短く致して御礼を済すやうに致しませうと思ひますが、唯我々が此巡廻を致しましたに付て、一つの守本尊がございます。此守本尊だけは出立の際に、芝の離宮で申上げて置きましたが、それは愛国の情を以て、始終奉公の念で尽さうと云ふのが団員一同の祈念でございます。此団員一同の祈念が、或場合には種々なる風も吹き、雨も降り、少々づゝは物議が起きぬでもなかつたかも知れませぬ。それは私の耳までには入りませぬけれどもありつらんと想像する。併し其風雨は総て今の愛国の情と云ふものが強いために、皆鎮圧して、為めに一同が誠に無事に、又身体も健康に今日帰着をして、斯の如き盛大なる歓迎を蒙ることを得た次第でございます。又各地に廻りまして、米国の凡ての方面の方々と会し、且つ談話すると云ふことに付ては、何を主義と致したかと云ふと、唯誠を以て接遇するだけでございます。我々は智恵もございませぬ、学問もない経歴も甚だ少ない。斯かる身体を以て唯一生懸命に、是誠是一、之を以て仮令百万の敵でも、一身万人に敵すると云ふことを主義として接遇するが宜からうと云ふのが、是が団員の堅く守つた方針であつたのでございます。蓋し此方針は、先づ前後貫徹致したと申上げて間違ひはなからうと思ふのであります。
此を以て赫々たる効能はございませぬけれども、幸に過失なく、先づ日本の状態を至る所に十分に吹聴し、又彼の事物若くは人物に接遇する毎に稍々其真相を知り得たと申上げるに躊躇致さぬのでございまする。でそれ等に付て唯此一場に申尽すことは出来ませぬから追々亜米利加の美点は此所である、亜米利加の希望は斯く斯くである、是から先きは斯くありたいと云ふことは、機に触れ物に付て、銘々愚見を申上げ得る機会があらうと思ひまするので、今日は歓迎の御席で申すは尚早しと申上げたうございます。私は茲に右等のことを綜合致して、甚だ拙作でございますけれども、一の詩を朗読致して、諸君の清聴を涜します。極く拙劣な詩でございますから、斯かる御多数の前に申述べるは、余程恥うございますけれども、今申述べたる精神が此一詩に含んで居ると思ひまするで、文字の拙劣をば御笑ひ下さるとも、精神だけはどうぞ御採用を願ひたいと思ふのであります。
  舟車二十一千里 路似聯珠縈作環
  到処只聞邦土富 一誠酬得万情還
斯う云ふ拙作を以て、旅行の精神と自信したのでございます。想返すと丁度船と陸で行程が四ケ月でございます、此四ケ月の間に、船を除きまして、三ケ月に五十三ケ所の巡廻と云ふことは、丁度浦島の子が竜宮に行つたやうな有様で、四ケ月が四年であるか、四十年であるか、将た四百年であるが如き、歳月を感ずるやうでございます。若し文明の利器が斯の如く整うて居らなんだならば、迚も斯かる大旅行が、四ケ月の間に出来まいと思ふと、昔の浦島を唯一の夢物語とせぬでも宜いが如くに感じるのでございます。但し浦島の子は、銘々一つ宛の玉手箱を持つて帰つたらうと思ひますが、私も団員も皆此玉手箱を今日は明けませぬ。何故明けぬかと云ふならば、之を明けると直ぐ白髪になる、そこで此玉手箱を始終仕舞つて置いて、或場合に少しづゝ明けやうと考へます、どうぞそう御承知を願ひます。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.400-404掲載)

 

 1909(明治42)年12月17日(金) 東京商業会議所で歓迎会に続き解団式開催

竜門雑誌』 第260号 (1910.01) p.35-41

   ○渡米団解散式
中野委員長は米国に於ける旅行の概要を報告し、次に青渊先生は解団式告辞を述べられたり、即ち左の如し
  ○解団式告辞ハ後出「渡米実業団誌」ニ掲載セラレタルモノト同一ニツキ略ス
いとも森厳に解団式を行はれ、午後二時半拍手喝采裡に芽出たく散会を告げたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.399掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.473-492

 ○第一編 第十章 帰朝
     第三節 解団式
前項歓迎式に次ぎ、直に解団式を挙げ、中野委員長の報告及団長に対する謝辞、渋沢団長の告辞を以て終れり。
     解団式報告       委員長中野武営
我が実業団は明治四十二年八月十九日を以て本邦を発し、同十二月十七日を以て横浜に帰著せり。其間九月一日より十一月三十日に至るまで九十一日間、初めシヤトル市に上陸して、当時開設中のアラスカ・ユーコン博覧会をも見、夫れより中央北部を横断して、東部各都市を歴訪し、更に中央部より西部カリフォルニヤに至るまで、各鉄道会社の線路を走ること約壱万四百哩。州を閲みすること二十六、大小都市を訪ふこと五十三。一面商工業の実況を視察し、一面日米両国間の親交を進むることに之れ勉めたり。此間各鉄道会社の好意を以て、特に一行の為めに供せられたる別仕立汽車に便乗し、太平洋沿岸聯合商業会議所会頭ローマン氏を首め、各地商業団体と、合衆国政府より選出せる接伴委員諸氏の懇切なる斡旋紹介に依て、親しく各地の工場・銀行・会社・鉱山・農場・学校等を参観し、名士としてはミネアポリスに於て謁見の栄を得たる大統領タフト閣下を首め、ブライアン、ロックフェラー、ノックス、ヒル、オブライアン等の諸氏に会見し、或は故英雄の墳墓を掃ふこと、ワシントン、ペリー提督、グラント将軍、ガアフィルド、タウンセンド・ハリス数回に及べり。桑港を発するに当りては、米国太平洋沿岸側の各市商業会議所と、我等商業会議所の間に於て、両国間の通商上に関する議件を協定せり。特にシヤトル、タコマ、ポートランド、スポケーン、ニューヨーク、デンバアー、ロサンゲレス、サンフランシスコ等同胞の多数在留せる地に在つては、或は演説会に臨み、或は来訪者に接して、彼等の現状を聞くと同時に又母国に於ける形勢をも之を知らしむるに勉めたり。最初定められたる行程の外、特に視察を要すべき地、例へばカナダ、ニューオルレアン、テキサス、カリフォルニヤ等の地方に対しては、団員の中より分派して視察を遂げたる者あり。更に帰航の途次布哇に立寄り、其地商工業の実況及在留同胞の現状をも視察するを得たり。尚米国旅行中は渋沢男爵を団長に推し、別に委員長及常議員会を組織して、緊急の団務を処理し、特に水野紐育総領事に団務の斡旋を嘱托せり。其他松井代理大使・埴原書記官・田中シヤトル領事・沼野ポートランド領事・松原シカゴ領事及永井桑港領事等の、其管区内に於ける諸般の斡旋及各地日本人会員等の助力に対しては、之が労を多とせざるを得ず。
終りに臨んで、米国々民の深厚なる友情と懇切なる款待を受けたる光栄を謝し、殊に団員四十余名中已むを得ざる事情の為、中途本団と別れて或は先に帰国し、若くは彼地に留まる者二・三ありしと雖も、彼の異郷の風土に長途の旅行を為して、毫も健康を損することなく、爰に使命を全うするを得たるは、吾人の欣喜措く能はざる所なりとす。
以上は我実業団が、往復四ケ月に弥る行動の概要に過ぎず。尚詳細は他日編纂すべき団誌の発行を俟つて、之を知らんことを希ふ。
     告辞         団長男爵渋沢栄一
報告は是で相済みましたから、茲に解団式を挙げますに付て、一言私は団員諸君に陳情を致して置きたいことがございます。今般の渡米実業団が、前後四ケ月の大旅行をして、茲に其終りを告げて解団式を挙ぐるに至つたのは、御互に最も喜びと致す所であらうと思ふのであります。而して是迄不肖ながら一団の推す所となつて、団長の職務を帯びて、此四ケ月間米国に於ける各地を旅行致しましたが、幸に何たる不平も物議もございませぬで、至る所各地の深厚なる款待を受けて、此旅行を終るを得ましたのは、蓋し私の功労ではなくて、諸君が自身を深く御大切になすつて、団長と致した以上は、努めて其者の意思に従ふ、さうして此一団を美しう好結果を結ばせやうと思召したに出たと思ひますので、其衝に当つて事々物々恐懼謹慎、事を処しました積りではございますけれども、定めて諸君の或は意に満たぬ、或は注意の足らぬと思召されたことが多々ございませうと思ひます。呉れ呉れも深く陳謝致し、御互に大任務を終るを得たることを喜びます次第でございます。
抑此旅行は、一種の国民的外交の動作と云ふべきもので、実に本邦空前の事で有たのです。是故に前例の何か拠るべきものもなかつたし、又先輩に就て如何にやつて行つたら宜かろうかと云ふ、方法の聞きやうもなかつたのであります。故に其当初御互に此国を発する時分からして、如何なる成績を見得るか、或はえらい不都合なることでも生じはせぬかと、段々憂慮に堪へぬのであつた。然るに当初御申合した如く、愛国の熱誠を以て一団の精神としやうではないかと申上げたことは、私自身も守る積りであつたが、諸君も十分御守り下さつて、其精神を以て総てを処置した為め、今日帰国の後に既往を回想して見ますると、固より効果の見るべきものはございませぬけれども、聊か報公の微衷を尽して、国家に裨益したことがありはせぬかと思ふのでございます。偖て実業団の亜米利加にある間の仕方がどうであつたかと云ふと、先づ太平洋沿岸に於ては、排日感情の融和を図つて、又中央部に至りましては ―― 即ちアナコンダ以東に至つては ―― 努めて米国人をして能く本邦を知悉せしむるの手段を講じたのです。是れは如何とならば、どうも中央部は取引も少し、交際も乏しい故に、亜米利加の人々が、日本を知ることが甚だ浅薄である。努めて故に日本は斯う云ふものである、日本人の気性は斯様である、日本の事物は斯く斯くであると云ふことを、能く御知らせ申すと云ふことに努めたのでございます。又東部に進んでは、彼我商工業者間の意思疏通を図り ―― 勿論ニューヨークなり、ボストンなり、相当な商店もあつてそれそれに取引も致して居りますから、西部の日本に疎い如き土地ではないのです ―― 是等の人々に就て又更に亜米利加の有力者の事情をも聞き及、又日本の総体の商工業者の意向をも通徹して、而して更に通商の増進を促さんことを期したのでございます。思ふに我実業団の今回の渡米は今後本邦の商業界には、或は新しい地域を開拓し、且つ米国人をして日本及日本国民に対して、大に闡明することあらしめたるが如し。或は自負の言葉に渉るか知りませぬけれども、此我々の一行の尽力が、亜米利加の人々をして日本の人民は、斯う云ふ性質であつたと云ふことを、了解せしめたゞけのことは、或はあるであらうと思ふのでございます。さうして亜米利加の日本に対する感情は、西部に於ける一種狂暴の徒を除く外、例へば労働者協会等の種類の人を除く外は極めて良好なるのみならず。殊に其排日地方と雖も、多数の有識者は皆自国民の誤解を正して、感情の融和を計るに尽瘁することを認めましてございます。桑港、オークランド、ロサンゲレス、サクラメント、サンディアゴ等、総てあの辺の各地に就て、有識の人々に聞きました所、決して偽りではございませぬ。要するに米国人が我と親善し、以て商工業の関係を増進せんとするは、蓋し国論と云ふを得べく、上下一致切に之を希望する所なれども、商業的即ち平和の競争者として、我当面に立たんとする意気は、実に争ふべからざる事実にして、亜米利加人の気性、亜米利加人の事業に努めて、自国の事物を益々進めて行かうと云ふこと、是は誰れも国を愛し、業を勤める人の、皆希望する所ですから、固より其所であるが、余程其力も強し又精神も強い。故に平和的事業の競争者と云ふものには追々になると云ふことは明言される所であつて、其言語にも其行作にも、総て出て居ると云ふことを理解せねばならぬ。一例を言はうならば航海奨励を頻りに日本でやるから、亜米利加でもやらんならぬと、大統領が常に言はれて居るが如きことに付ても、其気性及事実を証明し得られると思ふのであります。
其他今回の旅行中、至る所の各都市に於て、会見した所の人の内、位地と勢力との如何を問はず、有力の紳士は等しくそれを唱導して居つた。此故に我国民即ち我々は向後は益々親密を図つて、是が良好なる友邦たらんことを以て、我国論とすると同時に、通商上に於ては、一個の好敵手として、十分に力を争ふと云ふことを期さねばならぬのである。即ち、他山の石以て我玉を磨くべしと云ふことになるから、其覚悟を以つて我国民も力を尽さねばならぬと云ふことを申上げるのでございます。今や此団を解くに臨んで、初め此の旅行を促した米国太平洋沿岸聯合商業会議所の好意を鳴謝し、併せて米国官民の深厚なる款待と、在米帝国官憲の注意深き助力とに対して、誠心誠意感佩の意を表す。之を以て此団を解く告辞と致します。
次いで中野氏再び立つて、
  『昨日船中に於きまして団の総会を開きました、其総会の決議により、私より団長に御挨拶を致します、此度の旅行に付きまして、我実業団は、一致を以て渋沢男爵を団長に推しました処、幸に御承諾下さつて、渡米以来終始一貫非常なる勤勉を以て、我団を御指導下さつて、総てのことに付て、非常なる御苦労を下さつたことであります。又団全体が米国に於きまして各所に懇切周到なる款待を受け光栄を与へられた上に付きましても、団長の十分なる名誉と多年の御経歴ある所の御力とが、我団に重きを為した次第であらうと思います。即ち昨日の総会の決議に基きまして、私が団員を代表しまして、渋沢男爵が団長となつて努められたる所の、御苦労に対する感謝を表します。』
と団長に向つて謝辞を述べ、これにて全く式を終り、別室に用意せる午餐を共にし、嬉々談笑の後、各自其家に帰れるは、午後三時頃なりき。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.404-407掲載)

 

 1909(明治42)年12月17日(金) 渋沢栄一の演説「巧妙ニシテ、小村外相ノ歓迎演説ノ余リニ簡単冷淡ナルニ対シ、当意即妙、鋭利ニシテ然カモ円満ナル批評ノ如キ」

十島親徳 日録 1909(明治42)年 (八十島親義氏所蔵)

十二月十七日 晴天
○上略
今日ハ男爵始渡米団一行ハ目出度帰着ノ日取也、人々ハ早天ヨリ横浜ヘ出迎ハレシモ、予ハ寒風ニ曝サルヽノ健康ヲ害スヘキヲ恐レ乍遺憾之ヲ略シ、正午箱車ニ乗シテ商業会議所ニ至リ、初メテ男爵及令夫人ニ拝顔シ、親シク健全ナル男爵ノ謦咳ニ接シ欣喜已マス、而シテ男爵ガ、予ニ向テ発セラレタル最初ノ言辞ハ、予ノ健康ニ対スル尋問ナリキ、今日ハ一行ハ、新橋ヨリ直ニ会議所ニ於ケル歓迎会並ニ解団式ニ臨ム為会議所ニ集合セルナリキ、只男爵丈ハ一寸宮内省ヘ出頭シテ天機奉伺ノ手続ヲ了セラレタル上来着セラレタルナリキ、男爵ハ天洋丸(地洋丸)船中ニテ数日前ヨリ下痢ニカヽラレタル由ナルモ、渡米前ニ聊変ルナリキ(衍)ノ肉付、且御血色ナリキ、令夫人モ亦聊疲労ノ色見ヘサルハ目出タシ、予ハ歓迎式ノ末席ニ列リ、終リテ帰宅ス、同式ニ於ケル男爵ノ答辞中々巧妙ニシテ、小村外相ノ歓迎演説ノ余リニ簡単冷淡ナルニ対シ、当意即妙、鋭利ニシテ然カモ円満ナル批評ノ如キハ、実ニ巧ヲ極メタルモノナリキ、米国ニ於ケル殆連日到ル処ノ演説ノ巧妙ナル神田男ヲシテ、嗚呼只ノ一度デモ米人ヲシテ直接男爵ノ口演ヲ理解セシメタカリキノ感嘆ヲ発セシメシトイウモ、無論(無理)ナラヌ事ト感シタリキ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.407掲載)

 

 1909(明治42)年12月17日(金) 日本での報道「実業団の帰来」(東京日日新聞)

東京日日新聞』 第11862号 (1909.12.17)

    実業団の帰来
我邦観米実業団の米国に在ること前後三ケ月、其間常に南船北馬、或は工場に或は銀行会社に、臨覧巡閲絶て寧日あることなし、今や全く所期の観察を終へ、本日を以て我邦に帰来せんとす、卿等の一行は実に我邦実業家の粋を抜きしものにして、此行唯に日米両国間商工業の連鎖発展に多大の効果あるべき而已ならず、排日問題以来、動もすれば日米の国交幾分の障礙を来さんとするの傾向ありし状勢を打破し、之を寛和氷解せしめしの効験も亦尠なからずとす、吾曹は米国当局者の優待歓迎到らざる所なき好意に対し、甚大の謝意を表すると同時に卿等一行の能く我邦実業家の代表として、内外国威国福の発揚に勉めしを謝せずんばあらず。
卿等が米国の商工業を視察し、物質的文明の昌大なるを実験し、新興の国其元気の横溢する所を看破し、此間に於て卿等の感得せし所蓋し多大なるものある可し、一会社一工場の経営組織方法に関し、詳密なる智識を有する者夫れ或は是れあらん、然れども合衆国実業界の全体に渉り能く其大局の智識を有する者、蓋し卿等に優る者あるなく、爾来我邦の対米実業策を講ずるや、卿等を措て復た他に信頼する所ある可からず、個人の視察、官憲の報告多くは是れ素人の調製に懸り、卿等の如き斯道専門の士の観察獲得せし結果に比すべきに非らざるや勿論なり、此回の行、卿等の中、或は以て一時の御祭騒ぎに過ぎずと為す者あるや保す可からずと雖も、国家の卿等に待つ所頗る深厚なるものあるを知らざる可からず。
従来使命を帯びて閽外に出でし者、官民共に其人に乏しからず、其閽外に在るや、鋭意焦心、以て使命に負かざらんとするの気慨に富むといへども、其任満ち命果つるに当てや、当年の気慨全く銷散し、殆んど一時風雲の去来するに異ならざるの感ある者多し、国家の不利蓋し容易ならずとす、若し夫れ閽外の任、単に一時の献替に過ぎずんば、任満ち命果つるに臨み、気慨銷散、風雲去来するも夫れ或は可ならん然れども使命の永久に渉り、長へに国運の伸縮に関する者に至つては須らく常に当時の気慨を有し、以て国家の負託に背かざらんことを期せざる可からず、事は一時の復命を以て足れりとするものに非ざるなり。
撰ばれて卿等の米国に赴くや、国家の卿等に待つ所既に深厚にして、其獲得せし智識多大なるものあるべきや必せり、対米の商策も多く卿等の智識に待ち、日清貿易の発展も亦卿等に頼て重きを為さんとす、吾曹今直に卿等に向ひ、其獲得せし感想を聴かんと欲する者に非ず、然れども行李解け旅情癒ゆるの後、須らく其感想を公表せんことを望む、国家の卿等に期待する処既に斯の如し、卿等の之に酬ゆるの道唯二ある而已、一は其獲得せし感想を公表して官民の施設に資し、一は閽外当時の気慨を失はず、永く之を持続し、以て国家の負託に背かざるにあり。
由来日本人の常習として、内に強く外に弱く、公衆に対し其感想を披瀝するが如き場合に臨み、頗る怯懦なる者多し、謙譲自遜、徳は乃ち徳たりといへども、機に臨んで怯なるは男子の事に非らざる也、感想の優劣豈吾曹の問ふ所ならんや、帰来黙々として聞ゆるなくんば、卿等遂に国家の負託に背き、閽外の任を空うし、風雲去来の誹を受くるに止まる、卿等夫れ之を諒せよ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.410-412掲載)