九州旅行と猫の死 1

僕のゴールデンウィークは遅らせて取った。六日の日曜日から十二日の土曜日までである。自営業はこのあたり、わりと自由が利くのである。一週間も取るには訳がある。九州大分にいる母に会いに行きたかったのと田植えの準備をするためなのである。

十一日の土曜日、仕事が終わったのが午後五時前。それから大慌てで自転車、絵画道具、カメラと着替え等々ゴルフヴァリアントに積み込んで南港フェリーターミナルへ。実は心には一抹の不安があったのだが押し通しての出発だった。それというのも飼っている猫の一匹が癌を患っていてもう相当に悪く、餌を食べられなくなっていたのだ。家を出る前に家内に看病を託し、本人には帰ってくるまで死んでは駄目だと背中を撫でながら言い聞かせて出発した。猫は痩せた身体をじっと僕の腕に擦り寄せて身動きしなかった。呼吸が変に荒く感じたが、僕の中では帰るまではきっと大丈夫だという手前勝手な確信めいたものがあったので、そっとソファの上にその身体を置いてやり家を後にした。

この日は満月でしかも周回軌道が最も地球に近づく線になるらしく、出航の時刻には普段よりも大きく明るい月が浮かんでいた。
山陽新幹線が非常に苦手なので九州へは専らこのフェリー、さんふらわあこばるとを使っている。今回も往路がスタンダード、復路がデラックスシングル。値段は張るが運賃とホテル代だと思えばまあまあ納得だ。

風呂に入り食事をして、缶ビール買って部屋に入る前に、ふとデッキに出てみると船は丁度、明石海峡大橋を通過したところだった。満月は煌々と海を照らしているが行手は深い暗黒が広がっている。猫のことが脳裏をよぎる。浴衣を孕ませる潮風はもうさほど寒くはないが何やら身震いがして船内に戻る。部屋に窓がないためなのか眠れなかったので頓服も服用して無理から眠る。

翌朝、別府に着き早速、母と兄のいる宇佐へ向かって車を走らせる。薬が残っているのだろう何だかフラフラする。堪らず国道沿いの喫茶店に入って珈琲を飲む。ちなみに励行中の一日一食はこの旅行中に限り解除。とはいえ無理から食べることもないのでモーニングセットは頼まず珈琲のみ。
兄に連絡を入れ、直接母のところへ向かうことにする。十時過ぎには着くだろう。
母は広い談話室の真ん中にいた。エレベーターのドアが開いて母と目が合った瞬間に両手を挙げて僕の名前を呼んでくれた。手を握る。肩を抱きしめる。僕の顔を忘れてはしまいかという一抹の不安があったのだが、母は去年よりも明らかに元気な様子でしっかりと覚えていてくれた。兄から聞かされていた白髪が減ったと言う話も嘘ではなかった。一年振りに見る母は確かに少し小さくなったが頗る健康だった。安心からか少し気疲れした。
兄も程なくやってきた。兄嫁のMさんと二人目出産のために里帰りしている姪とその二歳の長男も一緒だ。母はもうすっかり兄の家族の中にいた。これは当然なことなのだが、去年まで京都にいた母を十年程介護してきた身からは、何だか母が遠くに見えるものだ。
耶馬渓に宿を取ってあるのであまり遅くまで居られないということで、昼食をみんなで摂ろうと豊後高田にある蕎麦屋へ行く。

その前に面白いところへ連れて行ってもらった。藤棚である。茶園を経営している農家が無料で開放しているのだそうだ。
残念ながら花の時期は既に過ぎた感があったが、母と手をつないで園内を歩いたのが嬉しかった。母の足腰も以前より強くなっており急な坂道もへっちゃらであった。まるで某ヒアルロン酸健康食品CMに出演できそうなくらいである。母は一切そのようなものは飲まないが。

豊後高田の山の中を随分と走って辿り着いたのがここ。蕎麦を含め全て地元の食材を使った料理だそうだ。基本的に精進なのはこの蕎麦屋の主人が隣りにある天台宗の古刹の副住職だからだろう。しかし丹念に作られた料理はしっかりとした味付けで美味かった。何より蕎麦が青々として香り高く美味かった。

その隣りの寺である六郷満山「富貴寺」の国宝、大堂は阿弥陀堂である。久しぶりに弥陀の尊顔の前で親子一同、無量寿経の一説「四誓偈」を唱える。母の声は生き生きとしている。

簡素な富貴寺でのんびりした後、僕のリクエストで田染荘(たじぶのしょう)へ行く。

ここは平安時代の荘園の姿を今に残している。大化の改新での口分田制が早々に行き詰まり、三世一身法、墾田永年私財法と土地の私財化が許されるにつれ全国の寺社や豪族が大規模な土地を開墾しそれを経営支配したのが荘園であることは知られているが、この田染荘はその後の歴史が複雑である。鎌倉時代には関東豪族の支配を受けていたが、なんと元寇がこの荘園を宇佐神宮官、田染氏へ帰還させることとなったのだ。元寇の勝利は宇佐神宮の神風のお陰であると訴訟を起こし勝訴したのである。まことに昔は神仏の霊験灼かだったのである。そんな歴史を思いながら見るこの風景はたしかにどこか神々しさがある。

夕方になり兄の家へ一旦帰り、暫く話して宿に向かうためにそこを辞した。手を振りながらルームミラーに小さくなってゆく母と兄を西陽が照らしている。次に会うときもきっとこのまま元気でいて欲しいと心に念じずにはいられなかった。

岳切渓谷を通って深耶馬渓に着く。

宿はこの奇岩が目の前である。