オリジナルコンテスト


 まずは上の画像を見てほしい。今日、やっと文學界と群像の今月号を買ったのだが、無視して、オ笑3投稿作No.55「饗宴」を読んでいた。印刷したものにメモのために赤を入れながら読んでいたのだが、結果的に、上のようにごちゃごちゃになった。何だかおもしろかったので、スキャンしてみた。右から帯、題名、本文で、三段落目の最初の方で画像は途切れている。字とか下手なので恥ずかしいから、ぼかしてあります。
 そんなことはどうでもいい。「饗宴」だ。昨日に続いて、今度は帯、そして本文を読んでいこうと思う。昨日から何度か読み通しているのだが、やはりこれは広義のエンターテインメントなのではないのかという思いが強くなった。序盤と中盤以降で、この小説自体の雰囲気が大きく変化するので、何だか妙な気分になるのだが、大聖堂に入り込んだ者が何か得体の知れないものを目にする、そしてそれは追体験でもある、という筋立てなのだろう、きっと。だからこそ帯にある「全く展開されぬストーリー」というのが引き立ってくる。
 ぼくは帯と冒頭で、この短編は反物語的なものを目指しているのかなと思ったのだった。何しろ「全く展開されぬストーリー」なのだから。しかし実際は、これは活劇的ですらあると読まれてもおかしくないほど、展開する。例えばベケットの「ゴドーを待ちながら」では、会話や遊びはあるが、ゴドーを待っているウラジミールとエストラゴンの状況は全く変化しない。そして物語的な展開のないままに、幕は下りる。待っているという構造だけがあり、待てば待つほど、何もできなくなる。しかしこの短編では大聖堂の中に入り、人形を発見し、"眠り姫"なるものと邂逅する。それだけで立派なドラマだ。だから読み終えて、この帯に目を通すと、きっと違和感が生じるはずだ。
 そのおかしさも含めてまず第一段落目だ。小説における最初の文章というのは大きな意味を持っていることが多い。導入として大事だし、そこで引き込む要素があればなおさらいい。例えばガルシア=マルケスの中篇「予告された殺人の記録*1の出だしはこんな感じだ。

 自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。

 いきなり「自分が殺される日」とくる。不穏な要素がたっぷりなのだが、それはともかく、この「饗宴」の書き出しも、いきなりなかなかのものだ。

 あらゆる世界はただ言葉によってのみ形作られ、あらゆる事象はただ物語ることによってのみ現出するとするならば、言葉使い師よ、まずはこの物語を聞け。

 「聞け」。いきなり命令である。この文章は読み辛いのかな、言葉を入れ替えてしまうと、非常に簡単になる。言葉によって形作られる世界とは小説や詩(とりあえず以下小説とする)などのことだし、あらゆる事象を物語る=エクリチュールとしてアウトプットすることで現出する、つまり最初の二つの仮定は小説を書くこと、書けることを意味している。この最初の一文をリーマン的こんにゃく言語で書き下すとこうなる。

 小説書いてみたんだけど、あんた、ちょっと読んでみね?

 くだけすぎだが、こんな感じだろう。言葉使い師とはハヤカワ文庫の「言葉使い師」*2とは関係がありそうでなさそうだが、きっと作家とか書き手とか、その程度に捉えておけば問題ないだろう。つまり書き手に向かって「この物語を聞け」と言っているわけで、これはもしかしたらオ笑3の読み手参加者の中にそれなりの割合で書き手参加者が含まれていることへの皮肉なのかもしれないが、それはともかく(笑)、「この物語」がこれ以降の文章に大きく携わっているということだ。
 しかし問題があって、帯との齟齬だ。帯には「幻想世界の構築にのみ充足し全く展開されぬストーリー」とあるが、この書き出しには「あらゆる事象はただ物語ることによってのみ現出するとするならば」という仮定の文章があり、以降の文章はその実践となるべきで、つまり物語られていることになり、展開されることになる。この帯は架空の書評*3なのだが、この冒頭に矛盾を置くことによって、幻想性を強調しているのかもしれない。
 そして次の二つの文章だ。

かの伝説の言葉使い師が幻視した《傳説》。その内より出で来たる物語である。

 「傳説」というのは「伝説」の旧字体で、同じ単語が連続するのを避けただけの話だろう。そこは重要ではない。ぼくはさっき「言葉使い師」を「作家」だと仮定した。すると「伝説の言葉使い師」は、伝説というからには届かない存在であるから、「大作家」とか「文豪」とか「鬼才」とか、そんなものなのではないだろうか。仮に大作家とするとして、その大作家が「幻視した《傳説》」というのは要するに書いた小説のことだろう。何でもいい。「フィネガンズ・ウェイク」でもいいし「トリストラム・シャンディ」でもいいが、問題は次、「その内より出で来たる物語である。」という箇所だ。ここをリーマン的こんにゃく言語で表すとこうなる。

なんかすげえ小説があって、マジリスペクトっていうかインスパイアされた。

 何か先行作品があって、この「饗宴」という小説があるということをここで宣言している。二次創作ということではなくて、フォークナーとガルシア=マルケスサリンジャー佐藤友哉カート・ヴォネガット・ジュニア村上春樹みたいなものなのだろう。
 そしてこの段落は以下、「物語」が「傳説」の内からどんな按配で「出で来たる」かが記されている。ここは読み飛ばしてもいいんだろうな。四つの「〜のように」が続いていて、そのうちの二番目の存在が読み取れなかったが、それ以外は「夕霧」→「闇夜」→「月夜」という風な視覚的な変化が描写されている。まあ「月夜の砂漠」に「暖かい雨」が降るっていうのは変だと思うが、幻想小説だしな、いいんだいいんだ。今気づいた。「腐食銅版画」と「硝子の塔」は対比されているのかもしれない。「硝子の塔」と書いてあって、シャロン・ストーンのエロ映画しか思い浮かばなかったぼくを許してください。対比で考えると、「森」と「砂漠」も対比だな。
 最初の段落はこれくらいです。ここは導入前の説明みたいなものなのだと思う。まだ本題に入っていない。そして今日はここでおしまいにします。ていうか、こんなの続けてたら、疲れがたまってしょうがない。わざわざ書かなくても理解して読んでいる人がほとんどだろうし、あんまり書きすぎても、逆に読みを限定してしまうことになるかもしれないし、それはそれでこわい……いや、そんな影響力はねえな(笑)。まあ、とにかく、上の文章はなんだかんだでまじめ半分冗談半分なので、あんまり本気にされても困りますよっていうことで、締めさせていただきます。

*1:

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

*2:ISBN:4150301735

*3:本当は架空なのかどうかよくわからない。googleYahoo!JAPAN、amazon.co.jp紀伊国屋BookWebなどで検索した結果、架空であると推測した。