【ヴァレンタインデイ&ホワイトデイの短編】獣共こうしてまだ見ぬちに吼えるのだろう?/前編


【ヴァレンタインデイ&ホワイトデイの短編】
獣共こうして
まだ見ぬちに吼えるのだろう?/前編
後編はこちら↓
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20140404/1396598854





ピアノの終わりが仕事の再開を告げる。
バケツに溜まる血の雫が途切れた。
今日こそは彼女に会えるだろうか?
アート・テイタムは天才だ。
チョコレートの日、ヴァレンタインデイとホワイトデイには相応しい音楽だ。


同時に5つの事を思いながら
オーディオから流れる音楽に耳を傾けていた。


倉庫の真ん中、天井からはウィンチがぶら下がっている。
ウィンチの先にはフックが付いている。
フックの先には吊るされた女の遺体がある。
遺体を見ながら溜め息をつく。
時間が掛かったな。


朝一番にやったのは女が着ていた服を脱がした事。
次に女のふくらはぎとかかとに電動ドリルで穴を開けた事。
開けた穴を使ってウィンチとフックで遺体を天井からぶら下げた事。
そして首にある左右の総頸動脈を切断した事だ。
総頸動脈は数ある血管の中でも大量の血液が通り過ぎる物の1つ。
首の左右に1本ずつ、合計で2本ある。
総頸動脈は胴体の方で大動脈を経由して心臓に繋がり、
頭部の方では左右の内頸動脈と外頸動脈の
合計4本を経由して脳と繋がっている。
1本ずつある総頸動脈は喉の途中で2本に分かれていると言う訳。
動脈は静脈よりも圧力が掛かっているから出血の量が多くなる。
だから遺体の血抜きが必要な場合にはここを切れば
身体全体からスムーズに血が抜けていくという訳だ。
男なら喉仏が良い目印になる。
喉仏から横に線を引いてその少し下に刃物を入れれば良い。
動脈は血液が大量に通る場所で生命の維持に関わる大切な血管だ。
なので通常は身体の内側を通っているのだけれど、
頸動脈はなぜなのか身体の外側に近い見つけ易い場所を通っている。


1人の人間が持っている血液の量は体重の1/13ほどだと言われている。
吊るされた女の体系は中肉中背、標準体型、
だから体重は55kg程だと推測した。
55を13で割ると4.2kgになる。
4.2リットル。
それがこの女の生前に身体を回っていた血液の量だ。
いつも使っている容量10リットルのバケツを遺体の下に置いて、
それから総頸動脈を切った
他の細々とした用事を済ませれていれば、
バケツの中には4リットルの血が溜まっているはずだった。
だが計画通りには行かなかった。
どうにも血液が流れ出る速度が遅い。
理由はなんとなくだけれど想像がついた。


女の片方の脚、
ふくらはぎには大きな歯車が埋め込められている。
どうやって歯車が遺体に埋め込まれたのかを想像する。
歯車は大きな機械の部品だったのだろう。
女のふくらはぎに穴を開けて歯車から伸びているシャフトを通す。
穴から突き出たシャフトをナットで固定する。


ウィンチを使って遺体を逆さ釣りにする場合、
フックはふくらはぎに掛ける。
ふくらはぎには骨が無いから穴をあけるのが簡単で、
肉の厚みのお陰でフックが安定するからだ。
なのに片脚のふくらはぎには歯車が埋まっている。
だから代わりにかかとに穴を開けてフックを通した訳。


ナットで固定された方を見ると、皮膚が黒くなっている。
細胞が壊死しているのだと思う。
皮膚や筋肉に流れる血液を止めるとうっ血して肌が赤紫になる。
うっ血が続くと血が止まりやがて細胞が死んでいく。
皮膚は黒くなる。これが壊死だ。
脚に歯車を埋め込まれてから、
最低でも1週間程以上は経っている様だ。
しかし女の遺体は死後4日から5日という所だろう。
つまり歯車は遺体の女が生きている間に
脚に埋め込まれという事だ。


人体は不思議だ。少しの刺激が身体の他の部分に影響を与える事がある。
胃の中に多くの塩酸が分泌されると胃ではなく胸や背中が痛む。
血液中に多くの尿酸が溜まると足の親指が痛む。
眼を使い過ぎると吐き気を催す時がある。
切り裂かれた頸動脈から流れる血の速度が予想に反して遅いのは
きっと脚を貫通している歯車のシャフトが原因だろう。
あるいは肉体を強く締め付けているナットか。
脚に通常よりも多くの重量が掛かっているのが問題なのかもしれない。
人の脚には多くの静脈が通っている。
静脈は身体の下部に下がった血液を心臓に戻している血管だ。
静脈と脚の筋肉はポンプの様な役割を果たして血を押し上げる。
歯車がそれらに悪い影響を及ぼしていると推測する事が出来る。


まったく
いったい君はどうしてそんな目に合わされたのだろう?
君が生きている頃にそれらの作業は行われたはずだ。
まあ確かに、足かせをはめるよりも確実に逃げる術を奪える様には思える。
歯車は30kg以上はありそうだ。重かっただろうに。
フックに固定された脚が歯車の重みで引き裂かれはしないかと心配になる。


それとも君は生きている間、
人生を機械の部品として過ごして来たのだろうか?
そんな事はないよなと俺は一人きりの倉庫で微笑んだ。
想像する。例えば時計。
君は時計の歯車で、時計を正確に回すべくその部品として生きている。
君は寝ても醒めても他の歯車と連動して回り続け時計を動かしている。
ひどく悪趣味な冗談だ。
でもよかった。どんな理由であれ、
脚に重しを付けられて生きるなんていう酷い現実から
こうして君は解放された訳だから。


切り裂かれた首からはゆっくりと血が流れている。
その反動なのだろうか、
逆さまになった顔と髪の毛が時おり頷く様にして揺れていた。





中々終わらない血抜きに苛立ちながら、女の前に椅子を置いた。
オーディオシステムに向けてリモコンを向ける。
簡素で殺風景な倉庫の中、
音楽という文化的な生活感を感じさせるその機械は違和感を放っている。
スピーカーからはアート・テイタムのピアノが流れる。
細々とした用事も終わってしまったので音楽を聴きながら
指示書に目を通す事にしたのだった。


オーディオにはアート・テイタムのCDがセットされている。
アルバムタイトルはテイタム・グループ マスターピースVol8だ。
アート・テイタムは戦前から活躍していた盲目のジャズピアニストで
1956年に47才の若さで死んだ。
一言で表すならば天才でクラシック音楽のピアニストからも
テクニックを賞賛される程の腕を持っている。
だけれど、
彼の演奏を聴くと音楽のクオリティーとテクニックは別物だと思ってしまう。
本当は関係あるのにだ。それは彼が天才だからだ。


テイタムのマスターピースシリーズは8枚出ている。
今オーディオシステムのCDトレイの載っているのはその8枚目だ。
テナーサックス演奏者のベン・ウェブスターと共演している。
殺風景な狭い倉庫の中を軽やかなピアノが流れている。
彼の美しいジャズの始まりを告げるイントロだ。
彼のピアノは春に良く似合う。春のジャズだ。


1曲目はGone with the windという題名で日本語にするならば、
風と共に去りぬだ。
アメリカ人の女性作家マーガレット・ミッチェル
1936年に書いた小説と同名の音楽だ。
それもそのはずで、Gone with the wind
マーガレットが書いた白人農場主スカーレット・オハラの半生描いた
小説に影響を受けて完成した曲だ。
女優のヴィヴィン・リーがスカーレットを演じた映画版とは直接の関係はない。
この曲が映画の主題歌かだとかそういう事ではない。
作曲したのはアリー・リューベルだ。
彼はディズニー映画に曲を提供してアカデミー作曲賞を受賞した事もある。
Gone with the windはいつの間にかジャズのスタンダード曲なっていて、
今では多くのジャズミュージシャンのアルバムで聴く事が出来る。
どこにでもある恋愛の歌だ。


バケツにゆっくり流れ出る血を見ながら困った物だと溜め息をついた。
音楽のリズムに合わす様に首を左右に揺らしてストレッチをする。
横に置いた小さなテーブルから
革のケースに収められた情報端末を左手に取った。
画面。新しいメッセージ。愛しの彼女からだ。


彼女とは昨日会う約束をしていた。
何時もより少し豪勢な夕食を一緒に食べる事にしていたのだ。
そもそもそれも本当は一昨日の予定だった。
ところが2人の都合が合わなくなり今日まで持ち越してしまった。


ヴァレンタインデイやホワイトデイ。
義理だお返しだと煩わしく思う事も多いという意見もあるけれど
対象を恋人に限定すればとても楽しいイベントに成る。
それに、今は職場に女性の同僚もいないから気が楽だ。
ヴァレンタインデイやホワイトデイにの日には、
彼女の事だけを考える事が出来る。


今日こそ彼女と美味しい料理を食べて幸せを享受しよう。
そう決めている。
だから今日の仕事は何時も以上に円滑に終えなくてはならない。
彼女と約束した時間までに仕事を終えなくてはならない。
ならないはずなのだが……。
目の前のバケツに溜まる血の量を見て溜め息を付いた。


それから画面に顔を向ける。
彼女からの言葉を読んで微笑む。




  「おはよう。お仕事がんばってる?今日こそご飯一緒に食べようね。
   そういえばね、最近思うのだけど、言葉って大事だね。
   愛ってまず始めに言葉から始まって、
   言葉と愛って常に一緒にある物だと思う。


   つまりね、あなたはいつも言葉で私の事を好きって言ってくれるから
   大好きだよ」




微笑んだまま返事を書く。送る。
満足して画面に向かって小さく頷く。
仕事を頑張ろう。


血抜きはまだ終わらない。
革のケースをテーブルにおいて、次に指示書を手に取る。
ボスからの指示は何時も通りの観測作業。
観測作業後、収集したサンプルを後続の者に手渡す事。
作業後の清掃を徹底する事。
血抜きのせいで少し作業は遅れているけれど、
今の所を大きな問題はない。
このまま進めば、仕事も円滑に終わり彼女に会えるはずだ。


気が付くと曲がアルバムの8曲目になっていた。
曲名はGone with the windだ。
白い殺風景な倉庫に春を告げる音楽だ。
この曲は1曲目のGone with the wind
同じGone with the windで次の9曲目もGone with the windだ。
つまりGone with the windが1枚のアルバムの中に3回も入っているという訳。
いわゆる別テイクと言うやつだ。
素晴らしい曲と素晴らしい演奏があれば同じ曲でも聴いて楽しい。


アート・テイタムの演奏に聴き入る。
曲が終わる。やはりテイタムは天才だ。
優雅さと軽やかさと溢れる愛。
チョコレートとホワイトデイに似合う音楽だ。
今日こそ彼女と一緒に過ごして幸せを感じたい。
バケツの中に目をやると、
落ちる血の雫で絶え間なく広がっていた波紋が消えていた。
遺体から血液が無くなった証拠だ。
仕事の再開だ。


血抜きを終えた女の身体を手の平で2、3回叩いた。
乾いた肌と干涸びた肉の音がする。
予定より時間が掛かった物の血抜きは完璧だ。


倉庫の隅に設置された流し場にバケツを運ぶ。
4.2kgの血を下水に捨てる。
白い粉末をバケツに入れて蛇口を捻って水を入れる。
漂白剤入りの洗剤が泡立ちバケツの内外を覆う。
後は放っておく。排水溝の中には白い錠剤を投げ入れる。
水をしばらく流してから止める。
漂白剤と錠剤の作用で
少しすれば排水溝からのにおいも消える。





倉庫の脇に備え付けられている2帖程の収納から
折りたたみ式の青い密閉型コンテナを出して組み立てる。
薄い金属トレイの中に消毒用アルコールを入れて使い捨てのダスターを浸す。
少し絞ってからダスターでコンテナの中を拭いて消毒する。
ダスターはゴミ箱に捨てる。
透明なポリ袋をコンテナの内側に被せる。
縦横の長さが1メートルある容量100リットルの物だ。
コンテナを吊るされた遺体の前に運んだ。
手術用の長手袋とゴーグルを装着する。
これで用意は終わった。


使い捨てのメスを握って、女のヘソにメスを差し込む。
そのまま胸骨、胸の谷間の剣状突起に突き当たるまでメスを降ろす。
腹を縦に切り裂く。
一旦身体からメスを抜く。次にヘソの左右にメスを入れる。
骨盤の出っ張り、腸骨稜に刃が当るまで切り進む。
再びメスを身体から引き抜く。
今度は胸骨の剣状突起から右の肋骨弓を伝う様にメスを入れる。
肋骨は背骨の1部である胸椎から生えている。
左右12本ずつ、合計で24本だ。
肋骨弓はその内の第7肋骨から10肋骨が連結して出来ている
骨のカーブの事だ。
第11肋骨と第12肋骨は短く、胸の方にまで伸びていない。
他の肋骨とも繋がっていない。
メスを肋骨弓に沿う様に入れて肉を裂いていく。
第6肋骨、第7第8第9肋骨と刃を進ませ
第10肋骨の途中まで切り込みを入れる。
右側が終わったら今度は左の肋骨弓だ。同じ様に処理をする。
腹にメスでカーブを描いて切り込みを入れる。
腹部を覆っていた皮と筋肉と脂肪が観音扉の様に開いた。


血の量は少ない。血抜きが上手くいった証拠だ。
血抜きが上手くいっていない時には返り血を浴びる事がある。
遺体が何らかの感染症を持っていて、
その血液が目にでも入ったら笑えない。
内蔵の消化器や性器を切断する際、糞尿が飛び散る事もある。
だから自分の眼を保護する為にゴーグルを装着する事を忘れてはならない。
今装着しているのは銃器を開発販売するスミス&ウェッソン社の物だ。
耳に掛ける部分にはゴムの滑り止めも付いている。
本来は射撃場や軍事訓練などで飛び散る火花や破片から目を保護する為の物だ。
このゴーグルはそれだけ耐久度が高く、信頼ができると言う訳。
同じ物を2ダース程持っている。
これはボスが取引先から頂いた物だ。
取引先曰く別の会社との取引の際、オマケで貰ったものらしい。
入手経路が何にせよ、
こうして役に立っているのだから有り難い事だ。


開いた腹部に手を入れて腹膜と一緒に内蔵を取り出す。
腹膜とは内臓を覆っている薄い膜の事だ。
大腸にある結腸の途中をメスで切断する。
大腸は長く、複数の箇所に分かれている。呼び名も違う。
盲腸や虫垂や直腸も大腸の1部だ。結腸は大腸の大部分を占めている。
直腸に繋がり、直腸は肛門と繋がっている。
胃と食道の間にメスを入れる。2つの臓器を切り離す。
腸、そして腎臓と繋がっていた尿管から糞尿や未消化の食物が
遺体の腹の中に垂れ流れる。
この様に各部に切れ目を入れたら内臓を掻き出していく。
腹膜と胃と腸の大部分、それに膵臓脾臓と肝臓と胆のうと腎臓、
動脈と静脈を身体から取り出す。
下に置いたコンテナに被せた袋の中に、
内臓を掻き出す様にして入れて行く。
透明だったポリ袋が赤黒い色に染まる。


人の腹部には骨が背骨しか無い。
これで身体の中心に綺麗な空洞が出来た。
奥にはうねりながら上下に伸びる背骨が見える。
我ながら上手く内臓の処理が出来たと思う。
仕事自体は決して楽な物ではないけれど、
こういった時に喜びを感じる事はある。
自分の技術の上達を感じたり、円滑に仕事が進んでいる時の事だ。


逆さに吊るされた遺体の上を見れば
腸の一部と子宮や卵巣、それに膀胱が見える。
視線を下げれば横隔膜という筋肉が見える。
次はこれらを取り除かないと行けない。


自分が担当している仕事は
決して企業の主役に成る様な物ではない事を理解している。
1つの企業の中で主役と成る部門は商品の企画開発だったり、
商品を売り込む営業部門だろう。
企業には開発や営業の他にも
経理や人事や総務や調達や広報
それにクレーム対応や法務や監査や秘書を担当する人間がいる。
それはどんな職種の組織でも変らない。
俺の仕事をそういった一般的な職務に例えたら何になるだろ?と
考える事がある。
きっとクレーム対応の後処理や法務部の一員、
或は総務部庶務課の何かではないかと思う。
つまり業務の中で発生したトラブルの後始末やフォロー担当と言う訳。
1つの組織が企業としての体面を保つ為の仕事、
または組織が円滑に動く為に必要な仕事を担当する人員だ。
それが俺だ。
組織の稼ぎに直接的に関与する仕事ではない事を理解している。


消化器官を取り除いたら、その次は
排泄器官と生殖器を取り除く。
心臓や肺などの呼吸器を取り除く前に
こちらから作業をするのには理由がある。
顔の近くにあって良い匂いとは決して言えないからだ。


直接的に金を稼いでいる仕事ではない。
だけれど、自分の仕事は組織の中で重要な物だと思っている。
自分が居なければ、
他の業務が上手く回らなくなるだろうという自負もある。
やりがいも感じる。
そんな中、自分の技術が実務の中で向上した事を感じれば嬉しさもひとしおだ。


骨盤に囲まれた下腹部の中に手を入れる。
子宮と卵巣を片手で掴んで膣の途中にメスを入れて切断する。
子宮と卵巣をポリ袋に入れる。
こうすると隙間が開くので作業がし易くなる。


昔、小説家の村上龍村上春樹が言っていた言葉を思いだす。
仕事とは稼ぎを意味するのではなく、
自分と社会がどう繋がるかという事を意味している。
自分は何かを積極的に作り出す仕事は出来ないが、
他の人を手助けして、何かを円滑に進める為の仕事ならばする事が出来る。
決して給料が高い訳でも楽な仕事でもないけれど、
この仕事は悪く無いと感じている。
たぶん、自分の本質的にそういった事が好きなんだろう。


次に手を骨盤の内側に沿う様にして中に入れて行く。
尾骨に指が当るまで手を押し進めて行く。
尾骨は肛門の真上にある骨で、脊椎の一番下に位置している。
こうすると直腸を手で掴み易くなる。
片手で直腸をつまんで、もう片方の手でメスを入れる。
直腸と残されていた結腸を切り取ってポリ袋に入れた。


今の仕事の危うさに付いて考えた事がある。
所属している組織の規模は小さい。
大企業と比べると会社が潰れて失業という可能性は高いという事だ。
転職や再就職は大変そうだ。
するなら今の仕事で身に付けた技術を生かした職種が良い。
理想は同種の仕事に再就職する事だ。
勿論、今の組織が潰れないのが一番なのだけれど。


下腹部の内側で最後に取るのは膀胱だ。
骨盤の内側での作業は女の身体の方が行い易い。
骨盤に囲まれて内蔵が詰まっている空洞は男の場合は三角形だ。
だけれど女は子供をその中で育てて出産する為に丸く大きくなっている。
広さがある分、比較的作業がし易いと言う訳。
膀胱をメスで切り取ってポリ袋に入れた。
これで自分の顔の前から嫌な臭いの物が消えた。
次いで、肛門と生殖器をメスで抉る様にして切り取る。
この2つの器官は一部分が身体の外側に飛び出しているので
股に大きく2つの穴が開く事になる。ポリ袋にいれる。
男の場合、骨盤内部の空洞が小さいだけではなく
行程が増えるのも作業の難しさの原因になっている。
行程が増えるのは男女の生殖器の違いによる物だ。
男の場合も女の場合と同じ様に身体の内側から
生殖器の海綿体などを切り取った後に、
身体の外に出ている陰茎と睾丸を切断しなくてはならない。
そして股に穴をあける。
そうしないと内蔵を完璧に抜き取る事が出来ないからだ。
これが以外と大変な作業なんだ。


所属している組織の事を考える事もある。
俺が知っている限りでは、ボスも含めて同僚と言えるのは8人ほどだ。
各々がそれぞれ別の場所で働いている。
一部の同僚を除いてたまにしか顔を合わさない。
俺が知る限りでは、
ボスに仕えている人間の主な職務は遺体の解体作業だ。
俺が知る限りではどこか大手の企業に所属している訳ではなそうだ。
色々な人や企業から依頼された仕事を請け負っているのだと思う。
でも俺が推測するに、
複数の企業が金や人材を融通して作られた組織だとは思う。
御得意さんだと思われる人々の顔ぶれを見ればそれ位は分かる。
でもどっちみち、俺がここに就職した時には、
既に企業として完成されていたから全ては推測でしかない。
俺はそこに組み込まれただけだ。
全て推測なのは自分が知らなくていい事は
知らないままにするという事が業界のマナーだからだ。
暗黙の了解だからだ。不文律だからだ。


横隔膜は人体にある筋肉の1つ。
伸縮する事で呼吸と排便を助けている。
横隔膜から上が胸部で、下が腹部だ。
この筋肉を通る事が許されているのは食道と動脈と整脈だけだ。
つまり、俺は一連の作業で腹部を綺麗にしたという事に成る。
仕上げをする。
臓器を切断する際に糞尿や未消化の食物が遺体の中に垂れた。
それを布で拭き取って行く。
布はゴミ箱に捨てる。これで腹部の処理は完璧だ。
これで仕事が終われば簡単なのだけれど、
横隔膜を切り、心臓や肺を抜き出さなくてはならない。


もっとも多い仕事が人体を内蔵と筋肉と骨とそれ以外の部分に解体する事だ。
今日の仕事もそれだ。
以前は、ゴミ焼却所を所有していた企業が多かった。
業務上出た遺体を他のゴミと一緒に焼いて処理する。
これで処理は終わりだ。簡単だった。
ところが近年ではゴミ焼却所の新設に対する規制や
所有者の身元に付いての調査が厳しくなっている。
焼却所への立ち入り調査が行われ、
処理前の遺体や処理後の遺体の残骸が発見される事件が数件あった。
今残っている焼却所は殆どがまともな所だろう。
廃車を置くジャンクヤードも
2013年から設置や運営に対する規制が厳しい物になって来ている。
これも焼却場に対する取り締まりの延長線上にある出来事だ。


横隔膜は腰椎の1個目から4個目と繋がっている。
上部は肋骨の7番目から12番目に付いてその間に筋肉を広げている。
つまり横隔膜を切らないと
心臓や肺がある胸部の内部に触れる事も出来ないという訳。
脊椎に付いている横隔膜を一部切断する。
筋肉を骨から切り離すのは後の作業だ。
横隔膜を観音開きの様に切っていく。
腹部を開いた時と同じ様に体からは切り離さないのがコツだ。
後の作業がしやすくなる。


ゴミ焼却所に対する取り締まり。
そこで俺が就いている様な仕事の需要が生まれる。
規制が新たな職種を生むのはどの業界でも同じだろう。
遺体を解体して分別する。
そこから先はどうなるか知らない。
俺の仕事は遺体を解体して、回収担当の同僚に渡す事だけだ。
ただ、細かくした方が処理がし易くなるのだろうという事は良く分かる。
遺体を地中に埋めるのはだめだ。体内でガスが発生してやがて体外に噴出する。
土が吹き飛ばされてしまう。遺体が見つかり易くなる。
それに長い間、処理をした証拠である骨が地中に残ってしまう。
海中に捨てるのも同じ様な理由で難しい。
個人でバラバラにするのも賛成出来ない。
労力がかかるし、
結局はバラバラにした遺体をどうにかして処理しなくてはならない。
薬品で溶かすのも完璧とはいえない。
専門的な薬品は購入履歴が残る可能性が高い。
それに髪や歯や骨が完璧に処理出来ない事もある。
それらが原因となり警察に目をつけられた人間も多い。
その点、俺達の様な専門家に任せれば安心だ。


横隔膜を開くと直ぐに心臓と2つの肺が見える。
心臓と肺がある胸部の空洞は骨で囲まれている。
後ろが脊椎、左右を脊椎から伸びる肋骨、
前方を肋骨と繋がる胸骨が覆ってる。
骨盤と同じ様に丸い空間になっている訳だ。
手前にある心臓を片手て握る。力を籠めて持ち上げる。
心臓は多くの管で他の臓器と繋がっている。
その中の大動脈は太さが2センチから3センチもある。
簡単に身体から離す事は出来ないという訳。
だから作業するには少々の力が必要になる。
心臓を繋ぐ管は堅く強い。
開いた隙間にメス入れる。
脈を切り心臓を身体から切り離す。
心臓をポリ袋に入れる。


何事にもそれに関わる人数に適切な数はある。
遺体の処理に関わる人数の理想は1人だろうと思う。
日々の業務の中で遺体が出た事を人に知られてしまうのは、
企業としては良い事とはいえない。
一般的な企業に訴えられたクレームを社会全体が知ってしまう様な物だ。
クレームは適切に対処すれば良いものであって、
世間に広める必要がある物では無い。
遺体の処理を専門家に任せるという事は関わる人数を増やす事だ。
処理の行程を分担制にしていてはさらに人数を増やす事となる。
だが、遺体の処理を専門家に任せないという事は
企業が何らかの告訴の対象になったのにも関わらず、
対応を法務の専門家に任せない事と同じ様な事だ。
物事にはそれを解決する適切な能力を持つ人間と対処法がある。
今、この時代において遺体の処理に関する事では、
それは俺が所属している組織の事だろう。
そう言った自負が決して楽とは言えない日々の仕事に
やりがいと責任と達成感を与えてくれる。


心臓の切り取りを終えたら、次に行うのは肺の切除だ。
口と鼻と繋がり喉奧へと伸びる空気の通り道である気管は
胸に入ると二手に分かれる。
それぞれが左右の肺と繋がっている。
気管をメスで切断する。
目に付いた血管も切断しておく。
肺は胸膜という膜で覆われている。
膜をメスで破ると肺を囲むしょう液が
女の体内へと流れ出る。
逆さに吊るされた遺体の右乳房横手を右手で掴む。
身体が揺れない様に固定する。
左手を体内の薄い膜の中に突っ込み肺を握って体外へ取り出す。
気管が切断された肺は簡単に取り除く事が出来る。
足下のポリ袋に入れる。
左の肺も同じ作業を行って取り出す。
左の肺は右の肺より小さいので作業は楽になる。
ポリ袋に肺を入れる。
心臓と肺を取り除いた胸はぽっかりとした穴が空く。


自分の所属する組織が仕事を分担制にしている理由には予想がついている。
分担すれば各々が自分が行う作業だけに集中出来る。
遺体遺体の全てを知る必要も、
万能である必要もなくなる。
自分が担当する作業だけの専門家になればいい。
何らかの原因で人員に欠けが出来てもそれ以外の行程は機能する事が可能になる。
人員の補充もし易い。個人が全ての作業を行っていてはこうはいかないと思う。
専門家ではない個人が遺体を処理する際に問題になるのは、
1人の人間が遺体を作り出し、同じ人間が遺体の解体をして、
同じ人間が遺体を運び、
同じ人間が遺体を隠すという事だ。
全てに関わるという事は全てを知っているという事で、
1つミスをしてそれが明るみに出れば、
他の事も社会全体に知られてしまうという事だ。
分担すればそれを防げる。
1人の人間が遺体を作り出し、
違う人間が遺体の解体をして、
違う人間が遺体を運び、
違う人間が遺体を隠す。
誰かがミスをしても、他の事は明るみにでない。
どうして遺体が出たのかか?
どうやって解体したのか?どこへ運んだのか?
最終的に遺体はどうなったのか?
自分の仕事以外の事は何もわからない。
そういった事があるからこそ、各々の仕事には完璧な作業が求められる。
誰かが終えた仕事を引き継いで、自分の仕事を行う。
そしてまた次の人間に先の作業を任せる。
仕事とは社会との関わり方の事だと言った
作家の言葉の意味を最近は良く実感する。


心臓と肺を取り出したら次は咽喉内部の解体に進む。
取り除くのは食道と気管だ。
口と鼻、それぞれの空洞は喉仏の上辺りで1本に繋がる。
そして喉仏の裏でまた二手に分かれる。
前面にあるのが気管で。後ろにあるのが食道だ。
食道の後ろには脊椎の首部分、頸椎がある。
気管は鼻と口から取り入れた空気が通る管で肺に繋がっている。
食道は口で咀嚼した食べ物が通る筒で腸に繋がる。
血抜きの為に切った総頸動脈の内側に気管と食道が通っている。


任される仕事にも色々なケースがあるのだけれど、
一番多いのが遺体を内臓と肉と骨とそれ以外に解体して分ける事だ。
それ以外とは髪の毛や体毛、爪などの事を言う。
それぞれをケースに収めて後の行程の人間に預ける。
なぜ、内臓や肉や骨を分けるのだろうかと考えた事はある。
きっとその方が後の作業が簡単になるからだ。
業務の中で出た遺体を細かく解体して
豚などの雑食性の家畜の飼料として利用する方法がある。
家畜は精肉として売るなりすれば遺体処理の痕跡は残らない。
だが肉と内臓では、家畜の飼料としての適正に違いがある。
筋肉と内臓では後者の方が痛みが早い。
家畜の内臓で消化されるのが早いのは筋肉の方だ。
家畜が遺体の内臓を食べなかったら、
結局は別の方法で処理しなくてはならない。
それは遺体処理の痕跡が残る可能性が大きくなると言う事でもある。
つまり、人間の遺体の各部にはそれぞれ理想的な処理方法があるという事だ。
その為に遺体を筋肉と内臓と骨とそれ以外に分けるのが最も多い仕事だ。
もちろんそれ以外の方法を指示される事もある。
多いのは指定された遺体の一部を出来る限り傷つけずに保管する事だ。
解体する部位とは別途、手や指や内臓などを保管する。
その際には低温で保存しなくてならない為、
専用のケースや氷などが必要になる。


喉を通り胸部に飛び出ている気管と食道を握って、
適当な所で切断する。ポリ袋に入れる。
また気管と食道を握る。切る。ポリ袋に入れる。
それを何度か繰り返す。喉の中まで手を入れて行く。
手が入る部分の管を切る事が出来たら
次は喉の内部をメスでかき回す様に削いで行く。
遺体の頭ががくがくと揺れて不安定になるので両膝で頭部を挟んで作業を行う。
気管の入り口付近にある声帯も一緒に切り落としてポリ袋に入れて行く。


職場の環境は良いと思う。
設備は整っている。
人間関係の悩むもありはしない。
この職場に常勤しているのは自分1人だけだから。
顔を合わせるのが社内の人間より外部の人間の方が多いのは面白い。
案外、一般的な企業の営業もそんな感じなのかもしれないけれど。
俺が出勤している倉庫は
ある環境調査会社の研究所と器具置き場という事になっている。
一応タイムカードも設置されている。
俺はその環境調査会社の社員で、給料もそこから出ている事になっている。
国に収める税金も年金も勿論払っている。
税金や年金の処理も普通の企業と同じだ。
このお陰で普段の生活を一般の人の様に送る事が出来ている。
会社に勤めてから、政治が自分に直接的に関係する
身近な物として感じられるようになった。
それはきっと、自分が一般的な生活を送る事が
出来ているからなのだと思うのだけれど。


気管と食道があった場所に空洞が出来た。
2本の管の後部には頸椎がある。この処理は後ほど。
前方と左右は甲状腺によって覆われている。
こちらはいま取り除いてしまう。
甲状腺の長さは大体4cm程でアルファベットのHの形をしている。
喉にある靱帯により気管に固定されている。
気管を削り取る作業の時に既に一部が削れている。
今度は靭帯を切り離す様にメスを入れて行く。
なかなか難しい作業なのだけれど、今回は上手くいった。
そもそも遺体の解体は男よりも女の身体の方が難しい。
理由は女の方が身体の色々な部分が小さいからだ。
例外は骨盤の内部と生殖器だけだ。
骨盤内部は女の方が広いから作業はし易い。
男の遺体を解体する方が力はいるのだけれど、それはどうとでもなる。
細かい作業こそ難しい。技術。丁重。繊細。
それらが上手く行くのは嬉しい事だ。
少しだけだけれど頬が思わず緩んだ。
自分でも器用な方だとは思っている。
ここに就職する前から簡単な配線や機械の修理位は自分でやって来た。
だからこそ、自分の長所に成長がある事が嬉しいのだ。
遺体から切り取った甲状腺をポリ袋にいれる。
甲状腺の周りに筋肉と皮膚があるがこれらを処理するのは後の行程だ。


自分の勤める会社の事は知り過ぎてもダメだし、
知らな過ぎてもダメだと思っている。
好奇心から法務局に登録されている会社の商業登記を見た事がある。
商号は勿論そのままこの会社名で
目的の欄には各種の環境調査、並びにこれらに関連する業務と書いてあった。
それらは俺がボスから伝えられた通りの物だ。
なのだけれど、会社の代表が俺の知っているボスの名前ではなかった。
それどころかうちのボスは男なのにも関わらず、
登記簿に記された名前は女の物だった。
登記簿を見た当時、
この業界はそういうものかもしれないと深追いするのをやめた。
自分が所属する組織の現状や
そこから予測出来る未来や真実を見るのは勇気がいる行為だと思う。
それは自分の将来に関わる事で、調べた結果現状が芳しくない場合、
失業の可能性なども垣間見える事があるからだ。
望まない将来の可能性が僅かにでも見えたのならば、
本当は正調査をして正しい情報を得て、
将来の危険に対処するべきなのだけれど、
未来を考える事への恐怖と日々の生活の急がしにかまけて
それを諦めてしまった。


咽喉部分を処理したら眼球だ。
咽喉部分の作業と比べるととても簡単なので
気を張らずにリッラクスして行う事が出来る。
床に屈む。
逆さに吊るされた女の顔に手の高さを合わせる。
瞼を左手で開いて右手で水平にメスを入れて行く。
角膜と瞳孔と水晶体を切り開く。
切り開いたら女の眼窩の大きさを目視で推測する。
眼窩とは眼球が入っている顔の穴の事だ。
丁度良い大きさのスプーンを取り出す。
メスをスプーンに持ち帰る。
開いた水晶体の中にスプーンを突っ込み中の硝子体などを掻き出す。
ポリ袋に落として行く。
この時掻き出すのは表面の角膜や水晶体、内部の硝子体だけだ。
周りを覆う網膜や強膜、眼球を動かしている筋肉である外眼筋は残す。
次にもう片方の目も同じく処理して行く。ポリ袋に落としていれる。


これで内臓の処理のほぼ全てが終わった。





あと1部分残っているけれど、それはもう少し後の作業になる。
予定よりは時間が押しているけれど、問題の無い範囲だ。
このままいけば、今日の夜は彼女と一緒においしいご飯が食べられるはずだ。


ゴーグルを外してから手袋を専用のゴミ箱に入れる。
流し場の水道から水を出して、
洗剤で手を良く洗う。
タオルで水を拭き取って消毒液を手に馴染ませて殺菌する。
基本的に、解体作業の前に手を洗う事は無い。
遺体の衛生状態に特に気をつける必用は無いからだ。
外科出術を行う執刀医との大きな違いの1つだ。
彼らは患者の患部を切り裂く前に手を洗い
清潔な手術着を着て消毒された道具を使う。
だけれどこちらはそういった事は関係がない。
手袋とゴーグルをするのは自分を汚れから守るため。
清潔な制服も消毒された道具も必要ない。
メスは切れ味が良ければ汚れていようと問題がない。
道具は使用者に求められる機能があれば
余計な物はいらないのだという話しだと思う。
まあ、刃に血液や脂肪が凝固して付着していたら
切れ味が悪くなるので、
メスは使い捨ての物を使用しているのだけれど。


道具棚からインスタントコーヒーを取り出す。
テーブルに置いていたカップの中にスプーン1杯半分の粉を入れる。
道具棚に置いてある電気ポットを使って熱湯を注いだ。
ガラスの瓶を手に取って中身の濃縮レモン果汁をコーヒーの中に振る。
最近はレモンコーヒーを良く飲む。さっぱりしているのが良い。
日本では珍しいけれどイタリアやロシアでは良く飲まれている。
休憩室に行けばコーヒー豆とコーヒーメイカー。
それに生のレモンがあるのだけれど、仕事中はこれで我慢だ。


椅子に座る。
フックに吊るされた遺体を観る。
内臓を抜かれて朝よりも大分軽くなった。
遺体が緩やかに揺れている。
遺体は解体の処理が進めば進む程軽くなって、
吊るしていても揺れが無くなって行く。
最後には消える。


レモンコーヒーを飲みながらテーブルに置いた端末を手に取る。
彼女から新しいメッセージが来ている事に気が付いた。
嬉々として読む。




  「仕事はどう?
   私の方は順調にいっているよ。早く会いたいね。


   最近思うのだけど、
   好きな人にその気持ちを伝えるって素敵な事だよね
   言われても嬉しいけれど、言った方も嬉しくなる。
   まるで呪文みたい。それを一回呟くだけで幸せになれる様な呪文。
   だから、私、そういう事を言える人が側にいる事が、
   それだけでとても幸せよ」




彼女の言葉に
確かにそうかもしれないと思う。
目を瞑る。天を仰ぐ様に顔を上に向けて、
彼女の事を思いながら愛していると1人呟いてみる。
うん、たしかにこれだけで幸せな気持ちになれる様な気がする。
そんな事を思いながら彼女に返事を書く。
彼女には自分の仕事を地質や水質の環境調査や実験をする仕事だと言っている。
大嘘だけれど、会社の登記簿上は嘘ではない。
今日の実験はなんとか予定通りに終わりそうだと返事を送った。
それから5分とかからずにコーヒーを飲み干して仕事を再開する。
新しい手袋を装着して、ゴーグルを顔に着ける。
今日こそ、彼女に会いたい。


内臓を処理したら骨と肉の解体に取り掛かる。
内臓の時は腹から処理をしたけれど、
こちらは頭の方から作業を行う。
同時に肉でも内臓でもない部分の切り取りも行う。


内臓を入れていたポリ袋とコンテナを
遺体の下から移動する。
道具棚から鉈を取り出す。
関節を切るのには鉈が良い。
肉切り包丁でもいいのだけれど、
鉈は自然環境で使う事を考えられているので、
持ち手に滑り止めが付いている物が多く作業がし易い。
今使っている鉈も、持ち手には樹脂で出来た滑り止めが付いている。
メスは使い捨ての物を使っているのだけれど、
鉈は使い捨てにする訳にはいなかいので、マメに刃を研いでいる。
右手で鉈を握り、左で女の髪を掴む様に頭頂部を支える。
首に鉈を2度3度と振りかざす。
頸動脈も既に血抜きの為に切っており、
咽喉の内部も処理しているので
切る必要があるのは首の骨である頸椎と周りに残る僅かな肉と皮膚だけだ。
7つある頸椎のうち、4番目と5番目の間に鉈を入れると簡単に首は切れる。
もう1度鉈を振ると左手に一気に重みが伸しかかる。
頭部の切断が完了したのだ。
直ぐさま鉈を床において両手で頭を支える。
首が切断された反動で、
吊るされている遺体とウィンチが派手な音を立てて揺れる。
女の頭部を脇において、遺体の揺れを手で止めた。


順調だ。
早く仕事を終えて彼女に会いたい。


そう考えながらも次の作業の事を考えると
暗い気持ちになってしまう。






遺体の処理する際には身体を内臓と肉と骨とそれ以外に分ける。
身体のそれ以外とは髪の毛や爪の事だ。
だから頭を胴体から切り離したら次は髪の毛を処理する。


この行程は心に堪える。正直していて辛い行為だ。
男の髪の毛をどうしようと心は痛まないのだが、女の場合は違う。
たぶんそれは俺が女の髪の毛に女性性を見ているからなのだと思う。
それを切り取る事で俺は自分が女性を穢しているのではないのか?
という気分になっているのだと思う。


内臓用のコンテナを作った時と同じ要領で
組み立て式のコンテナを消毒してポリ袋を掛ける。
今度のはとても小さい箱だ。
道具棚から毛刈り様の電動バリカンを取り出す。


でも、仕事には辛い事もある。それこそが仕事だよなとも思う。
名前を忘れてしまったけれど、ある作家が
人がやりたがらない事をやるのが仕事だと言っていた。
きっとそういう物だろう。
これはどんな職種の仕事でもある事なんじゃないか?
そう考えて自分の心を落ち着かせる。


頭部を腋で挟む様にして左手で抱える。
髪の毛がポリ袋に入る様に頭部を固定して
女の髪の毛をバリカンで刈って行く。
眉毛も刈る。
本当に嫌な気分だ。
早く彼女に会って慰められたい。


仕事の辛い部分を想像する。
例えばペットショップの店員だ。
勤めている人間の多くが犬や猫が好きなのだろうと思う。
けれど動物を商品として扱っている以上、
嫌な出来事に遭遇する事は少なくはないだろうと思う。
売れる前に病気になったりノイローゼになる犬猫も多そうだ。
動物の死に直面する事も多いだろうな。
医者や看護士、介護士なんかも似た様な物なのでないかな。
他にも例えば警察官だ。
この職業に就くのは真面目な人間が多いと思う。
だけれど、犯罪者相手に仕事をしなければならない。
真面目な人間にとってそれは大変な事だろうなと思う。
被害者と顔を合わせる事も多いだろう。
きっと真面目な警察官達はそこで心を痛める事も多いはずだ。
俺にとってのそういう事が、女の髪を切り取るという仕事だった。
つらい。


悲しい気持ちで溜め息を小さく吐く。
バリカンのスウィッチを止める。
ポリ袋の中には大量の髪の毛が入っている。
右手に抱えた女の頭は剃り上がっている。
なぜだかとても申し訳のない気持ちになる。
きっとそれは俺が、女に暴力を振るう人間を嫌っているからだ。
まあ兎も角、髪の毛の処理は終わった。


ついでに陰毛も処理する。
頭部を床においてコンテナを持ち上げ、遺体の股の前に持って行く。
バリカンを使って陰毛をポリ袋の中に落とした。
脇毛などは生前処理をしていた様で生えていない。
これで体毛の処理は終わりだ。ポリ袋の口を縛る。


次は最後に残った内臓を切り取る作業に移る。
コンテナを2つ作る。
1つは内臓用の物よりも大きい。骨用のコンテナだ。
内臓用と同じサイズのコンテナが筋肉用のコンテナだ。
内臓用、筋肉用、骨用、それ以外様のコンテナを遺体の横に並べる。
椅子を持って来て座る。
女の頭部を左手で抱えて。右手でメスを持つ。
眉間の上辺りに刃を突き刺す。
水平に移動させて耳の上部を刃が通る。
刃はそのまま後頭部を通り過ぎて反対側の耳を触って眉間に戻る。
メスが頭部を一周した。皮膚に切れ目が入る。
剃り上がった頭頂部に刃を突き立てる。
回るいケーキを6等分にする様に切り込みを入れる。
それが済んだら頭部の皮を1枚1枚剥いでい行く。
皮と骨の間には骨膜と言う薄い膜がある。それも剥がす。
頭蓋骨は丸い。だから皮膚が剥がし易いので作業は簡単だ。
簡単なはずなのだが、身体は肉離れがどうにもこの悪い。
死後に遺体の身体が固くなる死後硬直は通常の場合90時間で溶ける。
固かった肉が90時間で軟らかくなる。
この遺体はどうみても死後4日は経過していると思っていたのだが……。
なのに肉の離れが悪い。血の出も悪かった。
これも脚に埋め込まれた歯車の影響なのだろうか?
原因が何にせよ予想が外れて苦い顔になる。
自分の事を少し間抜けに感じる。
仕事に慣れて気を抜いていたのかもしれない。
ウィンチに遺体を吊るした時に、
遺体の一部を切り取って、肉の状態を確かめればよかった。
遺体は肉が軟らかい方が解体がし易い。
固いという事はつまり作業時間が伸びるという事だ。
ペースを早める事にする。
今日はなんとしても彼女と一緒に過ごすのだ。


気持ちを改める。
頭部から皮を引き剥がす。剥いだ皮は肉用のポリ袋に入れて行く。
何度か繰り返すと頭部の骨が丸見えになる。
頭部の骨と言っても1枚で出来ている訳ではない。
脳を覆う部分だけでも前頭骨と側頭骨と頭頂骨の3つに分かれている。
前頭骨はおでこにあたる部分の骨で、頭頂骨は後頭部の事だ。
側頭骨はその間、耳が付いている部分の骨だ。
この3つの骨を外す。
前頭骨に刃を突き立てる。
今度はメスではなく鉈だ。鉈で骨を切り砕いて行く。
皮を剥いだ時と同じ様に頭部を水平に一周する。
頭蓋骨は1枚の骨ではないので、
それぞれの骨の間に僅かな隙間がある、
だから各部に切り込みを入れれば取り外しがし易い。
前頭骨を外す為に耳の前側に刃を突き刺す。
頭頂部を通って反対の耳に回る様に鉈を入れる。
頭頂部は丸い。
だから鉈を入れる際に刃が滑らない様に注意しなくてはならない。
以前そのせいで左手の外側、
親指の付け根付近に鉈を深く入れてしまった事がある。
今でも傷跡が残っている。この傷跡を見る度に身が引き締まる思いになる。
ちゃんと仕事をこなそう。


耳の前方にある蝶形骨と前頭骨の間に指を入れる。
蝶形骨は左右の耳の前方にある骨だ。
左右にあるが2枚ではなく、頭蓋骨の内部を貫通する1枚の骨だ。
脳を下から支える様に配置されている。
指に力を込めると前頭骨が外れて、蝶形骨の上にある脳が露出する。
脳は髄膜という3層の膜で守られている。
一番外側が強膜で2層になっている。
間には整脈が通っている。
頭の骨を外すと、硬膜の一部が付いてくるので同時に脳から剥いでしまう。
これらは後で処理をする。
髄膜の一番下が軟膜でこれは脳と密着している。
硬膜と軟膜の間がクモ膜だ。
脳みそを見る度にクモ膜下出血で無くなった家族の事を思いだして切なくなる。
確かにこんな所に血が溜まったら死んでしまうだろうな。
おでこが無くなった事で頭頂骨が掴み易くなった。
頭頂部をと脳の間に指を入れる様にして掴む。
後ろに引き下げる様に外す。脳の後部が露出した。
同時に側頭骨の一部も外れるので
脳を守る骨が一切なくなる。
前頭骨と頭頂骨は内側にこびり付いた硬膜を
処理しなくては行けないので端に置いておく。
鉈を置いて脳が露出した頭部を持つ。
内臓用のコンテナの前にしゃがむ。
手で脳みそを掻き出して行く。ポリ袋に入れる。
脳の固さは木綿豆腐と同じ程度なので特に刃物を使う必要は無い。
大脳、中脳、小脳、間脳。
海馬等の返縁の器官も取り除いて行く。
掻き出してポリ袋に入れる。
細かい所や取り難い所は指の先きや道具棚から取り出したヘラを使い
掻き出して行く。削ぎ落として行く。
脳の大部分を取り出したら次は橋(きょう)だ。
橋は中脳の下に有り脳と脊椎の間にある。
ヘラをメスに持ち替えて切り取る。ポリ袋に入れる。
橋の下には延髄がある。延髄は基本的には頸椎に囲まれている。
骨の中をメスでかき回せる様にして延髄を切り取って行く。
細かくなった延髄をスプーンで掻き出してポリ袋に入れる。
終わったら先程外した前頭骨と頭頂骨に付いた髄膜の処理をする。
ヘラなどを使って器官用のポリ袋に削ぎ落として行く。
骨が切れになったら骨専用のポリ袋の中に入れる。
これで全ての器官処理が終わった。
延髄より先は頸椎、
つまり脊椎や椎骨の部類に入るので、処理の方法が器官とは異なる。


手袋をゴミ箱に捨てる。
脳そのものや脳脊髄液で濡れた手袋で次の作業はし難い。
新しい手袋を身に付ける。
器官が入ったポリ袋の口を縛り閉じる。
小さな冷凍庫から保冷剤を取り出してコンテナの中に入れる。
内臓は短時間で痛み異臭を放つ。それを防ぐ為の処置だ。
冷凍庫の中が空になる。
ここ最近、保冷剤を使用する作業が多かったからだ。
業者に発注は済ませたのだけれどまだ新しい保冷剤は届いていない。
今回の仕事ではこれ以上は使う事が無いので大丈夫なのだけれど。


コンテナにフタをする。フタはロックして簡単に開かない様にする。
邪魔にならない様に倉庫の隅に置く。
肉離れの悪さがあった物の器官の処理は順調に終わった。
何も問題が起こらなければ、肉と骨の解体に時間がかかっても、
今日は無事、夕方過ぎには職場を出られるはずだ。


彼女に早く会いたい。彼女の事を想像する。
彼女の優しさや穏やかさ、
一緒に居る時の幸せな気持ちを想像する。
それだけで少しだけ、救われた様な温かい気持ちになる。
今日こそは彼女の為に早く仕事を終えよう。






次は歯の処理だ。
女の頭部を両膝で抱える様に座る。手の届く位置に丸い受け皿を置く。
口の端をメスで切る。
下あごの付け根まで刃を入れたら反対側も同じ様に切れ目を入れる。
付け根まで刃が進んだらUターンして鼻のすぐ下を通る様に水平にメスを入れる。
反対側の付け根に辿り着く。
口の上部の肉が、唇ごとはずれる。ポリ袋に入れる。
上の歯茎が丸見えになる。
下唇も、半円を描く様にメスを入れて切り取る。ポリ袋に入れる。
舌も作業の邪魔になるのでメスで切り取る。ポリ袋に入れる。
これで下準備は整った。
遺体の歯を抜くのには抜歯鉗子(かんし)という専用の器具を使う。
これは歯科医が使用している物と同じ道具だ。抜歯専用のペンチの様な物だ。
上の前歯を先端で挟む。持ち手に力を籠めて固定する。
ゆっくりと力を籠めて歯を引き抜く。抜いた歯を受け皿に入れる。
抜歯したばかりの歯はその根に血や神経を付けている。
これらを取らなくてはならないが、それは後の作業だ。
まずは歯茎に付いている歯を全て抜かなくてはならない。
前歯、その横の歯、更にその横の歯と抜いて行く。
奥歯に取り掛かろうとした所で問題が起こった。
なんという事だ。


抜歯鉗子の合わせ、支点の部分が外れた。
1つの器具として機能していた物が、2つの金属片になってしまった。
これって壊れる物なのか?道具なのだから壊れるのは当り前か。
仕方の無い事だと思い直す。
予備の鉗子はないかと道具棚を探す。無い。
隅々まで探す。ない。どうしよう。探す。ない。
これでは仕事が進まない。仕方ないでは済まされない事体だ。


なんで予備を用意しておかなかったんだ。
なんでってこんな急に壊れる物だとは思わなかったからだ。
何か無いのか。思いだせ。
あった。思いだした。ニッパーだ。ニッパーがあった。
大分前にとても小さな遺体を解体した。
鉈で解剖するのが難しかった小さな部位を
解体する際に使った物が合ったと思う。
それがニッパーだ。道具棚の引き出しの奥底にあるはずだ。
見つけた。支点の先に付いた2枚の歯の部分が鋭く尖っている。
これがニッパーだ。
これじゃダメだ。だめじゃないか。
ニッパーは物を挟み引き抜く物ではない。
挟んで切断したり砕く用途に使用する工具だ。
これで抜歯をするのは難しい、
ニッパーよりも必要なのは刃が平らなペンチなんだ。
ペンチ。そうだペンチだ。ペンチは無かったか?
なければ車を走らせてホームセンターに買いに行かなくてはならない
それでは時間を大分使ってしまう。
今日はなんとしても彼女に会いたいというのに。
時間を使うなんてダメなんだ。
予備を用意していない自分のミスだと思う。
思いつつも、
予備を安心して購入出来る様な予算を回してくれない上も悪いと思う。
むかっ腹が立つけれど、いま怒っても何も事体が変る訳ではない。
溜め息を吐いてどうしようか考える。


ひらめく。思いだしたと言う方が正しい。再び思いだした。
急いで備え付けの収納の扉を開ける。
コンテナを収容している場所だ。
中を見回す。目当ての物が無い。
折り畳まれたコンテナを退かす。
無い。無い。見つけた。
見つけたのは小さな工具箱だ。
以前、ウィンチを上げ下げするスウィッチが反応しなくなった事がある。
原因を調べると電線が切断していた。
それを自分で修理した事がある。
その当時購入したのがこの工具セットだ。
少し前に流し場の水道管に水漏れを見つけた。
水道管の修理をするのにも工具セットを使った。
工具箱の中には一般的な工具が一式入っている。
簡単な工作や修理で使用する工具だ。
ねじ回し、とんかち、レンチ、スパナ、ノコギリ。
その中にペンチがあった事を思いだしたんだ。
工具箱のフタを開ける。持ち手が赤いペンチを見つける。
刃は平で、これならば歯を挟んで力一杯引き抜ける。


安心して額にかいた汗を腕で拭った。
ペンチを握る。
女の頭部を持って上顎の歯をペンチで挟む。
力を籠めてゆっくりと腕を引く。歯が抜けた。成功だ。
歯の根には神経と血が付いている。問題なく作業を続けられる事を確信した。
トラブルが解決するのは嬉しいけれど、時間を取られてしまった。
その時間を取り戻そうとする。
いつもより集中して作業に取り組む。
歯を抜いて行く。抜き難い時は口の中に手を入れたり、
耳を掴んだりして頭を固定して力を込める。そしてペンチで歯を引き抜く。
横に置いた皿に歯を並べて行く。
上の歯が全て抜けた。次は下顎の歯茎に付いた歯だ。
前歯から初めて奥歯へと向かって行く。
前歯、犬歯、奥歯。
こうして全ての抜歯が終わった。
ペンチと頭部を置く。
抜いた歯の先に付いた神経などを
ヘラやメスで削ぎ落としポリ袋に入れて行く。
この際、自分の指を傷つけたり切り落とさない様に注意する。
終わったら歯を小さなポリ袋に入れる。ポリ袋の口を縛る。
体毛用のポリ袋の横に歯様のポリ袋を置いた。
このコンテナに入れるのは後は手足の爪だけだ。


壁に掛けられたアナログ時計を見る。
お昼を過ぎている。
トラブルのせいで予定よりも時間は押している。
だけれどトラブルがあった割には思ったより作業が進んでいる。
後の作業は骨と肉の解体が大部分を占める。
どうしようかと考える。
結果、午後の仕事を集中して行う為に昼ご飯を食べる事にした。
お腹が減っては良い仕事はできないと思う。
遺体の肉離れが悪く作業進行が遅れそうだけれど、それくらいの時間はある。
彼女から新しいメッセージが来ているかも知れない。それも見たい。
ゴーグルを外して手袋をゴミ箱に捨てる。
流し台で手を丹念に洗う。消毒をする。
次いで顔も水で洗う。
汗をかいた顔に冷水が気持ち良い。
清潔な紙で手を顔に付いた水を拭う。
紙をゴミ箱に捨てる。
情報機器端末を持って倉庫の外に向かう。
お昼ご飯にしよう!






倉庫の階段を上がって扉を開けて一階に出る。
作業を行う倉庫は地下に埋まっている。
階段は地上の器具置き場に繋がっている。
環境調査に使う機器や設備の保管庫だ。
そういった器具を使う事は無い。
だけれど時たま新しい器具が入って来て、
古い器具は取り除かれて行く。
なぜそんな事をするのか?
ボスが言うにはこの場所を登記簿にある通りの
環境調査会社の関連施設にしておく為の処置、その1つという事らしい。
そういう物なのだろうと納得しておく。
器具置き場を抜けると建物のエントランスに繋がる。
エントランスの奧に扉がある。扉の先は10帖程の休憩室だ。
休憩室にはソファやテレビや本棚、
トイレの他にガス台付きの台所や冷蔵庫も設置されている。
別の部屋にはシャワーまである。なのでその気なればここで暮らす事もできる。
まあ職場で寝泊まりしても気が休まらないので、そんな気はないのだけれど。


通勤の途中に買っておいたお昼ご飯を冷蔵庫から取り出す。
電子レンジに入れる。
家から職場の丁度間に、車で寄れるパン屋がある。
サンドウィッチの他に総菜も売っている。
今、レンジで温められているのがその総菜だ。
パンも買ってある。こちらはフランスパンのバケットだ。
まな板と包丁を取り出す。バケットを乗せて好みの大きさに切り取る。
オーブントースターに入れて焼く。
この職場に勤め出した当初は健康に気を使って毎朝弁当を作り持参していた。
なのだけれど、ある日弁当を鞄に入れ忘れてしまった。
仕方が無いので通勤途中のコンビニで昼ご飯を買った。
その時、朝に弁当を作らない事の楽さに気が付いてしまった。
それ以来、お昼ご飯は市販の弁当や総菜で済ませる様になった。
社員食堂がある会社だったらまた別の結果になったのだろうけれど。
職場の近くに飲食店が無いのも残念だ。
そのかわり、通勤時にお昼ご飯を買える店を何店も知っている。
最近、良く利用するのがこのパン屋だ。
テタールという店名で川沿いにひっそりと佇んでいる民家を店舗にしている。
パンは勿論、扱っている総菜も多様で味もとても美味しい。
地元で採れた野菜を使っていると言う。
いわゆる自然派の隠れた名店と言うやつだ。


冷蔵庫から緑色の瓶を取り出す。
炭酸水のサンペレグリノだ。
同じ炭酸水でもペリエよりもこちらの方が好きだ。
食事中の飲み物として良く利用している。
栓を抜いて中身をグラスに注ぐ。
休憩室の窓から午後の柔らかい光が室内に入る。
グラスに反射して炭酸水の泡が軟らかく舞い上がる。
温まった総菜とバケットを皿に乗せる。
お昼ご飯を始めよう。


いただきますと1人で手を合せる。
今日買った総菜は豚肉のソテーだ。
厚さは2cmもある。
良い焼き加減の良さを知らせる様に中身は淡いピンク色に輝いている。
横にはバターで炒めた菜っ葉が付いている。
フォークを使って食べる。美味しい。
バケットは褐色の香ばしい匂いを放っている。
何処までも飛んで行きそうな匂いの良さだ。強く、香ばしい。
手に持つと軽くてカラッとしている。食べる。美味しい。
ソテーをバケットの上に乗せる。
堅いパンに緩やかな肉汁が染込む。
肉と焼き上がった小麦粉の匂いが合わさる。食べる。美味しい。


味に満足する。一息つく。
テーブルにあるリモコンを手に取ってテレビを付ける。
時刻はお昼過ぎ。国営放送にチャンネルを変えるとニュースをやっていた。
これで良いかとリモコンを置く。


ニュース。
日本人の有名なカトリックの神父が亡くなった。
彼は日本でキリスト教の普及や
キリスト教の日本でのあり方に付いて考え続け、
多くの日本人作家とも交流を持ち影響を与えた。


ニュース。
日本の寺から大仏が盗難された。
犯人は分かっていない。
昔からこの地域の支えとなって居た仏像を
なんとしてでも取り戻したいと寺はコメントしている。


ニュース。
最近起こっている連続通り魔の続報。
昨日夕方頃、東京都の立川で5人目と見られる被害者を発見。
被害者は犯行現場の近所に住む主婦で、
子供を塾に送った帰り道で犯行にあったと見られる。


最後のニュースを見て眉をしかめる。
酷い事件だと思う。
社会で起こっている出来事に対して自分なりの哲学がある。
何らかの犯罪にはニュースで見るだけでは判らない背景がある。
愛憎のもつれが原因の殺人といってもその愛憎の形は様々だろうと思う。
だからどんな事件も犯人と被害者の関係は簡単には語れない。
なのだけれど、通り魔は別だ。
犯人自体の人生を簡単に語る事はできないだろうと思う。
だけれど通り魔と言う犯罪は犯人と一切関係の無い人間を巻き込む物だ。
だから悪い事だと断言出来る。
とても悲しい話しだ。残された家族はどんな気持ちだろうか?
お母さんを突然亡くした子供があまりにも可愛そうだ。
考えただけで涙が出そうになる。
これでは折角の昼ご飯がまずくなる。
だからチャンネルを変えた。
民放に切り替えて当たり障りの無いバラエティーを流した。


バケットを食べて肉を噛み砕き咀嚼して炭酸水で飲込む。
真冬の物とは違う陽が窓から入る。
身体に当る。暖かい。心地よい。
ごちそうさまでしたと1人で呟いて手を軽く合わせた。


手に付いた油を布巾で拭う。
嬉々として彼女からのメッセージはないかと確認する。
あった。




  「お昼ご飯は食べられてる?
   お仕事が忙しいからって抜くのはだめだよ?
   健康に悪いもの。


   今日は私はパンを食べたよ。
   でもパンを食べるとワインも飲みたくなっちゃうよね。
   それは今日の夜のお楽しみにしておく。
   美味しいワインを出すお店を見つけたの。
   パンも美味しいから、パンとワインを一緒に食べようね」




笑顔になる。俺も今日はパンを食べたよと返信する。
良い気分でコーヒーを入れる。
仕事に大きなトラブルが無く進んでいると時の
昼食はとても良い物だなとおもう。
冷凍庫からコーヒー豆を取り出してミルで粉砕する。
ペーパードリップをコーヒーメイカーにセットして砕いた豆を入れる。
タンクに水を注ぐ。後はコーヒーメイカーが自動でやってくれる。
水が沸騰して豆に注がれて、コーヒーが抽出されるのを待てば良い。
その間に冷蔵庫からレモンを取り出して輪切りにする。
使ったまな板や包丁や皿を洗う。
出来立てのコーヒーをカップに注ぐ。
そしてコーヒーの中に輪切りのレモンを入れる。
スプーンで適当にかき回す。
柑橘系の酸味と香ばしい良い匂い。
楽しい気持ちでレモンコーヒーを飲み、テレビを見つめた。
飲み干す。カップを流しに置いて水を入れておく。
平穏な時間を楽しんでいたい気持ちもあるのだけれど、
今は時間を大切にしたい。
一昨日も、昨日も彼女と過ごす事が出来なかった。
今日こそ彼女に会いたい。
だから、午後の仕事を始めよう。
早く彼女に会いたい。





地下に降りる。
ウィンチにぶら下がる首の無い遺体を見る。
床に置いた頭部には歯と眼と目から上が何もない。見る。


頭部を持つ。
メスを握って耳を顔から切り離す。
肉用のポリ袋に入れる。反対側の耳も同じ様に処理する。
切り取ったのは耳介と呼ばれる耳の1部分だ。
耳介は頭部の側面に付いている肉と軟骨のでっぱりだ。
一般的に耳と呼ばれているのはこの部分の事だ。
顔に張り付いている耳の事だ。
耳たぶなどで構成されていて、音を集めたり、
耳の内部にゴミや水が入らない様にする役割がある。
中には弾力のある軟骨が通っている。
そのはずなのだけれど、上司の指示では
これを軟骨と耳を解体しなくていいと言われている。
後の行程では、
軟骨ならば筋肉や脂肪と一緒の扱いでも問題のない処理をしている様だ。


耳介をこの段階で切るのには訳がある。
頭部を掴む際、耳は良い持ち手になる。
頭部の重さは体重全体の1/10程と言われている。
体重55kgの女でも頭部は5kgもある訳だからそれなりに重い。
だけれど、頭は持ち運ぶのに適した形をしてはいない。
その中で唯一、耳は良い持ち手になる。
そのまま耳を掴んでも良いし、孔に指を入れて運んでも良い。
髪の毛を刈る時や抜歯をする時に良い持ち手になる。
しかし、次の作業では耳が邪魔になる。
だからこそこの段階で耳を顔から切り離すという訳。


耳を顔から取り除いたら、顔の肉を処理する。
口回りの筋肉は抜歯する時に取り除いてある。
耳があった場所の皮膚を持ち上げる。
メスを突き刺す。先端が頬骨に当る。
頬骨に沿う様にメスをスライドさせる。
鼻に当るまで押し進める。
こうして頬骨の肉を取り除く。肉の名前はそのまま頬骨筋だ。
ポリ袋に入れる。
次はエラと呼ばれる部分の筋肉、
咬筋を削いでい行く。ポリ袋に入れる。
やはり通常の遺体より肉が骨から離れ難い。
顔の反対側にも同じ処理を施す。ポリ袋に入れる。
これで頬骨と鼻より下の処理が終わる。
骨にこびり付いている骨膜は後で切除する。


耳介を取り除いても孔は開いたままだ。当り前だけれど。
耳の孔が開いている部分の骨を側頭骨と言う。
耳の孔の前には凹みがある、下顎骨の一部がそこに入り込んでいる。
周りは筋肉で覆われている。
つまり側頭骨と下顎骨の組み合わせ、
それに筋肉が顎の関節を作っているという訳。
下顎と上顎は繋がっていない。上顎骨とは上の歯や鼻が付いている所を言う。
下顎と上顎が繋がっていないから人は口を大きく開く事が出来る。
顎の関節の筋肉を削りポリ袋に入れて行く。
反対側の肉も削ぐ。ポリ袋に入れる。
これで顎の関節が外れる。
だけれど下顎は肉と皮膚で喉とくっ付いている。
なので下顎の輪郭に沿って刃を入れる。
喉元を深くえぐる様にして皮膚と肉をメスで切断する。
メスが反対側の骨に当ると下顎ががくりと外れた。
反対の手で顎を受け止める。


頭部から顎を外す事で下顎内部の処理が簡単になる。
片手で外れた下顎を掴んで残った舌や下顎の筋肉を削いで行く。
ポリ袋に入れる。
下の付け根部分には舌骨というU字型の骨がある。
舌骨は下顎の裏側にあり舌を支えているのだけれど、
周りは全て筋肉で囲まれている。
つまり骨と骨の継ぎ目、関節がないという珍しい骨だ。
周りの筋肉を削ぎ落としてU字型の小さな骨を取り出す。
骨膜を削いで骨用のポリ袋へ入れる。
次に下顎の歯茎の裏、舌の付け根、口の底を取り除く。
ポリ袋に入れる。
こうして舌の全てを切り落とす事が出来た。
最後は歯茎だ。


全ての歯を抜いた歯茎は柔らかい。
歯は顎に開いた穴に先端を埋めることで固定されている。
一般的に歯茎と言われているのは、
歯と歯の間と穴の間を埋める肉の事を指している。
だから抜歯が済んだら後はその肉を削ぎ落として行けば良いという訳。
細かな部分なので小さなメスを使って集中して作業を行う。
削ぎ落とした肉は肉用のポリ袋に入れる。
歯茎を全て切り落とした。
これで下顎の処理の殆どが終わる。
後は骨にこびり付いた膜などを削ぎ落とせばいい。
ポリ袋に入れる。終わる。
大きく深呼吸した。綺麗な下顎骨の完成だ。
自分の職務は解体作業だ。
つまり物を壊している訳だ。
なのだけれど綺麗な骨を手にしていると、
これが自分で作り出した作品の様な物に思えて来るから不思議に感じる。
僅かな間、下顎骨を眺めた後、満足して骨用のポリ袋に入れた。


やはり肉離れが悪いなと思う。
頭部でこれでは、手足や胴体の解体には力が要りそうだ。
休憩をしたいのだが、先の事を考えて我慢する。
彼女の笑顔を想像する。よし頑張ろう。


ノミと金槌を道具棚から取り出す。
頭頂部と下顎の無い頭部を持ち上げる。
事情を何も知らない人がこれをみたら、
人間の女の頭部だとは思いもつかないだろう。
残された頭部には上顎骨の他に、
蝶形骨と側頭骨と後頭骨、
前頭骨の一部、眉毛の辺りと
頭頂骨の一部、うなじの辺りが残っている。
内部から解体して行く。
両足で頭部を挟み込み固定する。
眉があった部分の内側にノミを当てる。
柄の頭を金槌で軽く叩く。
前頭骨のこの部分は2重になっていて、中には小さな空洞がある。
前頭洞と言われている。管を通して鼻を繋がっている。
左右の眉の裏に1つずつある。
この場所は粘膜で覆われているので、それを取り除かないと行けない。
スプーンを使って擦る様にして強引に取っては肉用のポリ袋に入れて行く。
前頭洞の粘膜は粘液を作る。
粘液は鼻の内部、鼻孔に送られる。
つまりここは鼻水を作る出す場所の1つで、そのお陰で
内臓や脳が冷気や熱気、細菌や塵から守られているという訳。


蝶形骨はこめかみから反対側のこめかみへと、
脳を下から支える様にして頭の中を貫通している。
蝶形骨にも同じ様な空洞がある。
こちらも左右に1つずつ存在している。
空洞の内部を処理する為に
まず、頭蓋骨の中の蝶形骨をノミを使って切り取ってしまう。
この部分に空洞がある。
該当する部分をノミで開けて中の粘膜を処理する。ポリ袋に入れる。


次は既に取り除いてある眼球の奧に残された筋肉を処理する。
なのだけれど、
眼球が入る眼窩は複雑で7種類の骨に囲まれて出来ている。
だからそれらを取り除いた方が眼窩内部の肉は削ぎ易くなる。
前頭骨も、切り取った蝶形骨もその中に含まれる。
篩骨(しこつ)もその1つで、眼と眼の間、眉間の裏側にある。
篩骨の役割は、頭蓋骨の内部と眼窩と鼻の内部を仕切る事だ。
ここにも鼻に通じる穴が2つ空いているのだけれど、
こちらは細かく小さい穴の集合、
スポンジの様な物なので纏めてノミで砕いてしまう。
骨様のポリ袋に入れる。これで眼窩の処理が簡単になった。
眼窩の中、眼球と繋がっていた筋肉をメスやヘラを使って削いで行く。
ポリ袋に入れる。瞼は残ったままなのだけれど、これは後で処理をする。


篩骨の下部を砕きポリ袋に入れる。
篩骨と蝶形骨が取り除かれた事で、鼻の内部、鼻孔の肉を取り易くなる。
鼻の骨、鼻骨に付いた肉を削ぐ。ポリ袋に入れる。
鼻と口とを水平方向に仕切る上顎に付いた粘膜や肉を削ぐ。ポリ袋に入れる。
鼻の内部を仕切る鼻中隔もメスで取り除く。鼻の穴が1つになる。
ポリ袋に入れる。
眉の裏や篩骨、蝶形骨にあった空洞を副鼻孔という。
名前の通り粘液をだして鼻孔を補助する役割があるのだけれど、
それ以外にも顔に受けた衝撃を分散する役目もあると言われている。
左右に4つずつ合計8個ある。
前頭骨に2つ、蝶形骨に2つ、篩骨にスポンジ状の物が2つ。
そして最後に開けるのが眼の下、頬の裏、上顎骨にある上顎洞だ。
なのだけれど、それを処理するのはあまり気乗りがしない。
仕事なのでしなくてはいけないのだけれど。
やれやれと思いながらノミと金槌を使って上顎骨の一部を外した。
やはり、嫌だ。
粘度の緩い濃い黄色の膿みが出てくる。
ここは鼻のすぐ下にあるので炎症を起し易く膿みが溜まり易い場所だ。
人の糞尿を処理する事はこの仕事をしてから慣れたのだけれど、
膿みは苦手なままだ。
膿みをガーゼで拭き取って使い捨て手袋と同じゴミ箱に捨てる。
そして中の粘膜を削ってポリ袋に入れる。


上顎骨に付いている歯茎を下顎と同様に切り取る。ポリ袋に入れる。
歯茎の処理が終わったら、
上顎の口の中だった部分、口蓋と呼ばれる場所の肉をこそぎ落として行く。
海苔を食べているとよくここに張り付いく。舌で取るのがこそばゆい時がある。
その部分が口蓋だ。
口蓋は歯茎の裏部分では固く、喉に向かう程、柔らかくなる。
奥にはのどちんこと呼ばれる部分がある。
それもメスで切り取る。ポリ袋に入れる。
そのまま下って、喉の内外を切断して行く。
気管と食道が切り取られた喉の後始末だ。
喉仏と言われる部分の肉と軟骨を切り落とす。ポリ袋に入れる。
気管と食道の残りや周辺の筋肉を切り取る。ポリ袋に入れる。
これで喉の前部が無くなる。
次は喉の後ろ、うなじをより下の肉を処理する。
首を切断した頭部には1から4番目までの頸椎が付いている。
身体の方には5から7番目の頸椎が残っている。


4番目の頸椎に付いている肉や膜を剥がしていく。
露出した骨を握って、3番目に付いている皮や肉を引っ張って剥がして行く。
通常でも力のかかる作業なのだけれど、
この遺体は肉が堅いので更に力が必要になる。
離れない部分や頸椎に付いた肉や膜は大小の刃物を使って削いで行く。
ポリ袋に入れる。
時間をかけて力の掛かる作業と細かい作業を交互に繰り返す。
終わる。頸椎が露になった。
一番上の頸椎は延髄に繋がっている。
延髄はすでに処理してある。
だから後は上顎骨の表面に付く皮と肉と骨膜を剥がせば良いだけだ。


下顎の時と同じ様に頬骨周辺の肉から切除する。
上顎の場合は頬骨の上に乗る肉からだ。
頬と瞼の間にある肉からだ。
顔の外側の肉から処理を初めて中心の方へと刃を向けて行く。
小鼻と呼ばれる部分の肉を切り取り反対の頬に辿り着く。ポリ袋に入れる。
鼻骨周りの肉を切り取って骨を露出させる。
残っている瞼も取り除く。顔面の肉を全て取り除く。ポリ袋に入れる。
側頭部と後頭部に残る肉を切り落とす。ポリ袋に入れる。
骨についた膜や肉の欠片を削る様に処理する。ポリ袋に入れる。
最後に耳の内部を処理する。
耳の内側にある三半規管や鼓膜の周囲の殆どは骨で覆われている。
だから耳の穴に刃物を通す事でそれを取り出して行く。
神経の通り道や耳と喉とを繋ぐ耳管は骨で塞がれていないのだけれど、
刃物を入れるのにはさすがに小さすぎる。


穴の周りは軟骨なのでそれを取り除く。ポリ袋に入れる。
こうして穴を広げると作業がし易くなる。
内部の肉や器官を削ぎ落とす様に処理して行く。
細かくなった肉や粘膜や器官を取り出す。ポリ袋に入れる。
耳の内部、鼓膜には耳小骨という3体の骨がくっ付いている。
とても小さくて小指の先にも満たない。
この骨が鼓膜に伝わった音を耳の奧へと伝える。
耳小骨もきちんと取り出して、骨様のポリ袋に入れる。
これで片耳の処理は完了だ。
反対側の耳の内部も同じ処理をする。ポリ袋に入れる。
最後に骨の裏側に付いた肉や膜を削って綺麗にしていく。
作業がし難い所は骨を外したり切断してから肉を削いでいく。
整形外科医や美容整形と違って、後の事を気にしなくて良い分、
自分の仕事は簡単だなと思う。
遺体の分別さえ出来れば、骨や肉の形は問われないのだ。
ポリ袋に入れる。


綺麗な上顎骨が完成した。
時間は掛かってしまったけれど完璧な処理を出来たと思う。
仕事をうまくこなせるとやはり嬉しい。
上顎骨を骨様のポリ袋に入れる。


これで頭部の処理が終わった。
人間の頭部だった物は、
肉と骨と脳と感覚器と器官と髪の毛に解体されてポリ袋に納まっている。


次の行程は胴体に繋がっている2本の腕を解体する作業だ。
遺体が逆さまにぶら下がっている事を利用して
腋に鉈を入れて、肩の部分で切断してしまうのが
もっとも簡単な腕の切り離し方だ。
手足は胴体から切断した方が作業しやすくなる。


鉈を持つ。そこで着信音が耳に聴こえた。
通話の呼び出しだ。
もしかして彼女からだろうか?淡い期待を持ちながら鉈を手放す。
彼女も仕事中だというのに珍しい事だ。
手袋をゴミ箱に捨てる。
革のケースに入った端末を手に取り相手を確認する。画面を見る。
思わず3秒ほど地面を見つめてしまった。
咳払いをして声帯を起す。
もしもし。おつかれさまです。
相手の声が聞こえる。ボスだ。


会話が始まる。終わる。
倉庫の壁に掛けている時計の針が3分程進む。
通話を終えて眉間に皺を寄せる。
有無を言わせとはこの事だ。
ボスの用件は仕事の指示だった。
現在取り組んでいる職務とは別の仕事の指示だ。
それも遺体の解体とは関係の無い事だ。
只でさえ予定が押していると言うのに。
ボス曰く、人手が足りなくて仕方なくとの事だけれど、
まったくなんという事だろう。
部下を仕事に集中させるのも上司の仕事だと思うのだが。
ウィンチからぶら下がる遺体を眺める。
壁の時計を見る。ボスからの指示を頭の中で反復する。
急いで済ませれば彼女との夕食には十分間に合うはずだ。
素早く手を消毒して階段を上る。
休憩室に置きっぱなしにしていたキーケースと財布を掴む。
ハンガーに掛けておいたジャケットを纏う。
エントランスのドアを開錠して外に出た。振り返ってドアを施錠する


駐車場まで歩く。
陽が傾きかけている。昼間の暖かな空気とは違い寒さを感じる。
だけれど冬の冷たさとも違っている。
もうすぐ本格的な春になる。
だけれど八王子の山間はまだ気温が低い。
緑の葉が生い茂る樹々が風で揺れる音がする。
ジャケットの襟を立てて首元を隠した。
山の空気が肺に染込む。
遺体がぶら下がる倉庫とは空気の美味しさが違う。
地面から生えている雑草を踏みしめて歩く。
駐車場に着く。車は5台程止める事が出来るのだけれど、
今は俺が乗って来た黒い色のMINIしか止まっていない。
クーパー時代の物ではなく、BMWから出ている新モデルの方だ。
2年前に購入した。MINIにしては珍しい4WDの物を選んだ。


車に乗り込みアクセルを踏む。
舗装された山道を降りて行く。
道の両脇には木造の古い民家が並ぶ。
山間で土地が広い場所だからなのかどの家も大きい。
古さと相まって、この道を通る度に
自分が探偵金田一耕助の世界に
迷い込んでしまったのではないかという気分になる。
まあ確かにここで人が殺されても簡単には気づかれないだろうなとは思う。
少しすると都道と合流する、片道が2車線になる。
小学校や郵便局が見える。
途中で坂を上る競技用の自転車とすれ違った。
いわゆるロードバイクという奴だ。
乗っている人も身体に密着したジャージを着て
尖ったヘルメットを被っている。
バックミラーで遠ざかる後ろ姿を見送る。
職場は都道から脇道に入った先にある。
脇道に逸れずに都道を進むと大きな山がある。
この職場に勤め出してから競技用自転車と
すれ違う事が余りにも多いので
この道の先に何があるのかを以前調べた事がある。
この先の山には自転車愛好家に有名な峠があるらしい。
坂道が多い八王子の中でも急勾配が多いコースで
自転車での山登り、つまりヒルクライムの腕試しにはもってこいの場所だ。
wikipediaに書いてあった。
日頃見かける自転車の数を思いだしてそうなのだろうと納得した。
面白そうだし、身体を動かすのは嫌いではないので、
自転車を購入して自分も峠を上ってみようと思った事もあるのだけれど、
どうにも休日に職場近くを通るのが嫌な気がしてやめてしまった。


坂道を下り大きな十字路に出る。
車の交通量が一気に増えて騒がしくなる。
この十字路にはチェーン店の弁当屋がある。
昔はコンビニだったのだけど、潰れてしまった。
その頃の方は良く利用していたので少し残念に思う。
まあ、この弁当屋もたまに利用はするのだけれど。
この前食べたカツ丼は美味しかった。
そんな事を思いながら十字路を抜けて川沿いの道を走る。
丘を1つ越えて秋川街道に出る。
秋川街道は八王子の中心と市外を結んでいる。
俺が向かっているのは市内だ。
反対側に向かえば釣りやキャンプが出来る
綺麗な川や山や滝がある五日市に行く事が出来る。
これからの季節休日ともなれば、
川辺でのバーベキューやアウトドアを楽しむ為に、
家族や友人や恋人を乗せた車でこの道も混み出す事だろう。
アクセルを踏み込む。溜め息が出て来た。


結局30分程かけて目的地に着いた。
八王子駅の北口駅前だ。
小さなコインパーキングに車を止める。
4つある車庫のうち3つが埋まっていた。


数件先に白い建物が見える。
八王子の繁華街を管轄にしている企業の事務所で
うちの会社の取引先の1つだ。
取引先というのは推測でしかないが、間違いのない事だと思う。
ボスと一緒に何度か事務所にお邪魔した事があるからだ。
その時はこちらの仕事に関する事は1度も話題に出る事はなかった。
とても良く持て成してくれて伺う度に向かいにある鰻屋から
うな重を取り寄せてごちそうしてくれる。
ここの社長は誰もが知っている組織の
直参としても活動している事が業界内では有名だ。
直参とはその組織のボスと契約を結んで
正式にその組織に所属している人間という程度の意味だ。
だからこの事務所は業界最王手の子会社の様な物だ。
或は八王子支店か。
建物は古く、昔別の会社とのいさかいがあった際には
ここに2発の銃弾が撃ち込まれた。
修復をしていなければその痕が残っているはずなのだけれど
わざわざ探す気にはなれない。


仕事をこなす為に事務所を横目に歩き出す。








(後編に続く)
後編:http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20140404/1396598854









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