倉田百三『愛と認識との出発』(1921年)―社会と人間の発見

愛と認識との出発 (岩波文庫)

愛と認識との出発 (岩波文庫)

例えば大野の黎明に真白い花のぱッと目覚めて咲いたように、私らが初めて因襲と伝説とから脱してまことのいのちに目醒めた時、私らの周囲には明るい光がかがやきこぼれていた。……しかしながら私らが一たび四辺を見まわすとき、私らはわたしらと同じく日光に浴し、空気を吸うて生きつつある草と木と虫と獣との存在に驚かされた。さらにわたしらと共に悩ましき生を営みつつある同胞(Mitmensch)の存在に驚かずにはいられなかった。実に生命の底に侵徹して「自己」に目ざめたるものにとっては自己以外のものの生命的存在を発見することは、ゆゆしき驚きであり、大事であッたに相違ない。
――岩波文庫版85頁――

倉田百三は大正時代のベストセラー作家ですが、今では「倉田百三」という名前を知ってる人は、ましてや『愛と認識との出発』という本を知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。

旧制の第一高等学校(現在の東京大学)の学生たちが、もっとも愛読した書物は何か。1943(昭和18)年に同校で行われた調査によると、第一位が倉田百三の『愛と認識との出発』である。以下、第二位−阿部次郎『倫理学の根本問題』、第三位−同じく倉田の『出家とその弟子』、第四位−西田幾多郎善の研究』、第五位−出隆『哲学以前』とつづく(『第一高等学校自治寮六十年史』)。
――同「解説」――

ここで名前が挙げられている中で、今でもそれなりに読まれているのは西田幾多郎善の研究』くらいでしょう。あとはすべて、文学史哲学史を研究する人間が史料として読む程度で、一般には忘れられてしまっている。それは何故か、というのも興味深い問題ですが(思想の普遍性とは何か)、ここではベストセラーから読み取れる時代性について考えてみたいと思います。


政治史家の飯田泰三は1980年の論文「ナショナル・デモクラットと『社会の発見』」において、当時の知識人たちが1921年ごろに、国家とは異なる領域としての「社会」を発見することで一斉に思想的な展開を遂げたことを指摘しました。吉野作造を例に挙げると、1910年ごろは「社会は国家なしでは存在できない。ゆえに社会と国家は同じものである」と言っていたのに対し、1921年には意見と利害の多様性をかかえた「社会」と、その多様性を統合する装置としての「国家」が明確に区別されるようになるわけです。
この飯田論文を契機に「〜における社会の発見」という論文が大量に書かれるようになります。ただ、そのときフォロワーたちが見落としたのは、飯田氏が「吉野にかぎらず“大正的”思想状況一般を特徴付けるメルマークとして、「社会」と「人間」の発見をあげることができる」と書いていたことではないでしょうか。発見されたのは「社会」だけでなく、「人間」も同時に発見された。「同時に」というところが重要なのです。

それまで「御国のため」意識の陰にかくれてあらわにならなかったヨリ基底的な“生”の諸相が対自化されてくるのである。それは一方で、「弱肉強食」の「生存競争」下にある「実生活」の現実を対象化してゆく志向を生み、やがて「社会の発見」にいたる。他方、ネーションとの一体感を喪失して「何のために?」という問いに「煩悶」しはじめた青年層の一部が、「人生」の真実と「自我」の「生命」感を求めて問題を内面化してゆく過程で、「人間」としての自己、「人格」としての主体を発見するに至る。
――飯田泰三「ナショナル・デモクラットと『社会の発見』」1980年(『批判精神の航跡』205〜206頁)――

飯田氏は政治史の研究者なので、力点が置かれているのは「社会の発見」の方で、「人間の発見」の方はあまり深く追求されていません。でも、このふたつの発見をどう繋げるかを考える必要があるのではないか、と僕は思います。人が国家の一員としてではなく、ひとりの人間として世界に投げ出されたとき、そこからどうやって他者と繋がっていくのか。おそらく大正時代の知識人もそういうことで悩んだはずで、その悩みを引き受けてはじめて「社会の発見」がどういうものであったのかがわかるのではないか、と。
そういう問題を考える上で倉田百三の『愛と認識との出発』は結構重要なテクストなのではないかと思います。倉田は「国民」ではなく「人間」としての自己を見出すのですが、それと同時に「他人は本当に存在するのか」という唯我論に陥ってしまう。『愛と認識の出発』はそのような状態から出発し、唯我論を克服し、他者とのかかわりの持ち方を学ぶ過程が描かれているわけです。思想的自伝、というのでしょうか。

この書にはいわゆる唯物論的な思想はない。一般的にいって、社会性に対する考察が不足している。しかし生命に目ざめたる者は先ず自己の享けたるいのちの宇宙的意義に驚くことから初めねばならぬ。……社会共同体の観念も我と汝と彼とをひとつの全体として、生を与うる絶対に帰一せしむる基礎なくしては支えがたい。社会科学の前に生命の形而上学がなくてはならぬ。
――岩波文庫版326頁――

倉田自身が言うように、直接社会を扱っているわけではないのですが、孤独な人間が集まって「社会」を形成にするに至る理論が、彼女に振られたりする話を交えて(赤裸々に)描かれています。現在の他者論の水準からみればレベルが高いとはいえないにせよ、「社会」の存在が自明ではないからこそ何とかしてそこに到達しようとする熱気のようなものが感じられて、いま読んでも意外と面白いです。

個性は他人の存在を含み得るものである。個性は一般性の限定されたるものである。そのなかには他生の要素が含まれている。自己と他人とを峻別し、先ず自己の存在を意識して然る後に自己と全く無関係なる他人の存在を認めるのではなくして、自己は独存しないものとし、その本質のなかにすでに他人を含めるものとしての自己を経験するならば――それは愛の意識である――そしてその体験より表現の動機を感ずるならば共存の芸術が成立し得るはずである。
――同165〜166頁――

ただ、ここで注意しておかなければならないのでは、倉田を含めてこの時期に「社会」を理論化しようと試みた多くの文明批評家(長谷川如是閑、土田杏村etc)が、ほぼ例外なく満州事変以降にファシズムへと急接近していったということです。ハリー・ハルトゥーニアンが指摘していたように、「社会」を国家や資本主義への抵抗の拠点として見出そうとした彼らは、「社会」を重視するあまりにそれを実体的・永遠的なものだと考えるようになってしまった。そうすると、社会を関係性とみる当時の倉田のような視点は失われてしまい、逆説的にも「日本」という共同体を固定的・永遠的なものとみるファシズム思想と近似してしまう。そこに問題があったのではないか、ということです。
丸山真男は1960年の「個人析出のさまざまなパターン」という論文で、日本では「個人」が成立したとき、その個人が集まって結社を作るのではなく、むしろ「私化」「原子化」してしまったと述べました。個人が結社を共に作るような他者を見出さないまま「原子化」してしまうと、より所の無い個人はやがて既存の共同体に回帰し、全体主義化してしまう。このような丸山の問題意識は飯田論文にも引き継がれているのですが、それを乗り越えていくためにこそ、近代日本の(可能性としての)他者論の系譜をたどってみることが必要ではないかと思われます。