覚え書:「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『オルフェオ』=リチャード・パワーズ著」、『毎日新聞』2015年08月09日(日)付。

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今週の本棚:鴻巣友季子・評 『オルフェオ』=リチャード・パワーズ
毎日新聞 2015年08月09日 東京朝刊
 
 (新潮社・3132円)

 ◇音楽と文学による大胆な“翻訳”

 遺伝子学と音楽という分野とテーマを掛け合わせた野心作だ。作者には『幸福の遺伝子』という前作もあり、「黄金虫(ゴールドバグ)変奏曲」(バッハの「ゴルトベルク変奏曲」と掛けた洒落(しゃれ)。未訳)で、遺伝子と音楽というカップリングはすでに試みられており、『オルフェオ』では得意のフィールドを自在に駆け巡っている。

 主人公は、知る人ぞ知る前衛作曲家ピーター・エルズ。二十代では、ピアノ、クラリネットテルミンの演奏で、ソプラノ歌手がカフカの格言(アフォリズム)を歌いあげる「冒険的な」連作歌曲(観客より演奏者の数の方が多かった)などを発表した後、ジョン・ケージの「ミュージサーカス」の上演会場で、ヒッピー文化の“ハプニング”をプロデュースするボナーと出会い、コンビを組む。歌い手が痙攣(けいれん)しながら踊り、奏者がガスマスクを着けてタップを踏む「ボルヘス・ソング」他を世に問うが、あるとき、神聖ローマ帝国の急進派信徒への包囲戦を材にしたオペラの内容が、当時のカルト教団の立て籠り事件と酷似したことで、活動を停止。七十歳の現在はペンシルベニアで独居し、ある生物実験にいそしんでいる。

 ストーリーラインは三つ半ある。一つは、ピーターの逃走劇。彼はしばらく前に、DIY(手作り)生物学実験キットを知ってネットで注文し、セラチア菌のゲノムを操作してネズミに音楽遺伝子を組みこみ、普遍の音楽を未来永劫(えいごう)に保存するという実験を続けていた。これをテロ対策捜査班に「バイオテロ」と勘違いされ、追われる身となったのだ。二つめは、前段に少しまとめたピーターの来し方。挿話の一つ一つが極上だ。この回想パートで、彼は四人の重要人物と再会する。インディアナで初恋の女性に、セントルイスで元妻に、アリゾナでは決裂したボナーに、そして最後は「わたしの作った唯一まともな曲(ピース)」だという最愛の娘に。そして三つめの軸は、パワーズ一流の二十世紀の現代音楽史ならびに音楽論の展開。パワーズによる音楽史の組み換えでもあり、読者は「愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラブ)」を、十四世紀のマショーからウォルター・ピストンに至るまでの諸スタイルで演奏する三十六の変奏曲に出会い、メシアンがナチ収容所で作った「時の終わりのための四重奏曲」の講義を聴いたりする。三つ半の「半」は時おり文中に投入される警句のような謎の短文のこと。

 多くの評者が指摘するだろうし、パワーズ自身も本書の関連図書として推薦している『The Rest Is Noise』(「あとは騒音」、邦題『20世紀を語る音楽』)の著者アレックス・ロスとの関わりには触れておくべきだろう。クラシックもポピュラー音楽も多様な楽曲を自在に論じ合わせるロスの影響が感じられるのだが、ロスの方も、先述の著書を出す以前にパワーズの『われらが歌う時』などを読んだと発言している。突出した二つの才能をめぐり影響の大きな循環が起きているのだろうか。音楽学者の細川周平氏は『20世紀を−』を読んだ時点で、逆にパワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』の手法を想起したと早くも指摘している。

 本書は大胆な“翻訳”でもある。分子生物学を音楽で翻訳したもの、または二十世紀の音楽を二十一世紀の文学で翻訳したものともいえる。翻訳を行う言語が拡張され鍛えられるように、音楽も文学も、その可能性を審判されることになった。さて、前述した「短文」はさらに二つの相に分かれているが、終盤で二つの時間が近づき、完全に接したとき、不意に語りのある変化が起きる。ギリシア神話オルフェオが最後で振り向くような衝撃だ。(木原善彦訳)
    −−「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『オルフェオ』=リチャード・パワーズ著」、『毎日新聞』2015年08月09日(日)付。

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