日記:戸田城聖の「宗教界の王者なり」という認識は、国家に認められることによって、それが本物の宗教であることと理解するエセ国教主義とはほど遠い認識ではなかったか

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fbからの転載に若干加筆しましましたが「記録」として残しておきます。

3月16日は創価学会にとって忘れ得ぬ記念日で、第2代戸田会長が、(「かつて」でも冠したほうがいいとは思いますが)富士宮大石寺で、「広宣流布の模擬試験※」として青年を集め、「創価学会は宗教界の王者なり」と宣言したセレモニーが昭和33年にありました。

ここでいう「宗教界の王者」というのは、いろいろな意味があるとは思いますが、すなわち「宗教のための人間」という宗教の悪性の鎖を断ち切り、人間を蘇生させる宗教としての創価学会は、前代未聞であるという意味で「宗教界の王者」との意味が含み置かれていると考えます。
広宣流布とは最大公約数で理解すれば、その信仰を受容するしないに関わらず、全人類が平和に人間らしく暮らしてく社会を実現しようと、日蓮門下が望むことで、その理想世界の姿との意味。

その式典の折、戸田と友誼のあった安倍晋三首相の祖父A級戦犯岸信介首相を招いたそうですが、横槍で岸信介は欠席し、娘婿の安倍晋太郎が名代として出席しました。戸田の意図は、ウォルフレンのいうところの日本的負荷に挑戦している……だからこそ、創価学会は「バカにされた」訳ですが……意気軒昂さを見せつけようとした訳で、そこには、「権力、何するものぞ」という気概があったわけですが、、、。

半世紀たった今、その認識が少しおかしくなっているのではないかと痛感したしだいです。

昨年から、創価学会の活動には時間のある時は、すべて参加しています。3月16日は、創価学会の地域活動の最大行事である「座談会」に参加しましたが、最後の担当幹部の「挨拶」だか「指導」がありましたが、もちろん、話題はこの昭和33年の「3月16日」の「広宣流布」の模擬試験に言及するわけですが、何かが違う訳です。

その経緯を辿る訳ですが、
1) かつては蔑まされた学会の式典に時の首相が出席した、
2) 1)があるから、社会に認められた
3) 出席を取りやめた岸信介は、現首相のおじいさん、代理で出席した安倍晋太郎はお父さん、現在は与党ですよー
4) 世界宗教ですよ、胸をはっていきまっしょい。7月の都議選もよろしくねー

先に言及したとおり、戸田にとっての3月16日とは、国家に認められることによって、それが本物の宗教であることで「宗教界の王者なり」というエセ国教主義とはほど遠い認識であり、かつ逆に、国家や権力を牽制しながら、民衆一人一人を救っていくことが宗教の大目的であり、それを創価学会が実践しているという一里塚にしたわけで、その消息は第3代会長池田大作の小説『人間革命』にも意義付けが記録されている。

歴史という事実を理解するのは「過ちやすき」人間なのだが、理解する範囲というものがあると思う。それは、ヴェーバーがいう「客観性」であり、学問の基本中の基本(それは同時に人間社会の基本中の基本なのだが)といってよい「資料」に基づくことが、「過ち」を敬遠することになるのだが、どこをどう理解しようが、権力にみとめられたから大勝利というのは、現在進行系の自称を「容認」するための「無理筋」としか思えないし、先に言及した事実理解(解釈の多様さを折込んでも)とは異なる着地なのではないかと思った次第。

いろいろとツッコミどころがありすぎたんですけど、「アホくさ」というのが最初に湧き上がる感情であり、結局、その話だけ聞いてすべてを「理解」したと錯覚してしまうと、「国家」に最大限に認められた宗教がめっちゃすごい宗教やんけって理解にみんななってしまうことに戦慄はしました。そもそも論で言えば、日蓮は死ぬまで、国家から犯罪者扱いな訳ですしねー。

ほんとは、これをツイッターで拡散してやろうかとも思いましたが、ちょと鍵かけたfbでだけ残しておきます。何されるのわからんのでね。

しかし、真面目に信仰生活しているのに、なんで、信仰の根幹に関わることで、「沈黙」しなきゃいけないのかが理解できない。

これって「信心が足らない」からなのかね?
仮に「信心が足らない」としても、その言述は「足らない」という言葉が示している通り、信仰の内実を「計量可能」と理解しているところで「信仰ではない」ような気もしますが……。




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