高安秀樹 「経済物理学の発見」

高安秀樹氏「経済物理学の発見」という本を買った。


私は理論物理学を勉強しており、数年前まで繰り込み群や格子ゲージ理論相転移とからめた研究に取り組んでいた。
(その後私は自分の能力に限界を感じ、実家から戻ってくるように頼まれたこともあり研究室を辞めて家業を継ぎ、その家業が廃業して派遣社員になるわけである。思えばあの頃からいろいろあったものである)
それで、この本を書店でパラパラとめくってみたところ、その繰り込みだとか相転移の数学手法を経済学に応用していると言うではないか。
これは面白そうだ、と思いさっそく購入。


そして研究室に帰って前書きを読んでみると


これまで経済学を支えてきた理論のかなりの部分が実証的な根拠のない空論だったことが明らかになってきています。

経済学が科学になりきれないのは、観測事実を最優先して素直にあるがままを認めるような体質が欠けているからだと思います。


困ったことに「反経済学」の本であった。
経済学は実証科学ではない?


アメリカの失業率とインフレ率の相関関係の実証データは?
高橋是清のインフレ政策は?
世界恐慌における金融政策の有効性の証明は?
ペストによる人口減少がもたらした現象を経済学で説明できていることは?
16世紀ヨーロッパの価格革命は?
開国したあとの日本経済が急速に上昇したことは比較優位の有効性を立証したことになるのでは?


どこをどう見れば、経済学が「実証的な根拠のない空論」で「観測事実を最優先して素直にあるがままを認めるような体質が欠けている」学問になるのだろうか。


確かに経済現象の複雑さゆえに、経済学は厳密な予言能力を持たないでいる。
経済学の言うような理想的な均衡状態なんて実現はしない。(それは物理学だって同じことではあるが。)
様々な理論や仮説は、一長一短を持っており、現実の大まかな近似理論でしかない。


しかし経済学は現実に起きている現象の因果関係を定性的に説明できている。
定量的な研究だって、マクロ動学や計量経済学で取り組まれている。


学問ではないだなんて言いがかりである。


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また後半には、明らかな誤りもある。

外貨預金が自由にできる環境下でのインフレ誘導政策は円の暴落を引き起こす可能性が大きく、あまりに危険である。


インフレ政策を肯定する人の主張のひとつは、インフレが起これば国が抱える借金が事実上目減りするので、借金を容易に返すことができる、という安易な考え方です。


確かに、第一次大戦後のドイツのように、国家に天文学的な額の借金があっても、それを上回るインフレが起これば、借金はないに等しいものになります。


しかし、それは同時に、まじめに生きてコツコツと富を蓄えてきた人の人生を台無しにしてしまうものでした。
通貨価値が下落するということは、誠実に生きてきた人を裏切ることになるのです。


失業率の低下と富の再分配、ローンに苦しむ一般家庭の負担軽減、保健や年金財務の改善というインフレの利点を無視し、インフレ=ハイパーインフレと決めつけて不安感をあおり、インフレがキリギリスだけが得をする不誠実な政策だと吹聴する。
定番の「安易」な陰謀論である。


「浪費して借金した者が助かり、こつこつ貯蓄してきた人間が損をするのは、けしからん!インフレは国家の陰謀だ!不誠実な行為だ!」というわけである。
木村剛氏(この人もマクロ経済学の知識がなく、「徒然の数学なる日々」さんに批判されている。)などのインフレに反対する人が、よく言うことである。

しかし、これは道徳の乱用である。
政策の有効性の是非に道徳を持ちこむとろくなことがない。
道徳的に正しいか否かという議論は、一見正しそうに思えて、しかし現実への有効性を無視しているからだ。
また自分と反対の意見を持つ人を不道徳な人と決めつけることで、一方的な勝利を得ようとする「不誠実」な行為である。


そして氏はハイパーインフレが起こるという)最悪のシナリオを止める手段をいろいろと考えているのですが、これぞという名案が思い付きません。と言うのである。


それならば氏は経済学の本でも読むといいであろう。
「名案を思いついている人」がゴロゴロといるはずだ。


氏はインフレ政策が必ずハイパーインフレを起こすと考えているようだが、金融政策を通じてインフレのコントロールは可能である。
金融政策にはきちんとアクセルとブレーキが存在する。
車が止まらないのが恐いと言ってアクセルをふまないドライバーがいるだろうか?


コントロールに失敗する可能性もあるが、だからこそ有能なエリート様を日銀総裁や金融政策担当者にしているのである。
もし、そんな彼らが「ハイパーインフレが恐いから何もしません」などと言うのならば、それは仕事の放棄である。


F1レーサーが「スピードが恐いのでアクセルを踏みません」と言ったのならば、私たちは「お前の仕事は何だ?そのスピードを巧みな運転技術で制御するのが、あんたらの仕事だろう」と突っ込むことであろう。
義務を果たせないエリートならば辞めてしまえばいいのである。


また日本でハイパーインフレが起きる原因について氏はこう言うのである。

近年、外貨預金が簡単にできるようになり、年々その総額が増加しています。


仮に円がインフレを起こし出して、円の価値が下がってくると、外貨預金が見直されます。


例えば、1ヶ月の間にレートが1ドル=110円ぐらいなのが、1ドル=200円くらいになると、マスコミは円で持っているのは損だということをこぞって報道し、外貨預金を勧めるでしょう。


そして、実際にそのとおりに円売りが進み円の価値が下落すると、ますますこの傾向は加速され、結局早いもの勝ちで円を売るようになる心配があります。
それこそハイパーインフレーションの集団心理です。


キャピタル・フライト(資本逃避)!
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またもや定番の間違いである。円が流出するのは、どのような場合であろうか。
それは「円で外貨を買う収益率」と「円を保有することでの収益率」を比較すればいい。


円で外貨を買う収益率 = 外貨の利子率 + 為替レート変化期待率 − 外貨のインフレ率


円を保有することでの収益率 = 円の利子率 − 円のインフレ率


どちらの収益率が高いかで、どちらの通貨を保有すべきかが決まる。


確かに過去のような固定相場制では2項目の「為替レート変化期待率」が存在しないので、円がインフレを起こせば起こすほど外貨を買う方が確実に得になる。
そして円を持っているのは不利なだけなので、激しい円売り、円安が起きる。


この場合、アルゼンチンで起きたような、自国通貨の暴落、ハイパーインフレも起こりうる。


円の通貨切り下げが予測される。将来、確実に円安、ドル高になる。


→ 切り下げやインフレが起きる前ならば、日本政府は実質より安い値段でドルを売っていることになる。


→ 円売り、ドル買い


→ 円暴落


しかし現在のような変動相場制では、「為替レート変化期待率」を投資家が警戒する、つまり外貨や円の価値が細かい調整を受ける。そのため「ドル安」が起きる可能性もあり、外貨を買うリスクが高くなるので円が一方的に流出するなんてことは起きないのだ。
上の話で言うと、外貨預金が突出して有利になるということはない。


(「インフレと為替の関係」
購買力平価」の定理によって、為替変動は円がインフレなると円安ドル高の方向に流れる。しかし変動相場制ではこの定理が短期間では実現されず、不安定に上下する。)


このように変動相場制では、自国通貨の暴落によるハイパーインフレは起きないようになっているのである。
しかも日本は債権国であり、円高傾向にさえある。


特にドイツやハンガリーハイパーインフレの話を持ち出して、「ほら、インフレって怖いでしょ?」と言うのは感心できない。
かの国々において存在したハイパーインフレの原因となったもの(膨大な債務や固定相場制)は、日本には存在しないからだ。
因果関係を取り違えている。原因がないのに結果を怖がる必要はない。


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氏はすぐれた数理技術と物理学の知識を持ちながら、経済現象について、特に金融政策への知識は不足している。
さきのハイパーインフレの話もそうであるし、最後の章の経済物理学の課題についても以下のようなことを書いている。

人類にとって最大の難問は環境問題です。

現在のままのペースで進んだとすると、2050年にはエネルギー消費量が地球の容量を超えてしまうことまで真剣に議論されています。


確かにそういう奇妙なことを真剣に議論している人たちはいる。
次々と油田が発見され、技術の進歩で採取量が増え続け、ガスなどの地下資源もかなりの量があることが分かり、多種多様な代替エネルギーが開発され、いざとなれば原子力発電が使え、各種機械のエネルギー効率がどんどん上昇している現代において、「2050年にはエネルギー消費量が地球の容量を超えてしまう」とは言ってくれる。


彼らは単に無用な不安をあおっているだけである。
現在、エネルギー問題は「環境問題」ではなく「政治問題」である。


それに本当に環境問題は最大の難問なのだろうか?
環境問題が重要であることは疑いようがないが、それが解決困難な難問であるとは不可解だ。
氏は本当に環境問題について調べたのだろうか?
テレビや新聞、雑誌などの知識だけから、判断していないだろうか?環境が大事だと言っておけば間違いがなかろう。という安易さを感じてしまう。
現在は食糧の生産量も増え、大気汚染も改善され、資源は十分にあることが分かっている。
各種技術の発展が環境問題の解決に光明を見出させてくれている。


むしろ問題は北朝鮮やアフリカの国に見られるような、政治能力がない人物に統治された国の悲劇である。
内乱と粛正に明け暮れて政治をおざなりにし、適切な技術を導入できないから食糧不足に悩み、衛生的な環境を用意できないせいでエイズが蔓延し、金融政策を知らないせいで財政が破綻し、宗教的情熱によって貴重な労力を無駄にしている「政治力の不足」が現在の世界の最大の難問ではなかろうか。
こちらはどう解決すればいいか見当もつかない。


「環境との調和」とか「地球環境のために」というのは理系の学者が大好きな言葉だが、美辞麗句に酔っているだけのように見えることが多いのである。


いかに自分の信念に反するような結果であっても、実際の現象において観測される事実を何よりも優先するのが科学者です。という批判は氏にそのまま当てはまる。
インフレや環境問題を論じる際にも、信念よりも観測事実を優先すべきである。


経済物理学は確かに面白そうな分野である。
円や金利、生産量だけではなく、人々の意志や期待さえをも物理量のごとく扱えるようになったらいいだろうなと私は夢想する。
しかし経済学をバカにしている限り、この「経済物理学」なる分野が発展することは難しいと思うのである。