おもう川の記 No.44  阿武隈川の14

阿武隈川に因む人物像を描くテーマの第3=三春藩主家である秋田氏の家系人脈を綴る続々編である。
この秋田家の源流は、安倍氏であるとされ。その末流にして明治政変期まで命脈を保った秋田家の全家系史を一望することは、とても重い。
重いと感ずる所以を、筆者特有の狭量と偏見に起因すると自ら引受ける用意はあるが・・・科学性よりも多数制に立つ検定教科書日本史のみを知るメジャー史観派のお歴々には、とても許容されないような奇異な事態が多出する。
それは国際ストレイト=津軽海峡の両岸域空間を活動領域とした秋田氏特有の東アジア〜アジア地中海規模の国際的背景に由来すると言えよう。
列島における”国際”とは、いつの時代も権力中心から最遠地=四天王寺太宰府〜神戸〜堺〜長崎〜函館など=に、外交使節を置くことで、とかく遠ざけられて来た歴史でもある。
言わば、人見知りタコ<=シマグニの最高権力者>が愛好する究極趣味は、タコツボの中の景色<=密室に籠り、壁紙と盆栽を愛でる>にあるらしい。
さて、秋田氏の本姓は安倍<あべ>である。
このことは、ほぼ不動であるが。三春町史(通史第2編。1984刊行)によれば、秋田家の全家系史を一望しながら、細部に異同があると、4つの史料を並列している。
この三春町史には、十三湊のあの有名な津波襲来記事を掲げるが。文献主体の記述に偏りがちな行政刊行物の限界もさることながら、刊行時期の古さもあって。歴博が1993年までに実施した考古学的成果による津波襲来の否定については、当然ながら言及が無い。
さて、いささか煩瑣ながら、4史料を掲げてみる
 1、寛永諸家系図伝 諸家提出資料により江戸幕府<家光、林羅山>が1641〜3に刊行した
 2、寛政重修諸家譜 1の続集として1812に終了した校訂官史<林述斎が担当>
 3、下国湊両家辨 高乾院(秋田氏菩提寺、在三春)の住持僧であった一元紹碩が著者。
    安倍秋田氏の家系図は、上掲1の刊行もあってか?実季・俊季=親・子の間で対立抗争が激しかった。僧・一元は、三春藩執政・年寄・秋田四郎兵衛の実弟であり、俊季の死後に実季が孫の藩主に与えた系図に関して俊季の立場を擁護する事情から本書を著したものと思われる。長生し退隠幽閉された実季から依頼を受けながら、実父に先立ち逝去した俊季の立場にも配慮する内容記述とした模様。
 4、東日流<つがる>外三郡誌 市浦村史資料編下巻・所収(=現・青森県五所川原市
    1970年代地方出版社より刊行。同市在住の和田喜八郎氏が発見した和田家文書の一部。編者は同氏の祖先とされる和田長三郎吉次&秋田孝季。同家には数百件の歴史文書が伝存するが、塙保己一収集文書などと重複しない・大和朝廷へ一元化する既存史観と重ならない新事実の記載などがあり。奇書として大論争を呼ぶ。偽書である旨の判決を求め法廷闘争に発展するなど一時期社会論争へ。偽書とする立場が青森県教育庁VS古田武彦が対立見解を述べている。

閑話休題
上掲4史料名のアトに付けた解説は、筆者が苦心して縮約したものだが。この家系の複雑怪奇さは、すべて藩内部の抗争内紛から生じている。その根底に、古くからこの家に属した蝦夷地をめぐる格別の経済権益が臨海藩領を去ったことで失われたことにあると筆者は考える。
まず江戸初期。親・子間対立をもって、幕府が秋田実季<幕藩制初代藩主>を退隠させ・伊勢国に幽閉させる問題を招き。
更に江戸中期。幕藩制5代藩主秋田頼季の閉門125日間(1730)とその前年に起きた家臣筆頭格=両家当主・荒木高村<頼季の実父>の蟄居が幕府から発せられた(三春藩享保事件)。
後者の事件は、幕府内の権力争いに側杖を食らった観があるが。古来権力に屈しない土地柄とも言える東北人の家風が漲っているとも言えよう。古代律令時代から”化外の地”または”まつろわぬ者ども”と扱われた辺境者の負けん気のようなものとも言えよう。
同じことは、上掲4=[東日流外三郡誌]の成立事情にも伺える。
和田家文書の成立は、江戸後期の寛政年間(1789〜1801)とされる。編者とされる和田吉次と秋田孝季<津軽藩士。同名の三春藩主10代のりすえと同名別人>は姻戚義兄弟、およそ30年間超も列島各地を訪ねて膨大な写本群を成しながら、内容において公開を阻むべき事情があったとして秘密蔵書としたものだと言う。
この書や安倍・秋田家に描かれる上古・古代の東北風土は、かなり既存の常識と異なる面があるが。それを映像の形で提示したものにNHK大河ドラマ「焔立つ(ほむらたつ)」<1993,7月〜翌年3月放映>がある。
原作・脚本=高橋克彦中島丈博の合作であろうが、東日本の生活様式は、西日本のそれと大きく異なる。その差異を踏まえた画面描写は、イデオロギー色の強い”一国文化主義とは一線を画する”ものがあるが、科学的合理性により叶う力作であった。
最後に安倍・秋田氏を論ずる場合、どうしても避けられない課題が4つある。
紙面都合から今日はそのうち2つを採上げ、残り2つは明日論ずることとしたい。
まず阿部比羅夫(あべのひらふ 生没年不詳)の存在である。7世紀の記事として日本書紀に登場する武将だが、その所属・事績が謎だらけの人物である。
葛城・物部・曽我の名を持つ諸氏同様に、表向き個人名を用いつつ・その内実は一族または同時代別人の事績を1人に集約して記事にしたと考えられる。
また、書紀によくある記事引用だ。当時存在したが既に失われた他書・異本から引用・抽出借用した記事とも考えられる。
と言うのは、事績のタイトルは、蝦夷征討としながらも、その内容は全く正反対。蝦夷との親密外交記事ばかりであり、名実逆転も甚だしい。
阿部比羅夫は、ヤマト朝廷に仕えたのではなく、むしろ蝦夷側の武人であったと理解したほうがよりストレートだ。
粛慎(みしはせ)討伐の記事と越国に都岐沙螺柵(つきさらのさく)を築いた記事は、比定地を決める手だてが乏しく、大いなる謎である。
ここに出てくる”越国”は、越前国以北の日本海側地域圏を指すが、「こし」の音に繋がる古四王堂を秋田の地から三春の地に勧請したのが、幕藩制3代藩主の秋田盛季<先代俊季の子・実季の孫>であった。
古四王神社と言えば、山形県小国町所在のものが有名である。
しかも蔬菜研究者・青葉高によれば、その地にはヒッチェ・カブなる自生野菜があると言う。
小国町史によれば、古志族が先祖を祀った神社であり。古志族は高句麗国から戦乱を逃れ、渡海して列島に渡来した東北アジア遊牧民ツングース系であると言う。
しかも「こしおう」神社は、新潟・山形・秋田・岩手・宮城・福島の各県に96も点在分布すると言う<河北新報1980,11,3記事より>。
かつてアジア地中海(=最も狭く海域を区切れば日本海となる)の要港である十三湊に拠点を築いた安倍・秋田氏と対岸韓半島との地理的親縁を思わせる蓋然性がある。