49 金剛輪寺三重塔(滋賀県愛知郡愛荘町)

金剛輪寺三重塔(滋賀県愛知郡(えちぐん)愛荘町
 西明寺から「湖東三山自然歩道」を歩く。西明寺からしばらくは山道を楽しむことができるが、自然歩道といっても、その3分の2は舗装された道を歩く。
 40分ほど歩いて、大型バスが十分すれ違いのできる幅員の広い立派な車道に行きついたと思ったら、前方左手に、金剛輪寺(こんごうりんじ)の立派な山門が現れた。
 金剛輪寺は、天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。行基の開創と伝える。地名から松尾寺とも云われている。寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残り、現存する本堂は、弘安11年(1288年)、近江守護佐々木頼綱の寄進を得て建てられたもので、この頃の金剛輪寺はかなりの規模をもっていたようである。
 天正元年(1573年)、織田信長の兵火で金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の機転で焼失をまぬがれた。攻撃と同時に住職が本堂の前で火を焚いたため、信長軍は、火事が起こったと勘違い、焼き討ちするまでもないと、そのまま引き上げた。
 織田軍の焼き打ちの徹底ぶりを考えた場合、この金剛輪寺では、意図的に手を緩めたとも考えられ、その理由としては、金剛輪寺に関わる土豪勢力の中に反信長勢力が少なかったこと、そして、石垣普請技術をもつ西座衆(にしくらしゅう)の存在が挙げられる。
 元来、金剛輪寺を始めとする寺院勢力は、石垣普請に関する高いノウハウを持っており、六角氏の居城観音寺城が鉄砲に備えて、弘治2年(1556年)、総石垣に改築した際には、金剛輪寺の西座衆と呼ばれる技術者集団が指導にあたったと伝えられている。戦乱の世を生き抜くため、各寺社勢力は、自衛力を持つとともに、地元の政治権力とも相互扶助の関係を保っていた。
 山門から本堂までサツキに囲まれた石段が続き、山岳城郭だったころの趣を今なお残している。
 参道沿いには、新しい前掛けに風車を供えられた千体地蔵が左右どこまでも立ち並ぶ。山間に開かれた平地には、お地蔵さんが碁盤の目状に平地を埋めて立ち並んでいる。
 石段を上り詰めると、僧の機智により織田信長の焼き討ちによる焼失の難を逃れた二天門、本堂大悲閣、三重塔があった。
 二天門は、鎌倉時代の和様建築の代表とされる楼門だったが、江戸時代に二階部分が取り壊され現在の形となった。
 本堂大悲閣は、入母屋造、檜皮葺の和様仏堂で、中世天台仏堂の代表作として国宝に指定。須弥壇の金具に弘安11年(1288年)の銘があり、堂自体もそのころの建築といわれる。
 本堂に向かって左側のやや小高い所に、樹々に埋もれて、三重塔が立っている。三重塔(待龍塔)は、大悲閣より古いもので、寛元4年(1246年)に建立された。桧皮葺、高さ 22.15m。荒廃したままだったため、昭和49年(1974年)に復元された。国指定重要文化財である。
 金剛輪寺は、湖東三山(百済寺金剛輪寺西明寺)のまん中のお寺で、紅葉の季節になると観光バスがひっきりなしに行き交う観光名所。
 名神高速道路の「秦庄パーキングエリア」が眼の前にあり、湖東三山スマートインターが開設予定であり、インターができると、山門まで3分とのこと。
 金剛輪寺のバス停のお客は私一人。そのうちシーズン中のみの運転となってしまうかもしれない。バスの便の確保と、自然あふれた歩道の整備を願ってやまない。