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旅×本×図書館×??

2017-02-21 越境者たち

[]前田利定『支那遊記』 前田利定『支那遊記』を含むブックマーク 前田利定『支那遊記』のブックマークコメント

前田利定 『支那遊記』 東京, 民友社, 大正元(1912)年, 182p.

<本文>

子爵/貴族院議員・前田利定(1874-1944)は明治45年5月31日、神戸港から丹波丸(日本郵船の客船)に乗り込み、上海に向かった。

旅の理由は特に記されていないが、貴族院議員の視察旅行と思われる。前言で

只此の四十日が程陸の旅海の旅を重ねし間馬の上船の中にて目に触れ耳に聞きたるその日その日の出来事や頭脳に印象したる事共を書きつらねて此の行に加わらざりし先輩同僚の方々へ其興趣の幾分を頒たんが為なるのみ

と書いているのが、この一節こそが本書の性格をよく表すものだろう。

さて、上海港に到着したのは6月4日。同地で在留日本人たちと交歓し、同6日、鉄道蘇州に移動した。

蘇州では寒山寺に参った他、日清汽船株式会社の白岩龍平と対面し、同じ佐々木信綱門下の艶子夫人と意気投合した。蘇州には宿泊せず、そのまま南京に進んだ。

南京で明の故宮等を訪れて古を偲ぶなどしてから、同8日、船で長江を遡った。船中で目にした夕景が印象に残ったようだ。少し長いが引用しよう。

長江のたそがれの景色ほど忘れられぬものは無之候 此度の支那の旅の中にて永遠に忘るるの期は御座なかるべく候 日は西山に落ち残照散り候へ共水光猶明に暮色來ること遅く御座候 やかで晩霞淡く流れ來りて遠山は烟につつまれ岸頭の水村緑莎の洲はぼんやりと柔き線を劃し居り申候 長江の積水は萬里雲際より流れ來りて下悠遠なる空の中へと流れ消え居り候 (中略) 暮色愈々加はりて川上より來る民船の燈影美しく水に落ちて静寂なる長江の夜色なんとも申されず候 夜涼水の如く午熱を洗ひ去りて軽袗船欄に倚り候へば月なけれども星鮮やかに江上の清風此の良夜を奈何せんやにて候

同12日、漢口で船を降り、鉄政局や日本人の経営する製粉会社等を視察した。翌13日には湖広総督・黎元洪から茶菓の招待を受けた。ちなみに、前田は黎元洪を「一介の武辧に無之 (中略) 溢るる許りの愛嬌を湛えて一種人を引き付くる力有之候 男に候 且つ軍人に似合しからぬほど温厚長者の風あるを見受け申候」と絶賛し、この地方の衆望を集めるのも無理ないとしている。

14日、漢口から鉄道に乗り込んだ。行き先は北京である。到着は27時間後の15日夕刻。その夜は、中華民国議員団も交えての宴に参加した。

15日、大総統袁世凱を表敬したが、足元も覚束ないその老いっぷりに戸惑ったようだ。翌17日からは民国政府議会天壇などの視察・見学に明け暮れた。

19日に八達嶺を経由して天津に、22日に営口に、24日に大連に移動した。

25日には旅順日露戦争戦跡を見学し、とりわけ旅順要塞については「陥落し候事が寧ろ頗る不可思議に存申候」と感想を述べている。

26日に旅順を発ち、長春を経由して28日にハルピンに到着した。そして翌日には、撫順炭山に見学に赴いている。ちなみに、この頃、少し里心がついたのか、「月満つる頃に帰へるちちぎりしを 吾が子や待たむ月の満つれば」という歌を詠んでいる。

その後、30日に奉天、6月1日に安東、そして2日に仁川と移動したところで、本書は終わっている。恐らくは、ここから船で帰国したのであろう。

本書を通読すると、やや冗長なきらいがないでもないが、修飾表現がよく工夫されている印象を受ける。議員の海外視察旅行記の中では異色とも言えるだろう。エッセイを数多くものしている著者の面目躍如たるところか。また、歌人らしく自作の短歌を折々に挟み込んでくる一方で、政治家らしく上海での一円銀貨の流通事情や蘇州の紡績業、南京の商況、長江上の汽船事業の角逐、民国政府の課題、南満州経済状況などの調査分析にも字数を割いているのも特徴的である(議員視察なので当然と言えば当然だが)。

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2017-02-17 NDL Dunhuang Project

[]国立国会図書館所蔵敦煌文献(メモ) 国立国会図書館所蔵敦煌文献(メモ)を含むブックマーク 国立国会図書館所蔵敦煌文献(メモ)のブックマークコメント

国立国会図書館所蔵の敦煌文献に関するメモ。適宜追記していく(最終更新日:2016/2/20)。

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敦煌文献一覧*1

濱田徳海旧蔵。

  • WB32- 2(D) 金光明最勝王経 巻第9(写1巻)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32- 3(M) 金録晨夜十方懺残巻(写1巻 残背文字あり)

濱田徳海旧蔵。道教文献(唐代の金(竹+録)斎儀のうち十方懺に関わる内容)。背面には仏教目録を書写。元はスタイン3071と同一の巻物。ペリオ2989は同一の書物を書写したもの。[神塚2013]濱田の前は安藤徳器旧蔵。[岩本2014]

  • WB32- 4(D) 四分戒本(写1巻)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32- 5(D/D) 浄名経関中釈抄 巻上(道掖撰集写1巻)

濱田徳海旧蔵。濱田の前は村口書房旧蔵か。[岩本2014]

  • WB32- 6(M) 大乗顕識経 巻上(写1巻 巻末に唐永隆元年とあり)

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。濱田の前は村口書房旧蔵。[岩本2014]

  • WB32- 8(D) 大方便仏報恩経 巻第1(写1巻)

濱田徳海旧蔵。濱田の前は栗原貞一旧蔵。[岩本2014]

  • WB32- 9(D) 大方便仏報恩経 巻第2断巻(写1巻)

濱田徳海旧蔵。濱田の前は栗原貞一旧蔵。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-14(-) 大般涅槃経 巻第12(写1巻 巻末に隋大業2年…とあり)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-15(D) 大般涅槃経 巻第15(写1巻 巻末に隋大業2年…とあり)

濱田徳海旧蔵。濱田の前は村口書房旧蔵。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。濱田の前は山合喜一郎旧蔵。[岩本2014]

  • WB32-18(D) 大仏如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経 巻第9(写1巻)

濱田徳海旧蔵。濱田の前は山合喜一郎旧蔵か。[岩本2014]

  • WB32-19(M) 仏説灌頂章句抜除過罪生死得度経(写1巻 巻尾欠 着色扉絵付)

濱田徳海旧蔵。濱田の前は山合喜一郎旧蔵。[岩本2014]

  • WB32-20(D) 仏説護国経(写1巻 巻首欠 訳場列位付)

濱田徳海旧蔵。濱田の前は山合喜一郎→村口書房旧蔵。[岩本2014]施萍(女+亭)によれば、非敦煌文献。

  • WB32-21(D) 仏説金剛手菩薩降伏一切部多大教王経 巻下(写1巻 訳場列位付)

濱田徳海旧蔵。施萍(女+亭)によれば、非敦煌文献(高山寺本)。

  • WB32-22(-) 仏説尊勝羅尼経呪(写1枚)*2

濱田徳海旧蔵。背に「(束+のぶん)帰義軍節度使瓜沙等州」とあるらしい。

  • WB32-23(-) 仏説八陽神呪経断巻(写1巻 紙背に太平興国9年…とあり)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-24(M) 仏説法句経(巻末書名:仏説法句経 禅秘要経 大弁邪正経)(写1冊)

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-29(D) 西域法宝遺韻(写1帖 写経断片貼付)

濱田徳海旧蔵。仏典の断片を一冊にはったもので、一部はトルファン文書か。[岩本2014]

  • WB32-30(D/D) 道教叢書残巻(写1巻 紙背に別文)

濱田徳海旧蔵。唐代?の道教文献。台湾人の林熊光(1897-1971)旧蔵で、道教文献と最初に比定したのはその友人・神田喜一郎。紙背に仏教の願文あり。ペリオ2443と同一の書物からの書写(元は同一巻子の可能性もあり)。『旧唐書』経籍志/『新橙書』芸文志にある『道要』30巻の一部との説あり。[神塚2013]

  • WB32-31(D) 仏名経断巻(写1巻 着色仏像1体)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-32(D) 仏名経断巻(写1巻 各行首採印仏)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-33(D) 仏名経断巻(写1巻 各行首印仏)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-34(D) 仏名経断巻(写1巻 着色仏像12体)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-35(D) 写経断巻(写1枚)

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-37(D) 写経断巻(写1枚)

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-39(D) 写経断巻(写1巻)

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-40(D) 写経断巻(写1枚)

濱田徳海旧蔵。施萍(女+亭)によれば、非敦煌文献。

濱田徳海旧蔵。佐藤貴保によれば、非敦煌文献、大方広仏華厳経経巻第74。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。佐藤貴保によれば、非敦煌文献、大方広仏華厳経経巻第74。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。箱書に「(多田)等観拝書」。岩尾一史によれば無量寿宗要経。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。岩尾一史によれば無量寿宗要経。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。岩尾一史によれば無量寿宗要経。[岩本2014]

  • WB32-46(D) 一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経(刊1巻)

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-48(D) 隋経断巻(写1巻)

濱田徳海旧蔵。

  • WA37- 9(D) 後周顕徳二年暦断簡

新城新蔵旧蔵。新城文庫(宇宙物理学者新城新蔵(1873-1938)の収集した天文学、暦学関係コレクション。昭和18年に購入)所収。後周・顕徳二(955)年9月1〜29日の具注暦。国立国会図書館の展示「日本の暦」(1984年10月)に「伝敦煌出土」として出展(『国立国会図書館所蔵個人文庫展「日本の暦」展示会目録』1984年)。詳細な分析・学会への紹介は西澤宥綜による(「「顕徳二年暦断簡」考釈」『中国科技史料』21-4, 2000年)。書式等から帰義軍押衙・(羽+ふるとり)奉達撰と推定。[西澤2004]

唐代の写経か。上野図書館旧蔵。昭和18年以前に受入。[岩本2014]

  • WA 2-21(D) 大智度夢化行六度品

隋唐初の写経か。上野図書館旧蔵。


濱田徳海旧蔵敦煌文献(WBXX。『敦煌等経文』として整理)購入の経緯

国立国会図書館が濱田徳海旧蔵敦煌文献を購入したのは、昭和37年から38年にかけてのこと。[土屋1991]

濱田徳海(1899-1958)は大蔵官僚昭和35年12月13日の衆議院議院運営委員会図書館運営小委員会で、以下のやり取りがあった。ここでは、濱田が中国滞在中に購入したかのような説明だが、実際は帰国後に古書市場で各所から購入した模様(コレクションは90点に上ったらしい)。[岩本2014]所蔵点数から見て、予算化された約半数のみ購入した模様。

重点項目の第二は、本格的な図書館奉仕に必要な経費であります。そのおもなものは、図書購入費六千六百九十三万円であります。従来は、何分書庫の狭隘によって、蔵書の十分な充実を見ることができず、今日に至ったのでありますが、特に外国図書の弱体が痛感されますので、三十六年度からは、わが国唯一の国立図書館として外国の一流中央図書館に比肩し得る蔵書構成を持ちたいと考えております。なお、このうちには、国会からの要望に基づき、近来急速にクローズアップされました中近東アフリカ関係の資料を整備する経費としまして一千四百万円、また、浜田徳海氏旧蔵の敦煌文書の購入費一千万円が含まれております。

十ページの「敦煌文書」というのはどんなものですか。

最古の仏教の原典でございます。敦煌の石窟からスタインが発掘した敦煌文書というものは、今存在する仏典としては最高の権威のもので、これはロンドンのブリティッシュ・ミュージアム図書館とか、フランス図書館に入っております。もちろん北京図書館にもございますが、それを、浜田徳海さんという方が中国に長く大蔵省の役人として在勤しておられた関係で数十点お持ちで、そのままなくなられた。これをそのままにしておきますと、海外に流出するおそれがありますので、これを国会図書館として収蔵することが、日本の仏教その他東洋学研究のために欠くべからざる資料ではないかということを専門家がサゼストしてくれますので、全部ですと相当巨額になりますので一度には買えないと思いますが、約半分くらいの分量の予算を計上いたしました。

<参考文献>

*1:Dはデジタルコレクションへのリンク。Mはマイクロフィルムでの閲覧

*2:NDL-OPAC/デジタルコレクションで確認できず。要調査

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2017-02-15 CCoN

[]CCoN2017写真リスト CCoN2017写真リストを含むブックマーク CCoN2017写真リストのブックマークコメント

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"Blood" Iga, 2015.10.

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"Street Life" Nakano, 2017.1.

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2017-01-25 ラサにディスコはあるのか?

[] 「『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の世界」に参加  「『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の世界」に参加を含むブックマーク  「『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の世界」に参加のブックマークコメント

ずっと気になっていたことがる―ラサにディスコはあるのか?

2001年11月某日の夜

私はツレの日本人旅行者と2人して、ディスコを探して夜のラサを徘徊した。数少ない行き交うチベット人に「この辺にディスコはないのか?」と尋ねまくり、最後に連れて来られたのは、「民族舞踊ショー」のようなものが楽しめる高級そうなラウンジだった。

「これはディスコちゃうなぁ…」

そのときは、そう言って中に入らずにホテルに戻った。

2017年1月21日、風の旅行社が主催する「『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の世界」という講演会に参加した。講師は、『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の著者で、ラサに10年近く滞在した経験を持つ文化人類学者の村上大輔さん。ラサ滞在中のエッセイをまとめたこの本を読み土地の記憶が甦ってきたところで、今、彼の地はどうなっているのか気になったのだ*1

村上さんの話はとても興味深いものだった。

2000年前後から急速に進んだチベットの開発、2006年の青蔵鉄道の開通などを経て、ラサの都市空間は激変していた。多くの漢人流入し、商業ビルにマンションが格段に増えていた。また、内地で教育を受けたチベット人エリート層(西蔵班)が台頭してチベット人の中でも分断が起きているようだ(もっとも、ラサっ子はカムやアムドの人々のことを「彼らはチベット人ではない」と言っていたらしいが)。

もちろん、変わらないものもある。それが、大通りから少し外れた路地裏や都市から少し離れた郊外であり、そこに息づくチベット人の精神文化や生活である。

冒頭のディスコの話に戻ろう。

村上さんに積年の疑問をぶつけてみた。ラサにディスコはあるんですか、と。

「2001年の頃からありますよ」と村上さん。

チベット人は歌が大好きで、カラオケもよく歌うらしい。2000年代には、ダライラマカルマパへの信仰を仮託した歌謡曲が流行したという。

「そのラウンジも面白いですよ。最初は民族舞踊ショーをやっていたりしますが、最後はカラオケ大会になってディスコみたいになります」

なんと、自分はラサのディスコまであと一歩と迫りながら、その存在に気づいていなかったのだ。正しく後の祭りである。

もっとも、現在のラサには本当の意味?でのディスコもあるようだ。職を求めて多くの漢人がラサにやってきたことに加え、ここ10年ほど、漢人の若者の間でバックパックを担いでチベットを旅行するのがブームになっているらしく(そう言えば、2007年にカムを旅したときもそういう旅行者にたくさん出会った)、そういった人々からの需要があるらしい。

また、村上さんはこうも話してくれた。

2008年以降、チベット旅行に対する、とりわけ外国人旅行者に対する規制が厳しくなった。今ではゴルムドなどから出ていた闇バスももうない。現地からのインビテーション・レターがないとラサに入れないから、ツアーで列車か飛行機でラサに入るしかない。

「だから、良い時代にラサに行かれたと思いますよ」

あまりの変化に絶句していた自分に、村上さんは最後にこう声をかけてくれたのだった。

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おまけ。

セミナー会場で村上さんがSOASに提出した博士論文を下敷きにした著書”National imaginings and ethnic tourism in Lhasa, Tibet : postcolonial identities amongst contemporary Tibetans”をいただいた。フィールドワークの時期が2000年から2002年という、自分がラサを訪れた時間を含むということもあり、非常に興味深い。

参考)村上大輔「チベット自治区ラサにおける観光業の発展とその政治性に関する一考察」『観光研究』23(1), 2011年.

*1:この本で自分がもっとも興味深く読んだのは、(イベントでは言及されなかった)「茶館のアンスロポロジー」の章。「茶館に一日中入り浸る同胞を揶揄する、ある謂れがある。「資本金のない商人、車をもっていないドライバー、僧院から追われた坊主、客のいないツアーガイド、離婚したばかりの男女」云々。つまりは、社会的に属する場所がない、住む場所がない、食っていくあてがない、そういう人間が集まる場所だというのだ。」というくだりを読み、あの薄暗い空間が脳内に広がった

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2017-01-24 ボウイとアーカイヴ

[]「DAVID BOWIE is…」に行ってアーカイヴについて考える 「DAVID BOWIE is…」に行ってアーカイヴについて考えるを含むブックマーク 「DAVID BOWIE is…」に行ってアーカイヴについて考えるのブックマークコメント

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現在、東京で開催されている「DAVID BOWIE is…」に行ってきた。

2013年のロンドンを皮切りに世界を巡回し、各地で大盛況だったらしいこの展示の素晴らしさについて、もっとうまく語ることができる人はいくらでもいるだろうから、ここでは言葉は費やさない。(ちょっと高いがその価値はある)図録もあるし。

危うく涙腺が崩壊しそうになった展示の余韻冷めやらぬまま、ネットサーフしていて見つけたこの記事に、ここでは注目したい。

「DAVID BOWIE is」展 ジェフリー・マーシュ インタビュー(2017/1/13)

この展示は、ロンドンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の企画なのだが、Geoffrey Marshはそこのシアター&パフォーマンス部門のディレクターであり、この展示を仕切ったキュレーターの一人だ。

Marshが人に紹介されて、ニューヨークにあるボウイのアーカイヴを訪れたところから、この企画が始まったという。

私たちはこれまでにもいろいろなアーカイヴを見てきたけれど、デヴィッドのコレクションは普通のロックスターのものではなかった。どんな大物バンドも大抵はほとんど何も残っていないものです。マネージャーが持ち逃げしたり、倉庫が焼け落ちたり、どんどん紛失されて……。それに物をコレクションするという行為そのものが、あまりロックンロールじゃないでしょう。そういうのはむしろビジネス的なものです。パフォーマーがそういうことをするのは、非常に強い、自分自身の運命みたいなものを感じている場合じゃないかと思います。デヴィッドのコレクションを見て、まるで彼がキュレーターであるかのような完璧さにびっくりしました。彼はよく美術館に足を運んでいたから、キュレーションについて理解していたのでしょう。彼は自分が作ったキャラクター、"デヴィッド・ボウイ"をキュレートした。

なんと、デイヴィッド・ボウイのアーカイヴがあるのだという。

確かに、今回の展示にはファンでなくともどこかで見たことがあるであろう歴代の衣装から、ファンなら感涙ものの名曲の歌詞を書きなぐったメモまで、様々なモノが出品されていた。これらはすべて、ボウイのアーカイヴで管理されており、開催にあたりそこから出品されたようだ。そう言われると、下のほうに「special thanks to david bowie archive」というクレジットの入ったウェブサイトもよく見かける。

それにしても「デイヴィッド・ボウイのアーカイヴ」とは、これいかに?

気になってググってみると、ニューヨークRACK & PINIONという展示のデザインなどを手がける会社が「The David Bowie Archive」を手がけていることが分かった(先の記事に出てくる「彼のアーキヴィスト(記録保管係)、サンディ」とは、ここのSANDRA HIRSHKOWITZ女史のようだ)。

このアーカイヴについて、他の情報はないかと探してみたら、一つ面白いものが見つかった。

V&A gains “one-off” access to David Bowie Archive(2012/9/4)

ここにはこんな記述がある。

Items from Bowie's archive are kept in different locations, but according to Broackes, most are stored in New York, where the musician's archivist, Sandy Hirshkowitz, is based. “There are more than 60,000 objects. He's never thrown anything away,” Marsh says. Although the curators did not meet Bowie, they “sat down with his full-time [archivist] in New York and went through the photos, and his people gave us immense help with the very complicated music and film rights”.

“It's a very well-organised archive, and they're adding to it all the time,” Broackes says. Bowie's costumes are kept in climate-controlled conditions, and the collection is “properly catalogued; it's like we work [at the V&A]”. Items that will be seen for the first time include “designs on the back of fag packets that he sketched when he was travelling on planes”.

要約すると、

  • アーカイヴのコレクションは複数の個所で保存されているが、主にはニューヨークのSandy Hirshkowitzのところにあり、所蔵点数は6万点を超える。
  • 展示を行うにあたり、専属のアーキビストが複雑な音楽や映像の権利関係の処理までサポートしてくれた。
  • コレクションにはV&Aにも引けを取らないレベルのメタデータが適切に付与されており、また適宜コレクションの追加も行わる(当時、ボウイは存命中)など、適切な管理がなされている(空調も完備)。

といったところか。今回の展示が、このアーカイヴとアーキヴィストなくしては成立し得なかったことがよく分かる。

それにつけても驚かされるのは、「アーカイヴ」というものに対するボウイの先見性と、それを可能にするビジネスシステムだ。「一回きり(one-off)」と銘打っているが、これはあくまでもV&Aにとってそうだというだけで、このアーカイヴが管理され続ける限り、また切り口の違ったボウイの回顧展が遠くない将来、開催されるのかもしれない。逆に言えば、今回のようにコレクションが活用できる(=マネタイズできる)限り、このアーカイヴは管理され続けるのかもしれない。

ビジネスとアートとアーカイヴの幸福な関係がここにある。と言えば、お花畑がすぎるか。

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2016-12-05 裏テーマは「ビジネス支援」再考?

[]勉強会中央線RT2016〜忘年編を開催 勉強会@中央線RT2016〜忘年編を開催を含むブックマーク 勉強会@中央線RT2016〜忘年編を開催のブックマークコメント

勉強会」なるものはいつ登場したのか?ということが、最近、気になっています。

ビジネス系の雑誌とかでよく「最近は勉強会がブームで…」というフレーズを見かけますが、少なくともこの10年は断続的に見かけています。少し遡ると、1987年には『社外人脈・知脈のつくり方 : 「社外勉強会」のすべて』(佐々山晃著、ぱる出版)という本も出版されています。

じゃあいつからやってるんだろうと、色々なデータベースを遡っていくと、出るわ出るわで、結局、明治時代に行き着きました。1895年の『風俗画報』99号に「講武所芸妓勉強会」という記事です。記事の出た2年ほど前から、店の垣根?を超えて芸妓さんが月一回神田某所に集まり、ともに芸事の熟達に励む…ということで、会費は自腹、幹事は2名交代制とするなど、1950〜1960年代くらいからビジネス系の雑誌記事で見かけるようになる社外勉強会とほぼ同じようなことをやっていたようです。

これはあくまでも「勉強会」という熟語の(確認し得る限りの)初出であって、「人が集まって知識などをともに学ぼうとする場」の初出ではないことは当然なのですが、100年以上前から「勉強会」が注目されていたことは確かでしょう。

閑話休題

2016年2回目は、橋本大也さんにお願いしました。

僕が初めて橋本さんのことを知ったのは、2010年に出版された『ブックビジネス2.0』に橋本さんが寄稿した「印税90%が可能なエコシステムを」を読んだときです。その中の「教会としての物理的図書館」という一節で、橋本さんはご自身の体験を踏まえ、

厖大な蔵書の質量や管理された静謐な空間を見せつけることで、子供たちに知の世界の奥行きや豊かさを感じさせる教育の場としても、図書館は価値があると思います。知的な雰囲気、文化の香り、本を読んで知識を学べばその先に道が拓けてくるんじゃないかという展望を、物理的な図書館は与えてくれるのです。

とした上で、「情報による救いと癒しの場」という定義を図書館に与えていたことが印象的でした。

そして、その数ヶ月後に行われたL-1グランプリの場で、それぞれ出場者と審査員という立場で、初めて橋本さんとお会いしました。その後は特にご一緒することはなかったのですが、少し前にデジタルハリウッド大学図書館長になられたというのを知りました。データサイエンスという橋本さんの本業からすればそれほど意外ではないかもしれないのですが、図書館を教会となぞらえる文脈からは少し意外な感じがしたので、これは話を伺いたいと思い企画したのが今回のイベントです。

(45) 2016/12/1 高円寺HACO 橋本大也デジタルハリウッド大学)「(無題)」

本シリーズ初の「無題」となった今回、橋本さんが新たな活躍の場として選ばれたデジタルハリウッド大の図書館の取り組みから話は始まりました(上場企業の社長出身の図書館長は、恐らく史上初では?)。ものすごい数の本を読んで書評を書いていた橋本さんが本を読まない学生にどうやって読ませようかとアタマを悩ませている話(「本を読ませるのは、本を売るより難しい!」という名言も)や、留学生にそれぞれの国の本を紹介してもらう国際ビブリオバトルの話など色々出ましたが、僕が一番「あぁなるほど」と思ったのは、橋本さんが「行き場のない学生に居場所を提供したい」と仰っていたこと。これは正に橋本さんが「教会としての物理的図書館」で書かれていたこととしっかりつながっているんだなと思いました。

とは言え、一番盛り上がったのは最後の「メディアイノベーションがやってくる」という話だったと思います。"super XXing"銘打って、読んだり、聴いたり、歌ったり、話したり、学んだり…といった僕たちの行動がどう変わろうとしているのかということを、様々な事例をもとに一気に紹介されたのですが、「イベンター・橋本大也」の凄さを垣間見た瞬間だったかもしれません。

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さて、このささやかな場もこれをもって9年目が終わり、来年1月から10年目に突入します。せっかくの節目ですので、何か仕込めるといいなと思いますが…。

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2016-08-02 小学校図書館の数=郵便局の数

[]勉強会中央線RT2016〜夏を開催 勉強会@中央線RT2016〜夏を開催を含むブックマーク 勉強会@中央線RT2016〜夏を開催のブックマークコメント

3人幹事体制だった「勉強会中央線」を21回、2人幹事体制だった「勉強会中央線NEO」を18回やって辿りついた基本1人幹事体制の「勉強会中央線RT」の4回目は、色々あって久しぶりの開催となりました。

今回のテーマは学校図書館。密かに温めていたテーマなのですが、誰にどうお願いするのか定まっていなかったのでこれまで手をつけませんでした。

いきなり私事で恐縮ですが、子どもの授業参観で小学校を訪れた際、20年ぶりに学校図書室(館)と再会しました。

今でこそ「図書館」で働いていますが、自分の過去を振り返ると、小学校時代は図書室に行った記憶はほとんどなく、中高時代もテスト前に図書室の机で少し勉強した程度で、「再会」と言っても、これまで学校図書室(館)と関わってきたことがありません。

しかし、学校図書室(館)は自分の生まれる前から存在し、自分の子どもが通っている小学校にも存在します。そして、2014年学校図書館法改正により学校司書の法制化がなされたことに象徴されるように、今後の改革・改善への動きも出ています。

では、学校図書室(館)とは、どのような<場>なのでしょうか?どのようにして形作られてきた<場>のでしょうか?どのような可能性を持つ<場>なのでしょうか?

研究対象として学校図書館を選び、そしてこの度『日本占領期の学校図書館:アメリカ学校図書館導入の歴史』を上梓される白百合女子大学の今井福司さんを囲んで、考えてみたいと思います。

告知に際してこのような案内を出し、学校図書館との連携に携わる(苦慮する?)現役の図書館員/教員/関係者やだけでなく、PTA関係者等にも入ってもらうというメンバー構成にしました。図書館ネタで図書館関係者が多くなってしまうと、どうしても内輪ネタに終始してしまうというリスクがあるのですが、「学校図書館」自体がニッチ図書館業界の中でもさらにニッチなところなので、少し違った目線は入れる必要はあるものの、敢えて業界関係者を中心にした構成にしてディスカッションの土台を整えた方が良いと判断したためです(その中で、参加者の中に司書教諭学校司書の経験者が何人かいたというのは嬉しい誤算でした)。

(44) 2016/8/1 高円寺HACO 今井福司白百合女子大学)「学校図書館とは何か説明してください

さて、肝心の中身はと言うと、学校教育法学校図書館法、そして学校図書館図書標準といった「基本」をもとに、学校図書館の成り立ちや現在の抱える課題について(参加者も含めて)あれやこれやと議論の飛び交う会となりました。図書室をほぼ自習室としてしか使ったことがなく、また図書室に入り浸る図書委員系の同級生がどちらかと言えば苦手だった自分としては、学校図書館と言われても正直、いまいちピンとこなかったのですが、皆さんの議論を聞いていてぼんやりとつかめた気もします。

無理やりまとめると、ヒト・モノ・カネ…現実的な制約は数多くあるけど、図書館など不要な勢いの優秀な層の生徒よりももう少し「下」の層の生徒を主なターゲットにして、(読書教育ではなく)情報リテラシー育成のための拠点として、地域の公共図書館等にうまくサポートしてもらいながら、地域や学校の特色に応じて様々な取組みをしていってほしいね、というところでしょうか。こう書くと「当たり前やんけ」と自分で思わずツッコミを入れてしまいそうになりますが、(関係者の方の言によると)これが当の学校図書館の当事者たちには「当たり前」でなく、また多くの学校図書館が「真似」を目指すような国内の取組みがあまりないといういささか厳しい現実もあるわけですが、それはさて置き。

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満員御礼(スピーカ込み12名)でかつ場としても盛り上がったということで、主催側としては申し分ないイベントとなったわけですが、次回は秋くらいでしょうか。今井さん、皆さんどうも有り難うございました。

2016-06-13 越境者たち

[]二宮峯男『馬来半島事情』 二宮峯男『馬来半島事情』を含むブックマーク 二宮峯男『馬来半島事情』のブックマークコメント

二宮峯男『馬来半島事情』 東京, 内外出版協会, 明治31(1898)年, 157+48p.

<本文>

本書は、イギリス統治下のマレー半島=現在のマレーシア地誌イギリス植民地政策、各州スルタン国、そして華僑(特にページを多く割いている)などについてまとめ、そして日本人の彼の地への農業殖民を奨励するレポートである。ただ惜しむらく、緒言に「余が明治廿七年来書名の地方を漫遊せしの日、見聞の侭記せしもの及横文を抄訳せしもの等を纏めて之を一冊としたるもの」云々とあるが、本書を読んでもこの二宮という著者が何者でどうしてマレー半島に渡ったのかは分からない。

しかし、本書の出版より数ヶ月前の明治31年4月に二宮が大隈重信に宛てた手紙早稲田大学に残されているのだが、ここに履歴書が付されているので、そこから情報を拾ってみると………二宮は明治4(1871)年、愛媛県生まれの士族同志社で学んだ後、明治25(1892)年に横浜イギリス領事館に日本語教師兼通訳として就職し、そして、明治27年2月にシンガポールイギリス海峡殖民地政庁に移った。明治29年1月からは日系商社の駐在員として引き続きシンガポールに滞在し、明治30年12月に帰国した………ということが分かる。本書はこのシンガポール滞在の経験をもとに書かれたもので(植民地政府では華人参事局、即ち華僑の管理に従事していたようで、本本書で華僑に関する記述が充実しているのも頷ける)、そして大隈に手紙を送ったのは、帰国後の就職活動の一環であったと推察される。

さて、二宮のその後であるが、この手紙が奏功したのかどうかは不明であるものの、明治31年のうちに三井銀行に就職したようだ。昭和2(1927)年の雑誌『人道』4月号で「二宮峯男君之面影」という追悼特集が組まれていて、明治31年に三井銀行に入行したこと、三井信託の相談役まで出世したこと、そして昭和2年に亡くなったことが分かる。同志社同級生徳富蘇峰も含む)や三井の同僚の寄稿からなるこの特集記事からは、二宮の真面目で温厚で、そして勉強熱心な人柄は伝わってくるが、20代を過ごしたマレー半島についての記載は一切ない。

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2016-05-31 越境者たち

[]渡部教行『布哇国案内』 渡部教行『布哇国案内』を含むブックマーク 渡部教行『布哇国案内』のブックマークコメント

渡部教行『布哇国案内』 大阪, 今村謙吉, 明治27(1894)年, 36p.

<本文>

著者は愛媛県出身のハワイ移民。本書に自らの来歴について語るところがほとんどなく、また他の記録にもその名を見出せていない。

日本からハワイへの移民1868年以来行われているが、政府移民希望者を募集するいわゆる「官約移民」は1894年でいったん打ち切られ、その後しばらくは私設移民会社によるいわゆる「契約移民」となる(会社を介しないいわゆる「自由移民」もいた)。「当時ハワイから故国に送金される金額は毎年二〇〇万円に達したといわれ移住希望者は後を絶たなかった」(『愛媛県史』)そうで、本書によれば、当時のハワイの人口約10万人のうち、日本人移民が2万人を占めたという。

さて、本書を通読してみると、キリスト教に関する記述が多いことに気づく。書きぶりから察するに、著者も洗礼を受けたクリスチャンなのだろう。

布哇は日本人が尤も多く外国人に接する所でありますれば布哇に行く人々は能く々々注意して決して日本の名誉を汚すこと無き様にせねばなりません。…(中略)…諸君が布哇に行かれましたならば願くは彼国の悪しき習慣に陥らずして善き社会に交わり進んで又基督教の何者たるを研究し真の神の道に入り正しき人となられるんことを偏に望むところであります。

※ここで言われる「悪しき習慣」はあくまでもハワイ固有の習慣を指す点には要注意。

本書を出版した今村謙吉自身がキリスト教の伝道に従事してハワイにも滞在した経験を持ち、そして関連する書籍を何点も出版している。その縁で本書の執筆者として渡部が迎えられたのだろうか(末尾にはハワイの各地で伝道に従事する日本人が挙げられている)。この時代、移民に関する本は多いが、キリスト教の伝道と結びついた本は珍しいのではないか。

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2016-05-29 越境者たち

[]正岡芸陽『米国野球見物』 正岡芸陽『米国野球見物』を含むブックマーク 正岡芸陽『米国野球見物』のブックマークコメント

正岡芸陽『米国野球見物』 東京, 博文館, 明治43(1910)年, 214p.

<本文>

渋沢栄一を筆頭とする実業家集団の明治42年のアメリカ視察の模様を、やまと新聞特派員として随行した正岡芸陽猶一(1881-1920)がまとめた『米国見物』は以前紹介した。その際に言及したけれども、この本でもっとも目立つのは、アメリカ野球事情を詳しく紹介するくだり。視察団一行も少しはアメリカ野球に触れることもあったかもしれないが、視察の本筋とはまったく関係のない、本人の趣味だったのは間違いない。

しかし正岡は、社命によりまとめた報告書の一部を私物化するだけでは物足りなかったと見え、野球だけで一冊の本を作ってしまった(「天下無類」と言われるほど筆が速かったらしい(登張竹風『人間修行』昭和9年))。本人は選手としては「とても物にならぬ」レベルで、「単なるファン」だと言っているのだが、巻頭グラビア野球のユニフォームに身を包んだ本人の写真である。

そして、彼の執念を更に感じさせるのがその出版までの経緯だ。本書の刊行は5月だが、4月25日付けの編集者の記すところによれば、正岡はグラビア撮影の翌3月17日に病に倒れ、「瀕死の状態」になってしまったという。正岡はその後も病に苦しみながらも著作は残しており、そのまま亡くなったわけではないのだが、本人の野球への思い入れというか、執念のようなものがひしひしと伝わってくる。

さて、肝心の本書の内容だが、アメリカ野球事情、選手の移籍にまつわるお金の問題、審判(行司)の地位、前年(1909年)のワールドシリーズパイレーツVSタイガース)の詳報、当時のスター選手の寸評、協会組織、八百長事情など多岐に渡る。そして、その筆は日本球界の改善にも及ぶ。当時、中止されていた早慶戦の復活、グランドの整備、「下劣」な野次の自粛、審判の尊重…等々。その思いの丈は次の一文を読めば明らかだろう。

我輩は米国本場の野球を見た。而して野球に関する多くの事を聴き、又多くの事を読んだ。其大部分を茲に故国の野球家に語り得るのは何たる光栄だろう

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