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Traveling LIBRARIAN −旅する図書館屋 このページをアンテナに追加 RSSフィード

旅×本×図書館×??

2016-08-02 小学校図書館の数=郵便局の数

[]勉強会中央線RT2016〜夏を開催 勉強会@中央線RT2016〜夏を開催を含むブックマーク 勉強会@中央線RT2016〜夏を開催のブックマークコメント

3人幹事体制だった「勉強会中央線」を21回、2人幹事体制だった「勉強会中央線NEO」を18回やって辿りついた基本1人幹事体制の「勉強会中央線RT」の4回目は、色々あって久しぶりの開催となりました。

今回のテーマは学校図書館。密かに温めていたテーマなのですが、誰にどうお願いするのか定まっていなかったのでこれまで手をつけませんでした。

いきなり私事で恐縮ですが、子どもの授業参観で小学校を訪れた際、20年ぶりに学校図書室(館)と再会しました。

今でこそ「図書館」で働いていますが、自分の過去を振り返ると、小学校時代は図書室に行った記憶はほとんどなく、中高時代もテスト前に図書室の机で少し勉強した程度で、「再会」と言っても、これまで学校図書室(館)と関わってきたことがありません。

しかし、学校図書室(館)は自分の生まれる前から存在し、自分の子どもが通っている小学校にも存在します。そして、2014年学校図書館法改正により学校司書の法制化がなされたことに象徴されるように、今後の改革・改善への動きも出ています。

では、学校図書室(館)とは、どのような<場>なのでしょうか?どのようにして形作られてきた<場>のでしょうか?どのような可能性を持つ<場>なのでしょうか?

研究対象として学校図書館を選び、そしてこの度『日本占領期の学校図書館:アメリカ学校図書館導入の歴史』を上梓される白百合女子大学の今井福司さんを囲んで、考えてみたいと思います。

告知に際してこのような案内を出し、学校図書館との連携に携わる(苦慮する?)現役の図書館員/教員/関係者やだけでなく、PTA関係者等にも入ってもらうというメンバー構成にしました。図書館ネタで図書館関係者が多くなってしまうと、どうしても内輪ネタに終始してしまうというリスクがあるのですが、「学校図書館」自体がニッチ図書館業界の中でもさらにニッチなところなので、少し違った目線は入れる必要はあるものの、敢えて業界関係者を中心にした構成にしてディスカッションの土台を整えた方が良いと判断したためです(その中で、参加者の中に司書教諭学校司書の経験者が何人かいたというのは嬉しい誤算でした)。

(44) 2016/8/1 高円寺HACO 今井福司白百合女子大学)「学校図書館とは何か説明してください

さて、肝心の中身はと言うと、学校教育法学校図書館法、そして学校図書館図書標準といった「基本」をもとに、学校図書館の成り立ちや現在の抱える課題について(参加者も含めて)あれやこれやと議論の飛び交う会となりました。図書室をほぼ自習室としてしか使ったことがなく、また図書室に入り浸る図書委員系の同級生がどちらかと言えば苦手だった自分としては、学校図書館と言われても正直、いまいちピンとこなかったのですが、皆さんの議論を聞いていてぼんやりとつかめた気もします。

無理やりまとめると、ヒト・モノ・カネ…現実的な制約は数多くあるけど、図書館など不要な勢いの優秀な層の生徒よりももう少し「下」の層の生徒を主なターゲットにして、(読書教育ではなく)情報リテラシー育成のための拠点として、地域の公共図書館等にうまくサポートしてもらいながら、地域や学校の特色に応じて様々な取組みをしていってほしいね、というところでしょうか。こう書くと「当たり前やんけ」と自分で思わずツッコミを入れてしまいそうになりますが、(関係者の方の言によると)これが当の学校図書館の当事者たちには「当たり前」でなく、また多くの学校図書館が「真似」を目指すような国内の取組みがあまりないといういささか厳しい現実もあるわけですが、それはさて置き。

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満員御礼(スピーカ込み12名)でかつ場としても盛り上がったということで、主催側としては申し分ないイベントとなったわけですが、次回は秋くらいでしょうか。今井さん、皆さんどうも有り難うございました。

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2016-06-13 越境者たち

[]二宮峯男『馬来半島事情』 二宮峯男『馬来半島事情』を含むブックマーク 二宮峯男『馬来半島事情』のブックマークコメント

二宮峯男『馬来半島事情』 東京, 内外出版協会, 明治31(1898)年, 157+48p.

<本文>

本書は、イギリス統治下のマレー半島=現在のマレーシア地誌イギリス植民地政策、各州スルタン国、そして華僑(特にページを多く割いている)などについてまとめ、そして日本人の彼の地への農業殖民を奨励するレポートである。ただ惜しむらく、緒言に「余が明治廿七年来書名の地方を漫遊せしの日、見聞の侭記せしもの及横文を抄訳せしもの等を纏めて之を一冊としたるもの」云々とあるが、本書を読んでもこの二宮という著者が何者でどうしてマレー半島に渡ったのかは分からない。

しかし、本書の出版より数ヶ月前の明治31年4月に二宮が大隈重信に宛てた手紙早稲田大学に残されているのだが、ここに履歴書が付されているので、そこから情報を拾ってみると………二宮は明治4(1871)年、愛媛県生まれの士族同志社で学んだ後、明治25(1892)年に横浜イギリス領事館に日本語教師兼通訳として就職し、そして、明治27年2月にシンガポールイギリス海峡殖民地政庁に移った。明治29年1月からは日系商社の駐在員として引き続きシンガポールに滞在し、明治30年12月に帰国した………ということが分かる。本書はこのシンガポール滞在の経験をもとに書かれたもので(植民地政府では華人参事局、即ち華僑の管理に従事していたようで、本本書で華僑に関する記述が充実しているのも頷ける)、そして大隈に手紙を送ったのは、帰国後の就職活動の一環であったと推察される。

さて、二宮のその後であるが、この手紙が奏功したのかどうかは不明であるものの、明治31年のうちに三井銀行に就職したようだ。昭和2(1927)年の雑誌『人道』4月号で「二宮峯男君之面影」という追悼特集が組まれていて、明治31年に三井銀行に入行したこと、三井信託の相談役まで出世したこと、そして昭和2年に亡くなったことが分かる。同志社同級生徳富蘇峰も含む)や三井の同僚の寄稿からなるこの特集記事からは、二宮の真面目で温厚で、そして勉強熱心な人柄は伝わってくるが、20代を過ごしたマレー半島についての記載は一切ない。

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2016-05-31 越境者たち

[]渡部教行『布哇国案内』 渡部教行『布哇国案内』を含むブックマーク 渡部教行『布哇国案内』のブックマークコメント

渡部教行『布哇国案内』 大阪, 今村謙吉, 明治27(1894)年, 36p.

<本文>

著者は愛媛県出身のハワイ移民。本書に自らの来歴について語るところがほとんどなく、また他の記録にもその名を見出せていない。

日本からハワイへの移民1868年以来行われているが、政府移民希望者を募集するいわゆる「官約移民」は1894年でいったん打ち切られ、その後しばらくは私設移民会社によるいわゆる「契約移民」となる(会社を介しないいわゆる「自由移民」もいた)。「当時ハワイから故国に送金される金額は毎年二〇〇万円に達したといわれ移住希望者は後を絶たなかった」(『愛媛県史』)そうで、本書によれば、当時のハワイの人口約10万人のうち、日本人移民が2万人を占めたという。

さて、本書を通読してみると、キリスト教に関する記述が多いことに気づく。書きぶりから察するに、著者も洗礼を受けたクリスチャンなのだろう。

布哇は日本人が尤も多く外国人に接する所でありますれば布哇に行く人々は能く々々注意して決して日本の名誉を汚すこと無き様にせねばなりません。…(中略)…諸君が布哇に行かれましたならば願くは彼国の悪しき習慣に陥らずして善き社会に交わり進んで又基督教の何者たるを研究し真の神の道に入り正しき人となられるんことを偏に望むところであります。

※ここで言われる「悪しき習慣」はあくまでもハワイ固有の習慣を指す点には要注意。

本書を出版した今村謙吉自身がキリスト教の伝道に従事してハワイにも滞在した経験を持ち、そして関連する書籍を何点も出版している。その縁で本書の執筆者として渡部が迎えられたのだろうか(末尾にはハワイの各地で伝道に従事する日本人が挙げられている)。この時代、移民に関する本は多いが、キリスト教の伝道と結びついた本は珍しいのではないか。

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2016-05-29 越境者たち

[]正岡芸陽『米国野球見物』 正岡芸陽『米国野球見物』を含むブックマーク 正岡芸陽『米国野球見物』のブックマークコメント

正岡芸陽『米国野球見物』 東京, 博文館, 明治43(1910)年, 214p.

<本文>

渋沢栄一を筆頭とする実業家集団の明治42年のアメリカ視察の模様を、やまと新聞特派員として随行した正岡芸陽猶一(1881-1920)がまとめた『米国見物』は以前紹介した。その際に言及したけれども、この本でもっとも目立つのは、アメリカの野球事情を詳しく紹介するくだり。視察団一行も少しはアメリカの野球に触れることもあったかもしれないが、視察の本筋とはまったく関係のない、本人の趣味だったのは間違いない。

しかし正岡は、社命によりまとめた報告書の一部を私物化するだけでは物足りなかったと見え、野球だけで一冊の本を作ってしまった(「天下無類」と言われるほど筆が速かったらしい(登張竹風『人間修行』昭和9年))。本人は選手としては「とても物にならぬ」レベルで、「単なるファン」だと言っているのだが、巻頭グラビアは野球のユニフォームに身を包んだ本人の写真である。

そして、彼の執念を更に感じさせるのがその出版までの経緯だ。本書の刊行は5月だが、4月25日付けの編集者の記すところによれば、正岡はグラビア撮影の翌3月17日に病に倒れ、「瀕死の状態」になってしまったという。正岡はその後も病に苦しみながらも著作は残しており、そのまま亡くなったわけではないのだが、本人の野球への思い入れというか、執念のようなものがひしひしと伝わってくる。

さて、肝心の本書の内容だが、アメリカの野球事情、選手の移籍にまつわるお金の問題、審判(行司)の地位、前年(1909年)のワールドシリーズパイレーツVSタイガース)の詳報、当時のスター選手の寸評、協会組織、八百長事情など多岐に渡る。そして、その筆は日本球界の改善にも及ぶ。当時、中止されていた早慶戦の復活、グランドの整備、「下劣」な野次の自粛、審判の尊重…等々。その思いの丈は次の一文を読めば明らかだろう。

我輩は米国本場の野球を見た。而して野球に関する多くの事を聴き、又多くの事を読んだ。其大部分を茲に故国の野球家に語り得るのは何たる光栄だろう

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2016-05-28 越境者たち

[]阪本喜久吉『雲海紀行』 阪本喜久吉『雲海紀行』を含むブックマーク 阪本喜久吉『雲海紀行』のブックマークコメント

阪本喜久吉『雲海紀行』 東京, 東京堂, 明治29(1896)年, 143p.

<本文>

土佐出身の阪本喜久吉という人物については詳しい事は分からないが、手がかりになるのは、1896年11月3日の朝日新聞に掲載された本書の広告記事だ。

日本郵船会社欧洲航路開始の第一先登る船たりし土佐丸事務員として同船に乗組みし阪本喜久吉の航海中見る所を記して土佐の土陽新聞に寄送したるを輯録して一冊子となせるもの。即ち香港・錫蘭・盂買・龍動・アントウエルプ・地中海等同船の航路及び寄航の各名地にて戦勝国の旭旗に対し彼等が如何に歓迎の意を表し同船の如何に名誉を施したるやの詳況を見るべし。

日清戦争の余韻覚めやらぬ1896年日本郵船会社はヨーロッパオーストラリアアメリカへの国際航路を開設するが、その魁となったのが3月15日に遠くロンドンを目指して横浜を出航した土佐丸であった(船長は英国人マクミラン)。阪本もこう意気込んでいる。

殊に我邦の如き四面環海の邦国に在ては、富国強兵の策、主として必ず先づ航海業に仰がざるべからざるは、智者を待て後に知らざるなり。

香港コロンボムンバイロンドン地中海上、といった各地から、地誌、からゆきさん、ライバル会社、観光といった航海中に見聞した様々な情報を手紙としてまとめているが、どうしても最後は(日本郵船の)海運業の拡張に帰結するのが面白い。岩崎弥太郎の下、土佐出身の若者が日本の国際海運業を切り開こうとする情熱と勢いが詰まった一冊だ。

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2016-05-16 越境者たち

[]『一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書』 『一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書』を含むブックマーク 『一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書』のブックマークコメント

『一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書』 東京, 日本貿易協会, 明治37(1904)年, 299p.

<本文>

ハノイ万国博覧会―仏領東京河内万国博覧会は、1902年11月16日から1903年2月15日までの期間、フランスベトナムハノイで開催された。本書はその報告書であるが、出版元が「日本貿易協会」となっている点は要注意。日本政府は、1900年に開催されたパリ万国博覧会への出展準備で手一杯となっていたため、ハノイ万国博覧会には政府としては参加せず、代わりに日本貿易協会という民間の出品団体を立上げて参加したのだ(統括したのはパリ万国博覧会でも活躍した大塚琢造)。

「博覧会ニハ仏国及ビ其殖民地ノ製産物並ニ新嘉坡日本国トノ間ニに位セル各国の製産物ヲ出陳スル」ということで、清国朝鮮、タイ等からの出品もあったものの、フランス本国やその植民地からの出品が大半を占めた。一方、日本からは、醤油・魚介類の缶詰・ビールといった食品から、漆器陶磁器等の工芸品や靴やブラシといった日用品、そして時計・医療機器等の機械まで日本各地から多種多様な出品がなされたようだ。しかし、これらは「売店主義」、つまり品数は多いものの、一部を除けば総じて品質があまり高くないものばかりであった、と反省点が述べられていることから、当事者としてはあまり満足のいくものではなかったことが伺える。

ちなみに、以前ここで紹介した南条文雄・高楠順次郎『仏領印度支那』収録の「南征記」によれば、彼らも始まって1週間ほど経ったころの博覧会を見学しており、

我が国よりは北は氷雪蝦夷地より西は炎熱の台湾に至るまで出品者意外に多く、その会場の如きも常に欧人の顧客を以て充満せり…(略)…その用意已に終りたりと云ふべきは殆と見るを得ざりき、我日本の如きは用意未だその半を終へず。

と、一定の評価しつつも、運営面における反省点について指摘している。

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2016-03-31 TOKYO1/4

[]『東京文化資源の歩き方』に写真を提供 『東京文化資源の歩き方』に写真を提供を含むブックマーク 『東京文化資源の歩き方』に写真を提供のブックマークコメント

知人に誘われて、もうすぐ青弓社から出る『TOKYO1/4が提案する 東京文化資源の歩き方:江戸文化からポップカルチャーまで』という本の編集のお手伝いをしました。といっても、僕は昨年春の企画会議で思いついたことを言った(提案した)後は、原稿チェックを少しやったくらいですが…。

さてこの本、東京五輪を契機として実施する「文化プログラム」を展開していこうという話があり(こちらは同時に出る姉妹本『TOKYO1/4と考える オリンピック文化プログラム 2016から未来へ』で扱っています)、そこに東京文化資源区*1神保町神田秋葉原湯島本郷上野谷根千といった文京区台東区千代田区にまたがるエリア―に重層的に蓄積された「文化資源」をそこにどう絡めていくか?ということで企画されたものだと僕は理解しています。

なので、編集メンバーもこのエリアにバックグランドのある人がほとんどでした。そこにこのエリアに全くと言っていいほど縁の無かった僕が入ることになったので、どう貢献したものやら…と思いながら最初の企画会議に顔を出したことをよく覚えています。

とは言え、せっかくの機会ということで、昨年の春から夏にかけて何度か、カメラを片手にこのエリアを歩いてみたのですが、その際に撮影した写真が2枚、この本に使われています(使われた写真―ここには載せていません―は、分かりやすいランドマークを撮ったものですが)。

ともあれ、このエリアを様々な視点で読み解こうとしている、少し趣きの違ったガイドブックともいえるユニークな一冊に仕上がっていると思います。ご興味のある方、ぜひ手にとっていただければと。そして、この本を片手に「ぱっと思いつくキーワード」の裏側に足を踏み入れてみてください。

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2016-03-22 越境者たち

[]山岡光太郎『世界の神秘境アラビヤ縦断記』 山岡光太郎『世界の神秘境アラビヤ縦断記』を含むブックマーク 山岡光太郎『世界の神秘境アラビヤ縦断記』のブックマークコメント

山岡光太郎 『世界の神秘境アラビヤ縦断記』 東京, 東亜堂書房, 明治45(1912)年, 252p.

<本文>

山岡光太郎(1880-1959)は東京外大学んだロシア語を生かして日露戦争に通訳官として従軍した後は中国などに赴任していたが、明治42(1909)年に陸軍を辞し、中東に向かった。陸軍福島安正)から中東イスラームに関する情報収集の命を受けていたともいわれている。この旅に出た時点で、山岡にはイスラムについての基礎知識もほとんどなかったようなので、少なくとも宗教的な動機は山岡になかったと思われる。

山岡は、神戸からまずインドボンベイへ向かった。ここでイスラムに改宗するとともに、同行者となるムスリムからコーランについての講義を受け、イスラームについての基本的な知識をマスターしてから、いよいよ目的地であるアラビア半島に入った。中東では、日本人初となるメッカ巡礼を果たしたばかりでなく、メディナ、アラファト山、ダマスカスなどをめぐった。本書を読む限り、相当ハードな旅であったようだが、初めての日本人巡礼者ということで、各地で歓待を受けている。そして、ベイルートからイスタンブールに向けて出航したところで終わっているが、帰国したのは翌年のことだったらしい。

この旅の後も、山岡は敬虔なムスリムとして生活を送りつつ、中東や欧米への旅を繰り返したり、その見聞を元にした本を著している。このイスラム世界への旅が、きっかけが何であれ、山岡の人生を大きく変えたことは間違いないだろう。ただ、彼のセンセーショナルな旅とは裏腹に、その後の人生においては総じて不遇だったような印象を受ける。旅に人生の大半をかけるということは得てしてそういうものだ、と言ってしまえばそれまでだが。

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2016-03-21 越境者たち

[][]松川二郎樺太探検記松川二郎『樺太探検記』を含むブックマーク 松川二郎『樺太探検記』のブックマークコメント

松川二郎(木公) 『樺太探検記東京, 博文館, 明治42(1909)年, 175p.

<本文>

もっぱら旅に関する文章を寄稿して生計を立てるプロのライター/作家も最近は珍しくはないが、その魁とも言うべき1920〜1940年代に活躍した人間となるとどうだろうか。この時代、日本では旅行熱が高まり、旅にまつわる雑誌や本が多く出版された時代でもある。この時代に活躍したのが、本書の著者、松川木公こと松川二郎*1。なお、本書が書かれた時期、樺太サハリン)は日本の領土であったため、松川は「越境」したわけでも何でもないことになるのだが、そこは突っ込まないでいただきたい。

明治20(1887)年に福井県で生まれた松川は、読売新聞に就職する。そして41年12月22日、「探検記者」として上野駅から夜行列車に乗り、青森函館を経て、そして小樽から樺太に向けて出航した。船は冬の宗谷海峡の荒波に難儀しながらも大泊(コルサコフ)に到着する。大泊から当時政庁の置かれていた豊原(ユジノサハリスク)までの移動には鉄道を利用したようだ。

さて、松川がこの本を執筆した動機だが、彼の地が国内では「継子扱」されて「如何に愉快なる土地で且又如何に大いなる富を包有する天然の宝庫である」ことを説明するためだと言う。そのため、松川は「樺太の精」を登場させ、その口から、樺太がいかに水産資源に恵まれた土地であるかを力説させ、また住民の構成(ちなみに、明治40年当時の人口は2万人余、うち日本人は1.8万人余だったそうだ)やら先住のギリヤーク(ニヴフ)の人々の生活やらを語らせ、そして20年後には有数の避暑地として世界中から旅行客が訪れるであろうと言わせている。態の良いプロパガンダである。

ひととおり「樺太の精」に語らせた松川は、年が明けて1月7日犬ぞりを駆って樺太縦断の旅に出る。その後、アイヌの家で吹雪に閉じ込められたり、アザラシ猟に出て遭難して救助されたりとドタバタな旅を続けたようだ。当初の予定では樺太からシベリアに渡って探検することになっていたのだが、この遭難で体調を崩したために樺太で旅を切り上げることになったようで、このため「シベリア探検記」となるはずの本のタイトルが「樺太探検記」となったとのこと。仮にこのままシベリアに渡っていれば、樺太の記述はもっと少なくなっていただろうから、「当時の樺太の記録の充実」という意味では、それで良かったのかもしれない。

最後に。この本の文章は、自分の失敗談などを盛り込みながら、全体として軽妙なコメディタッチで書かれていて、非常に読みやすい。そういった点でも、後にプロのライターを生業とするに十分な素質があったと言うべきだろうか。それにしても不可解なのは、どうして旅するには厳しい冬を選んで松川は樺太に渡ったのか、である。

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2016-02-12 CCoN

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"TOKYO 1/4" Uguisudani, 2015.7.

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"TOKYO 1/4" Higashi-Ueno, 2015.7.

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