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文筆家の皆さん、以下の項目をいくつ満たしていますか?

以前、文筆家関係者が多いと思しき某所でちょっと尋ねたことがあり、そのとき挙げた項目に更に追加して、ちょうど20個の項目を用意したので、ここにも投げさせていただきたい。

今どきな文筆家の皆さん、以下の20の項目のうち、いくつを満たしていますか?

  1. 共著がある
  2. 単著がある
  3. 編著がある
  4. 訳書がある
  5. 著書/訳書が他人の著書で参考文献に挙げられた
  6. 著書/訳書が文庫化された
  7. 著書/訳書が増刷/重版した
  8. 著書/訳書がテレビ番組化された
  9. 著書/訳書がコミック化された
  10. 著書/訳書が映画化された
  11. 著書/訳書が国内の賞を受賞した
  12. 著書が海外で翻訳された
  13. 著書が海外の賞を受賞した
  14. ウェブメディアで連載したことがある
  15. 雑誌で連載したことがある
  16. 新聞で連載したことがある
  17. 本の帯コメントを書いたことがある
  18. 自分の著書/訳書以外で序文/まえがきを書いたことがある
  19. 自分の著書/訳書以外で解説を書いたことがある
  20. 文学フリマで自分が執筆した本を売ったことがある

面倒なので、ここでは著書/訳書に、紙の本か電子書籍といった条件はつけないことにする。

念のために書いておくが、当たり前だが別に満たした項目数が多いから偉いといった話ではない(ので、そういうので噛みつくのはご遠慮いただきたい)。そもそもこの20を全部満たす人はまずいないはずなので。

あと、最後に唐突に文学フリマが出てくるのは、たまたま項目を考えたのが、文学フリマ東京38に関するポッドキャストを聞きながらだったためで、それ以上の意味は特にない。

ワタシの場合、満たしているのは以下の項目になる。

単著がある

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』は、電子書籍だけでなく紙の本も作っていただいた。

そうそう、ワタシは本の執筆者として参加したことはいくつかあるが、いずれも著者にクレジットされていないので、「共著」はないことになる。

訳書がある

思えば、『デジタル音楽の行方』も来年には20周年になる。もはや現役の翻訳者とは言えないね。

著書/訳書が他人の著書で参考文献に挙げられた

直近の例は、矢吹太朗『Webのしくみ Webをいかすための12の道具』になる。

ここから10個くらい該当なしが続く。「増刷/重版」(にともなう不労所得)の経験がないのは、ワタシのもっとも大きな心残りかもしれない。

ウェブメディアで連載したことがある

今は WirelessWire News で連載している。

雑誌で連載したことがある

技術評論社Software Design の2005年8月号~2006年7月号に連載された「Wikiつまみぐい」において、毎月600字程度の小コラム「yomoyomoWikiばなし」を担当。連載内連載?

自分の著書/訳書以外で序文/まえがきを書いたことがある

『ケヴィン・ケリー著作選集 1』に序文を寄せている。

自分の著書/訳書以外で解説を書いたことがある

河口俊彦『大山康晴の晩節』に書いている(解説全文)。

というわけでワタシが満たしているのは、2、4、5、14、15、17、18、19の8個になる。場末の雑文書きとしては意外に多かった。

AIは企業のCEOにとってかわるのか

www.nytimes.com

「AI があなたの仕事をこなせるなら、あなたのとこの CEO も AI に置き換えられるかもね」という記事タイトルだが、人工知能プログラムがオフィスを揺るがし、何百万もの仕事を陳腐化する可能性があるが、それをいうなら、ニュースリリースのライターやカスタマサービス担当だけでなく、企業の CEO(最高経営責任者)だって AI に置き換えられるかもよ、という話である。

これは単なる予測ではない。AI 指導者という概念を公に実験し始めて成功している企業が少数存在する。

ホントかよ。オンライン学習プラットフォームの edX は昨年の夏に数百人もの CEO や経営幹部を対象に調査を行ったところ、調査対象の経営幹部の半数近く(47%)が CEO の役割の「ほとんど」あるいは「すべて」が完全に自動化、あるいは AI に置き換え可能なはずと回答したという。

edX の創始者のアナン・アガワルは、「最初、『従業員全員置き換わる。でも、私の仕事は違う』と直感的に思ったけど、よくよく考えると CEO の仕事の80%は AI に置き換え可能だった」と語っている。AI により、誰でも CEO になれると彼は言う。

ワタシが思い出したのは、小関悠さんの短編「ロボット上司問題」なのだが(これ9年前の作品か!)、「ロボット上司(robot-boss)」という言葉が最初に使われたのは、1939年にパルプ雑誌に書かれた短編小説らしい。その後、人間と機械の関係を描いた作品が多く作られたわけだが、アリババのジャック・マーは、現在の AI ブーム前の2017年に、30年後には「ロボットが最高の CEO として TIME 誌の表紙を飾るだろう」と予言している

最先端 AI は、30年後といわずそれを実現するのだろうか?

この記事ではいくつか実例が紹介されているが、詳しくは原文をあたってくださいな(さすがに日本の事例には触れられていない)。これまで AI が仕事を奪う話は、主に平社員というか専門性が低い側からどこまでいくかだった。しかし、企業の頂点である CEO まで置き換えの可能性が論じられるとはね。

この記事でも、「今や立場は逆転している。研究者は、経営幹部レベルの自動化が、下級労働者を助ける可能性さえあると推測している」という記述があったりするが、驚きよね。

「社交的な人間の上司を好む人もいます。しかし、コロナ禍の後では、多くの人は上司なしでも平気になってます」というエセックス大学のフィービー・V・ムーア教授の言葉で記事は締められている。

ネタ元は Slashdot

肥満率を低く抑える日本の食文化についてのヨハン・ハリの取材記事(がなんだかなー)

time.com

「オゼンピックが必要ない国」というタイトルになんじゃそりゃと思ったが、オゼンピックとは2型糖尿病の治療薬で、この記事は2023年3月に日本の医療当局が肥満症の治療薬ウゴービを認可した話から始まる。これはオゼンピックやウゴービを製造するノボ・ノルディスク社にとって、一見素晴らしいニュースに思えるが、実はあまり意味がないと書く。なぜか?

アメリカ人の42%が肥満であるのに対し、日本人の肥満率は4.5%に過ぎないからだ。つまり、「オゼンピックが必要ない国」というタイトルは日本を指してるんですね。

この記事の著者のヨハン・ハリは、『麻薬と人間 100年の物語』(asin:4861827922)、そして今年邦訳が出た『うつ病 隠された真実: 逃れるための本当の方法』(asin:4861828430)で知られる書き手だが、その彼自身数か月前からオゼンピックを服用しており、そして彼の先月出た新刊 Magic Pill のために取材を重ねた結果、オゼンピックが引き起こすという説がある鬱や自殺願望などの副作用の話に気に病んだという。

彼は日本に赴き、なんで日本人の肥満率が低いのかを探った。日本人は遺伝子的に運が良いのだろうというのが最初の見立てだったが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて日本からハワイに移住した日系ハワイアンは遺伝子的に日本人と近いはずだが、移住から100年以上経ち、日系ハワイアンの肥満率は日本人の4倍である。

そして、彼はその秘密を日本の食文化に見出す……って、あのさ、日本食の欧米で受容されるイメージを知らなかったわけじゃないだろ、そんなの日本に来る前からあらかた予想できたことじゃないか? とワタシなど思ってしまうのだが、「三角食べ」や「腹八分目」を紹介した後でヨハン・ハリはこう書いている。

私は旅行中、このような日本食だけを食べたが、三日目には希望と恥辱が奇妙に入り混じった経験をするようになった。自分がより健康で体重が軽くなったと感じたが、こうも思った――日本人は、何千年もかけて食べ物との、我々にはとうてい輸入できない、まったく異なる関係を築いてきたのだ、と。

何を大げさな……と思ったが、「日本の食文化のほとんどが、実はごく最近に発明されたものだと知って私は驚いた」という文章が続いてどっちらけである。おいおい!

その後も日本の食文化の取材が続くのだが、小学校で10歳の女の子が「ブロッコリーなど緑黄色野菜が好き」と言ったのを聞き、通訳に「これジョークだよね? オレ、かつがれてんのかな?」と思わず口走り、10歳のガキがブロッコリー好きってありえんだろと困惑する。が、その話をされた日本人のほとんどはその彼を見て困惑するのである。そりゃそうだろ。

そして、「メタボ法」を紹介した後に、年に一度の会社でやる健康診断の前に、体重の増加を気にして食べ過ぎてたジャンクフードを断ち、電車や車でなくなるだけ歩くようにしているといった話を何人もの日本人から聞かされ、「アメリカやイギリスでこんなことしたら、人々は激怒してオフィスを焼き払うだろう」と著者は言うのだが、それを聞いた日本人はやはり困惑するばかり。

従業員の体重がどうだろうと、雇用主には関係のないことだし、そんなのとんでもないプライバシーの侵害じゃないかと私は言った。それを聞いたほとんどの日本人は丁寧にうなずき、何も言わず、それでいて、こいつ少しおかしいんじゃないかという目を私を見るのだった。

そりゃそうだ。ワタシ自身日本の基準(BMI が25以上)でいえば立派な肥満で、その定期健康診断を控えているので、この記事で書かれる日本の会社員のようなことをまさに思っているところだったりする。欧米企業では従業員の定期健康診断ってないの?

日本では肥満の基準は、上記の通り BMI が25以上では、WHO 的には BMI が30以上が肥満になる。アメリカの42%はそちらでの数字なんだろうが、さすがにデブのワタシですら、BMI 値30超えの経験はない。

その後も著者の日本人の(健康)寿命が長い理由を肥満率の低さに求める取材の話が続き、肥満の危機がいかに人為的なもの、我々の生き方が作り出したものかということを痛感し、我々と日本人の間に埋めようのない溝があるように思えた、と書く。

なんだかなー、というのが正直な記事の読後の感想である。彼の日本の取材旅行は、その新刊の内容にも反映されているのだろうか。

ネタ元は Boing Boing

現代の奇書、友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』がハヤカワ文庫から来月出る

yamdas.hatenablog.com

ガブリエル・ガルシア=マルケス百年の孤独』の文庫化について少し前に書いたが、遂に今月刊行される。

それに踏まえ、満を持して……かどうかは分からないが、以前から一部で話題になっていた『『百年の孤独』を代わりに読む』がハヤカワ文庫から出るのを、著者の友田とん氏の投稿で知る。

マジか!

マジだった!

この奇書『『百年の孤独』を代わりに読む』だが、note での連載を基にした本で、その始まりは2014年の8月になるので、なんと10年越し(!)の文庫化ということになる。

こういう本が商業ルートに乗ることはすごいことだと思う。

それにしても、本家の文庫化に合わせた(?)本書の文庫版刊行を考えた早川書房の編集者は傑物としかいいようがない。あるいは(以下略)。

マッドマックス:フュリオサ

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が2015年公開だから、その9年後に作られた前日譚である。もちろん公開初日に観に行ったが、近場の IMAX シアターでレイトショー鑑賞となると、終映時間が日付過ぎた24時半くらいになってしまうので、別のシネコンに出向き、字幕版を鑑賞した。

マッドマックス 怒りのデス・ロード』でシャーリーズ・セロンが演じたフュリオサ大隊長の若き日を描く本作において、アニャ・テイラー=ジョイが主役と聞いて、目力がある彼女がピッタリだと即座に納得した。意外に子役時代の場面が長かったけど、彼女は予想通りに期待を満たしている。

本作は、フュリオサ、イモータン・ジョーに加えてディメンタスが新たな敵役としてクマちゃんのぬいぐるみとともに登場するが、クリス・ヘムズワースが好演している。

『怒りのデス・ロード』はノンストップアクションというか、行って帰って来ての爆走だけで二時間駆け抜ける映画だったが、本作はフュリオサの少女時代から、イモータン・ジョーの元から妻たちを逃亡させるまでを描いた全5章、二時間半の映画になっている。

『怒りのデス・ロード』があまりにも凄い傑作だったため、突然変異的にとらえられたところがあるが、ジョージ・ミラーはそれこそ40年以上前から狂ったアクションを撮っていた人なのだ。本作における、とんでもない角度を車がのぼっていくところなど目まいを覚えた。

今回も激しいカーチェイスが売りで、『怒りのデス・ロード』とはまた違ったアクションが見れるし、後半は『怒りのデス・ロード』だけでなく、『マッドマックス』シリーズの旧作に重ね合わせることもできる。

ただ正直に書かなければならないが、本作は間違いなく素晴らしい映画だが、『怒りのデス・ロード』ほどは良くない。これに関してはコリイ・ドクトロウと同意見で、ある意味構造的なところがある。あと、本作は登場する各地点同士の政治状況についての描写が必ずしも成功しておらず、それが作品としての集中感を少し下げている。

繰り返すが本作は素晴らしい映画である。『怒りのデス・ロード』の爆走感が特別過ぎたのだ。

ミッシング

石原さとみの演技がすごいという評判を聞いて行くことにした。が、思えば、ワタシは石原さとみの主演作って映画もテレビドラマもこれまで観たことないんだよね(『シン・ゴジラ』は主演作ではないわけで)。

で、さらにいうと𠮷田恵輔監督の作品を観るのも、恥ずかしながら本作がはじめてだった。

娘が失踪した母親を演じる石原さとみの熱演は評判通りだったが、青木崇高も良かった。

それにしても意地の悪い演出が印象的な作品である(もちろん良い意味で)。観客皆の頭の中でツッコミが浮かび、それがポロっと口に出される悲惨な場面もそうだし、主人公の推しのアイドルグループの新曲の使い方も相当に意地が悪い。主人公が縋らざるをえないわずかな期待もことごとく裏切られるのは必然だ。

本作の主人公はそのようなめぐり合わせの元、ギスギスの極致ともいえる演技をみせるわけだが、本作の場合、主人公の脇で何度も彼女とは直接関係のない、やはりギスギスとしたやりとりが行われているところも現在的である。

ギリギリと締め上げられ、翻弄され苦しむ主人公がどのように肯定される余地が残っているのか――ここが本作のポイントである。そこではワタシも青木崇高にもらい泣きしてしまった。

報道のあり方、折り合いの悪い家族との関係といったポイントについて、エモーショナルに盛り上げる演出をしないところも好ましく思った。

ずっと自分とそれ以外との温度差に苛立ち続けた主人公が最後にいきついた地点を日常における所作で表現するエンディングも良かった。

関心領域

ジョナサン・グレイザーといえば、日本でもっとも知られる仕事は未だに "Virtual Insanity" なのかもしれないが、寡作な彼の映画を観るのは本作がはじめてだった。第一作の『Sexy Beast』は、ブレイディみかこさんの文章で引き合いに出されていた覚えがあるが、あれ今日本でちゃんと観る方法あるのかな。

そうした意味で本作は以前から楽しみだったが、実は、観に行く前夜に久しぶりに会う友人とバーで深酒した疲労が残っており、アウシュビッツ収容所の隣で暮らす所長一家の穏やかな日常生活が描写される最初のほうで何度か寝かけてしまった。まったく恥ずかしい話で、ワタシに本作について何か書く資格はなく、以下はただのメモと思っていただきたい。

『落下の解剖学』に続きザンドラ・ヒュラーが好演しており、彼女が所長である夫の転属(とそれにともなう転居)を告げられ、アウシュヴィッツでの生活への執着から激しく怒り出す場面が実に「人間的」であり、それも本作の恐ろしさに貢献している。

ロングショットが多用され、観客は所長一家の生活を定点観測しているような気になる本作は、アウシュビッツ収容所でホロコーストの犠牲となったユダヤ人をほぼ登場させることなく、所長一家の生活を説明描写を排して描きながら、その隣から常に聞こえる工事音などに交じる異様な轟音(や悲鳴や罵声)のみで収容所で行われていることを伝える。

しかし、アウシュビッツ収容所について知識の足らないため明らかに分からないと感じた点がいくつもあり、鑑賞後に辰巳JUNKさんの「『関心領域』 反ハリウッドの殺戮」などを読んで、なるほどあの些細な会話にそういう情報が込められていたのかとなったところがいくつもある。

氏の文章でも題名が引き合いに出されるが、本作のラストにおける主人公の生理反応は、やはり『アクト・オブ・キリング』を思い出してしまった。

『Plurality』書籍版の刊行とオードリー・タンのドキュメンタリー映画

time.com

TIME 誌が台湾のデジタル担当大臣(の退任が決まった)オードリー・タンに取材した記事だが、これを読んでいて、一年以上前にここでも紹介したオードリー・タンとグレン・ワイル、そしてコミュニティの共著 Plurality の書籍版が刊行されていたのを知った。

ジョセフ・ゴードン=レヴィットが推薦の言葉を寄せているのに驚いた。

これの日本語訳もPlurality和訳で進んでいる模様。

そして、オードリー・タンといえば、『Good Enough Ancestor』というドキュメンタリー映画が作られているようだ。西尾泰和さんが予告編に日本語字幕をつけているので、字幕をオンにしてみてください。

この映画についての情報をネットでまだほとんど見つけられなかったが、日本でも公開されるといいですな。

Google検索結果からAIによるまとめを排除するフィルタ「&udm=14」

udm14.com

このサイトのドメイン名にもなっている「&udm=14」とは何かということだが、その前に the disenshittification Konami code というサイト名にも注意する必要がある。

disenshittification とは、ワタシも何度も(その1その2)取り上げているコリイ・ドクトロウによるオンラインプラットフォームの質低下を指す造語 enshittificationメタクソ化)の対義語である。

そして、Konami code だが、もちろんコナミに由来する言葉で、いわゆる「隠しコマンド」全般を指すフレーズになってるそうな。

つまりは、「メタクソ化に抗う隠しコマンド」、それが「&udm=14」というわけだ。サイトデザインを見れば分かることだが、ここで対象となっているのは Google である。

検索エンジンとしての Google の質低下については特に最近よく言われるが、これについてはやはりコリイ・ドクトロウによる以下の文章(の heatwave_p2p さんによる翻訳)を見てもらうのがよい。

Google検索に「&udm=14」を付ければ、検索結果の最上部にゴテゴテ追加される AI による概要情報を排し、シンプルな検索結果を見れるという。

tedium.co

余計なジャンクを一切含まない、10年前の Google みたいな外観を取り戻すフィルターという謳い文句は魅力的である。

ただ、これは飽くまで外観の話であって、スパマーに屈した Google の検索結果の品質低下そのものを救うものでないことは、この記事でも明言されている。つまり、これは2001年の Google を取り戻すものではないということ。

「&udm=14」という「コナミコマンド」がいつまで有効かも分からない。しかし、こういうものが求められること自体、スンダー・ピチャイ CEO が力説する「AI駆動の検索こそがウェブの未来」に対するアンチテーゼとも言えるわけである。

ネタ元は Pluralistic

ロイル・カーナーのライブ盤『hugo: reimagined』が素晴らしい

以前、「21世紀最初の20年にリリースされたワタシが愛する洋楽アルバム40選」をやったとき、ロイル・カーナーの『Not Waving, but Drowning』を選んでいるが、実は彼の『Yesterday's Gone』とどちらにしようかかなり悩んだ。正直なところ、そちらを選んでもおかしくなかった。

要はワタシはロイル・カーナーのことが大好きなのだが、一昨年末に出た『hugo』はそこまでピンとこなかった。

なのだが、その『hugo』の全曲を再演したロイヤル・アルバート・ホールでのライブを収録した『hugo: reimagined』を聴いたら素晴らしかったので、取り上げておきたい。

ワタシはロイル・カーナーの YouTube チャンネルにその動画があがっているのを観て感動したのだが、ちゃんとアルバムとしてリリースされているのね。

でも、やはりライブは映像とともに体験できるほうがよいので、映像版をお勧めしたい(配信版よりも数曲少ないが)。

これで鈍いワタシにもようやく『hugo』の楽曲がしっくりきた感じがする。ありがたいことである。

そういえば、『hugo』にはジョーダン・ラカイも参加しているが(本作でも登場するよ!)、この間出た彼の新譜も良かった(参考:音楽家にとっての「成長」とは? ジョーダン・ラカイが語る人生とクリエイティブの再発見)。

ザ・ループ (SHM-CD)

ザ・ループ (SHM-CD)

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陽一の空手いきあたりばったり――渋谷陽一が空手をやっていた頃

理由は聞かないでいただきたいが、これからたまに渋谷陽一の著書からの引用をお届けしたい。

今回は渋谷陽一『ロック微分法』ロッキング・オン)の「陽一の空手いきあたりばったり」と題された章から引用する。渋谷陽一は、1982年から1983年にかけて、雑誌「月刊空手道」で連載をやっていた。

しかし、なんで渋谷陽一は空手をやりだしたのか? この連載の初回も、「本格的なスポーツ体験もない僕が、何で三十になってから空手なのか?」という文章から始まる。

彼は三つの理由を挙げる。まず、とにかくスポーツを始めたかった。第二の理由の理由として、何か自分を追い込んでみたいマゾヒスティックな衝動があった。そして、三番目の理由が少し面白い。

 第三の理由としては、最終的には相手を具体的に倒せなければ、という論争好きの売文屋としての本音である。ケンカというのはやった事ないし、なぐられた経験もない。ただ講演中にビールをひっかけられたり、殺してやるなんて投書をもらう事は日常茶飯事である。空手も評論家の教養のひとつなのではないか、などと思ったりもした。(p.94)

そういう教養は必要ない方向でお願いしたいが、空手は彼の気質に合っていたようだ。

 とにかく、そんな動機で始めた空手だが、やってみてまず思ったのは、非常に論理的であるという事だ。個人教授をしてくださっている前田先生(六十五kg級世界チャンプ・全空連五段のあの、前田利明なのだ)の指導がよいのか、一動作、一動作が、常に論理的な裏付けを持っている事がわかる。最もロスの少ない方法で、相手を的確に倒す、それが見事に空手の形として完成されている。理屈に合わない動作はなく、無駄もないのだ。(p.94)

ここで名前が出される前田利明氏は、明空義塾塾長と同一人物と思われる。

続けて渋谷陽一は、空手には(彼が恐れていた)不毛な精神主義がなくきわめて合理的であり、そして有段者の形が美しいことを指摘している。もっとも後半については、読者からたしなめられている。

 そう言えば、この本の読者の中にもロック・ファンが居るらしく、僕がNHKでやってる番組へ投書をくれた人が居る。
 毎月読んでいるこの本をパラパラとめくっていると、どこか見た事のある顔が奇妙なスタイルで空手をやってる写真がある。記事のタイトルを見ると、渋谷陽一の空手いきあたりばったりとあり、思わず椅子からずり落ちたそうである。
 それはそうだろう、空手と渋谷陽一という取り合わせは、手術台の上におけるミシンとコウモリ傘の出合い以上にシュールである。第一回目の原稿についての感想も書いてくれて、入門者のくせに形について云々しない方がいいと忠告してくれた。(pp.96-97)

最後の忠告に笑ってしまったが、そういえば「ミシンとコウモリ傘の~」というフレーズ、最近あまり聞きませんね(参考:デペイズマン)。

ロックミュージシャンで空手をやっている人として、EL&Pカール・パーマーについて、レコード会社の担当ディレクター氏の話として、「限りなくて下手で、結局昇段できなかったらしい」と書いている。これがどういう経緯か本人に伝わり、抗議とともに「来日の際にはお手合わせを」みたいなメッセージがきて焦った、という話を後の著書(渋松対談の本かな?)で読んだ覚えがある。

空手とロックといえばこの人、ストラングラーズのジャン・ジャック・バーネルにももちろん触れられる。

 ヨーロッパ支部で黒帯を取っているので自信満々に日本にやって来た。とにかく体はデカいし、力にも自信がある。意気ようようと極真の道場へやって来て、あっという間にアバラを折られてしまった。
 その後、僕は彼にインタビューをしたが、極真の道場でコテンパンにやられた事によって人生観が変ったそうである。それまで力で負けた経験がなかっただけに、人生観が一八十度、転換してしまったのだそうだ。
(中略)
 以来、彼は暴力は無効だというイデオロギーに転向したようだが、やはり本当に強くなるには暴力の無効性を学習しなければならないのかもしれない。(pp.98-99)

それにしても、腹筋百回、足あげ腹筋五十回、側筋六十回、背筋五十回、拳立て二十回、それに柔軟体操が「準備体操」というのはハードである。渋谷陽一も最初の頃はこれをこなすだけでボロボロになったようだが、それも最初の数回だけで、急速に体が順応していったというのに驚く。

 家に帰ってからも、整理体操だとか言って腹筋をやって見せ、カミさんを不気味がらせたりする。(p.100)

渋谷陽一はこの連載で、空手のイメージを向上させ、もっと多くの人に空手をやってもらい、空手仲間を増やすにはどうしたらよいかというのを考えて書いており、連載当時公開された映画『少林寺』のヒットに期待しているのに時代を感じる。

そのように空手の形の美しさ、指導の論理性に感服しても、現実には思うように上達しないのを嘆いているあたり、共感できる情けなさがある。

 前田空手塾において僕はかなり出席率のいい生徒である。週二回の練習に対し、六十%から七十%の率で出席している。一回の練習時間は二時間から二時間半。世間一般の常識からすれば立派なものだ。それを一年間やっているのだからそれなりの進歩があってしかるべきである。
 しかし、はっきり言って、それはほとんど進歩らしい進歩ではない。
「渋谷さんも十年やれば黒帯になれるよ。」という一緒にやってる有段者の言葉は、はげましというよりは、僕に早くやめた方がいいという忠告に聞こえる。(p.115)

ワタシはこの連載のリアルタイムの読者でないので正確には知らないが、この後、確か腰か背中を痛めて渋谷陽一は空手を止めていたはずである。

AI企業がオープンソースという言葉を都合よく利用する「オープンウォッシング」の問題をNew York Timesも取り上げる

www.nytimes.com

一部の AI 企業が「オープンソース」の看板をユルユルに使っていることに対する批判を取り上げた記事だが、まさにワタシが WirelessWire News 連載このブログで以前に取り上げた問題ですね。

オープンソース AI の支持者たちは、その方が社会にとってより公平で安全だと言うが、一方で反対者たちは悪意をもって悪用される可能性が高いと言う。この議論にはひとつ大きな問題がある。オープンソース AI が正味のところ何なのか合意された定義が存在しないのだ。それに AI 企業を――「オープンソース」という言葉を使って自分たちを不誠実にもよく見せようとする――「オープンウォッシング(openwashing)」と非難する声もある(オープンウォッシングという非難は、オープンソースの看板をあまりにも緩く使ったコーディングプロジェクトに向けられたことがある)。

ようやくこの問題が New York Times くらいのメディアにも取り上げられるようになったのかと思うが、オープンソースソフトウェアは誰でも複製や変更が可能だが、AI モデルの構築にはソースコード以上のものが必要という理由にもきちんと触れている。

Linux Fundation も「オープンウォッシング」の言葉を使って以下のように意見表明していたのね。

この「オープンウォッシング」の傾向は、オープン性――調査、複製、共同の前進を可能にする知識の自由な共有――の前提そのものをむしばむ恐れがある。その危険性を軽減しながら、AI の計り知れない可能性を実現するには、AI モデルの開発ライフサイクルのすべての段階を通して真のオープン性が必要である。

そして、例によって OSI によるオープンソース AI の定義策定の動きについて触れているが、記事の最後には David Gray Widder など真のオープンソース AIが可能か疑っている関係者が多いことが書かれている。まぁ、難しいよね。

ネタ元は Slashdot

静的ウェブサイト作成ガイドは個人サイト再興に資するか

www.staticguide.org

Markdown Guide の著者として知られるテクニカルライターMatt Cone が、HTML と CSS、そして何より Hugo の静的サイトジェネレータを使って静的なウェブサイトを作成するガイドを書いている。

要は、このサイトの記述に従えば、スクラッチからウェブサイトを構築するプロセスを経験でき、ウェブサイトがどんなもので、そこでどんなテクノロジーが動いているか理解できるというわけだ。

やはり、「静的ウェブサイト」というのがポイントだろう。著者自身、Introduction でその理由を説明している。

Static Site Guide が静的ウェブサイトだけを対象とするのは、静的なウェブサイトこそ大多数の人にとって最適な選択肢だと思うからだ。静的なウェブサイトで、ブログ、企業マーケティングのウェブサイト、個人用やプロ用のポートフォリオなどを作成できる。WordPress や商用ウェブサイト構築サービスを使って動的ウェブサイトを作ることにした場合でも、静的なウェブサイトがどのように動くか知るのは、より良い動的ウェブサイトを構築する助けとなりうる。

こういうガイドが作られるあたりに、ワタシも「WEIRDでいこう! もしくは、我々は生成的で開かれたウェブを取り戻せるか」で書いた個人サイト再興の動きとのつながりを感じるのである。

このサイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 ライセンス(コードには MIT ライセンス)が指定されているので、どなたか日本語訳やってみませんか?

ネタ元は Pluralistic

カズオ・イシグロの新刊はジャズシンガーのステイシー・ケントに提供した歌詞集

カズオ・イシグロFacebook で彼の新刊 The Summer We Crossed Europe in the Rain を知る。

小説ではなく、ジャズシンガーのステイシー・ケントに提供した歌詞を集めたものとな。

Bianca Bagnarelli によるイラストもオシャレですな。

カズオ・イシグロStacey Kent に歌詞を書いている話は何かで読んでいた覚えがあるが、世界的に成功している小説家で歌詞も書いている人というと意外に浮かばない。

この本に収録されている全曲ではないが、カズオ・イシグロがステイシー・ケントに歌詞を提供した楽曲のプレイリストも作られている。

「こいつ映画撮ったことあんのかよ?」――映画『メガロポリス』制作時の『地獄の黙示録』にも劣らない混乱ぶり

www.theguardian.com

第77回カンヌ国際映画祭でワールドプレミアが行われた、1億2000万ドルの私財をなげうち、構想40年を経て完成したフランシス・フォード・コッポラ監督の新作『Megalopolis』はかなりの怪作、というか端的にいえば失敗作らしいが、Guardian にその制作模様を取材した記事が公開されている。

コッポラの映画制作にまつわる混乱というと『地獄の黙示録』がよく知られており、後にドキュメンタリー『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』(asin:B01LTHLC86)が作られたくらい(これの共同監督にクレジットされているエレノア・コッポラ先月亡くなっている)。

この記事でも『地獄の黙示録』の話を最初に持ってくるあたり、同じくカンヌ国際映画祭でデビューする『メガロポリス』が、どのような評価を得るか掴みかねている感じだが、『地獄の黙示録』にも負けない制作にまつわる混乱があったことを示唆している。

アダム・ドライバーをはじめとするキャストは、この映画での経験を肯定的に語っているそうだが、あるスタッフによると、この映画の制作は、「来る日も来る日も、毎週毎週、列車事故が起きているのを見ているようで、そこにいる皆がその列車事故を避けようと懸命に努力している感じだった」そうな。

メガロポリス』については、上にも書いた構想40年、製作費1億2000万ドルというのがよく言われるが、脚本の書き直し300回というのも気が遠くなる。

シャイア・ラブーフなどコッポラと揉めたキャストもいるし、ミーティングをやるたびにアイデアが変わるというコッポラの即興的な演出と、SF 映画なので必然となる現代のデジタルな映画制作手法とのかみ合わせの悪さに苛立ちを覚えるスタッフもいた。クルーやキャストを待たせたまま、何時間もトレーラーでマリファナを吸い、出てきても指示が意味不明で、時間ばかりが無駄になったこともあったという。

あるクルー曰く、「こんなことを言うとヘンに聞こえるけど、『こいつ映画撮ったことあんのかよ?』と全員が立ち尽くしたことが何度もあった」。

しまいには2022年の12月、16週にわたる撮影の中盤あたりで、視覚効果チームと美術チームのほとんどが解雇されるか自分から辞めたという。

他にもいろいろ書かれているが、この映画制作の現場を『リービング・ラスベガス』で知られるマイク・フィギスがカメラをまわしてメイキングが撮られているようなので、それこそ『ハート・オブ・ダークネス』のようなドキュメンタリーが何年後かに公開されるかもしれない。

とにかく混乱に満ちた制作現場だったというのは分かったが、今のワタシが思うのは、「コッポラの『メガロポリス』が駄作と言われるたびに、むしろ必見の映画だと思えてくる」という記事タイトルがすべてだったりする。

コッポラには素晴らしい映画をいくつもみせてもらった。自分の人生をさらに2時間あまり彼のために差し出すのはなんでもないことだ。

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