Kenny Dalglish
スコットランド代表歴のある元サッカー選手
フルネーム : Kenneth Mathieson Dalglish (ケネス・マティソン・ダルグリッシュ)
生年月日 : 1951年3月4日
出身地 : Glasgow, Scotland (グラスゴー、スコットランド)
身長・体重 : 173cm・72kg ※現役時代
ポジション : FW (ストライカー)
ニックネーム : King Kenny
1985〜91 : リヴァプールFC (イングランド) ※1985年5月30日〜1990年5月の間は選手兼任、1991年2月22日に辞任
1991〜95 : ブラックバーン・ローヴァーズFC (イングランド) ※1991年10月12日〜1995年6月25日に辞任
1997〜98 : ニューカッスル・ユナイテッドFC (イングランド) ※1997年1月14日〜1998年8月27日に解任
2000 : セルティックFC ※2000年2月10日〜6月1日に契約解除
2011〜12 : リヴァプールFC (イングランド) ※2011年1月8日〜2012年5月16日に解任
102試合・30得点代表デビュー戦 : 1971年11月10日ベルギー戦
出場・得点 : 102試合・30得点
1984年12月、英国王室 (クイーン・エリザベス2世) より大英帝国勲章勲5等 (Members of the Order of the British Empire, MBE) を授与される。このため名前の最後に MBE の称号が付く (Kenneth Mathieson Dalglish MBE)。
リヴァプールFCの1970年代後半から1980年代の栄光を支えた選手の1人。173cmと体格には恵まれなかったものの、瞬発力・ボールコントロールともに非凡で、どんな体勢からでも枠内に飛ばす技術を持つ天性のストライカー。スコットランド1部リーグとイングランド1部リーグの得点王を両方獲得した最初の選手。
スコットランド代表ではFIFAワールドカップに3大会 (1974年・1978年・1982年) に出場し、代表102試合出場と30得点は国内記録。
1967年に16歳でセルティックFCの下部組織に入団。ファーストチームデビューは、1968年のスコティッシュ・リーグカップ準々決勝 ハミルトン・アカデミカルFC (Hamilton Academical Football Club)。しかし、その後2・3年に出場機会がほとんどなかった。転機は1971年5月の慈善試合 (benefit match) キルマーノックFC (Kilmarnock Football Club) で6得点を奪い、1971-72シーズンからレギュラーに定着する。在籍した1976-77シーズンまで4度のリーグ優勝・4度のカップ制覇に貢献した。
1977年の夏、イングランドのリヴァプールFCの中心選手だったケヴィン・キーガン (Kevin Keegan) が西ドイツのハンブルガーSV (Hamburger Sport-Verein) へ移籍したため、その後釜としてリヴァプールFCに入団した。その1977-78シーズンの最後の試合、ロンドンのウェンブリー・スタジアム (Wembley Stadium) でのUEFAチャンピオンズカップ決勝 クラブ・ブリュージュKV (Club Brugge KV) 戦で決勝ゴールを決め 1-0 勝利し、UEFAチャンピオンズカップ連覇に貢献した。
その後、1984-85シーズンまで2度の国内リーグ得点王の個人タイトルをはじめ、国内リーグ5回・フットボールリーグカップ4回・UEFAチャンピオンズカップ3回優勝に貢献。
しかし1984-85シーズン最後の試合となった1985年5月29日のUEFAチャンピオンズカップ決勝 ユヴェントスFC (Juvsntus F.C.) の舞台であるベルギーの首都ブリュッセルのヘイゼル・スタジアム (Stade du Heysel / Heizel Stadion) で、大惨事ヘイゼルの悲劇を目の当たりにした (結果は 1-0 でユヴェントスFCが優勝)。
ヘイゼルの悲劇がおこった翌日 (1984-85 UEFAチャンピオンズカップ決勝の翌日) の1985年5月30日、監督のジョー・フェイガン (Joe Fagan) がヘイゼルの悲劇の責任をとり退団。後任にケニー・ダルグリッシュがプレーイングマネージャー (選手兼監督) として就任。UEFAはヘイゼルの悲劇の罰則として 「イングランドのサッカークラブに無期限のヨーロッパカップ戦の出場停止 (後にリヴァプールFCは7年間、その他のイングランドのサッカークラブは5年間に軽減される)」 という重い処罰を受けた張本人のクラブとしての再出発を、クラブ側はケニー・ダルグリッシュに託した。
その1985-86シーズン、ヨーロッパへの道は閉ざされているものの、ダルグリッシュ率いるリヴァプールFCは国内リーグとFAカップの2冠を達成した。翌1986-87シーズンは無冠に終わったが、1987-88シーズンには国内リーグを優勝しダルグリッシュ体制になってもリヴァプールFCは安定した強さを誇っていた。
1988-89シーズン、再びリヴァプールFCに悲劇が襲う。1989年4月15日、イングランド・シェフィールド (Sheffield) のシェフィールド・ウェンズデーFC (Sheffield Wednesday F.C.) のホームスタジアムであるヒルズボロ (Hillsborough Stadium) で行われたFAカップ準決勝 ノッティンガム・フォレストFC (Nottingham Forest F.C.) 対 リヴァプールFC (Liverpool F.C.) 戦でおこったヒルズボロの悲劇 (Hillsborough disaster) を、今度ダルグリッシュは監督の立場で目の当たりにした。このヒルズボロの悲劇の犠牲者への複雑な思いの中、リヴァプールFCはFAカップを制覇した。
1989-90シーズンは国内リーグに優勝したものの、ダルグリッシュはこのシーズンを最後に (監督してクラブに残るが) 選手としての現役を引退する。そして1991年2月22日、ヒルズボロの悲劇のショックは大きかったのか体調不良を理由に監督を辞任した。
1991年10月12日、当時2部リーグに所属していたブラックバーン・ローヴァーズFCの監督に就任。この1991-92シーズンを6位で終え昇格プレイオフでレスター・シティFCに勝利し、1966年以来の1部リーグ昇格を決めた。
そして1994-95シーズン、アラン・シアラー (Alan Shearer) やクリス・サットン (Chris Sutton) を擁したブラックバーン・ローヴァーズをダルグリッシュはプレミアリーグ優勝へと導いた。マンチェスター・ユナイテッドFCとの壮絶な優勝争い。最終節でブラックバーン・ローヴァーズの優勝を決めカップを掲げた場所は、皮肉にもダルグリッシュが選手としても監督としても黄金期を築いたリヴァプールFCの本拠地アンフィールドだった。そして約1か月後の6月にブラックバーン・ローヴァーズのフットボールダイレクター (football director) に就任するも、翌1995-96シーズン終了後に退団した。
1997年1月14日、3年半の契約でニューカッスル・ユナイテッドFCの監督に就任したが、翌1988年8月に成績不振を理由に解任。2000年2月10日には古巣のセルティックFCの監督に就任するも6月1日に契約を解除され、それ以降監督業に就くことはしばらくなかった。
2009年7月、ダルグリッシュは当時リヴァプールFCの監督だったラファエル・ベニテス (Rafael Benítez) の誘いを受け、リヴァプールFCのクラブアンバサダー (club's ambassador) に就任し、主にユースアカデミーの面倒をみることとなった。2010年6月、ラファエル・ベニテスがリヴァプールFCを退団したあと、ファンやメディアなどは 「ダルグリッシュが第1後任候補」 と思っていたが、2011年8月8日にクラブ側はフラムFC (Fulham F.C.) をUEFAヨーロッパリーグ準優勝に導いたロイ・ホジソン (Roy Hodgson) を監督に招聘した。
だが、2010-11シーズンのリヴァプールFCは不安定な状態が続き、ファンも監督を見放しかけた2011年1月8日、クラブはロイ・ホジソンの解任とケニー・ダルグリッシュのシーズン終了までの暫定ながらも再びリヴァプールFCの監督就任を発表。そして同年5月12日にクラブと3年契約を結び正式に監督に就任した。
しかし2011-12シーズン、フットボールリーグカップを制覇するがプレミアリーグは8位と低迷。この責任をとり2012年5月に監督を解任された。