1943年1月3日、ミシシッピ州ハティスバーク生まれ。幼少の頃よりMGMの子役としてはやくもショウ・ビズ界で活躍。カーネギー工科大学に進学するもドロップアウトしカリフォルニアへ向かう。'64年、シングル“Come To The Sunshine”でデビュー。その後テリー・メルチャ-の紹介によりブライアン・ウィルソンとの運命的な出会いを果たす。その頃ブライアンが構想中のプロジェクト、『ダム・エンジェル』に作詞家として招かれる。ブライアン曰く「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー、アメリカ史への壮大なるトリップとユーモア」というコンセプトを持った後に『SMiLE』と呼ばれるこのアルバムに、ヴァン・ダイクはベトナム戦争で揺れる当時のアメリカの状況を踏まえ、アメリカという国の構造そのものへの懐疑心を難解ながら深遠な歌詞に変えて提供した。しかしビーチボーイズの他のメンバーとの軋轢やドラッグなど様々な問題を抱えたブライアンの精神状態は次第に不安定になっていき、アルバムは棚上げとなってしまう。失意のヴァン・ダイクはレニー・ワロンカーの誘いによりワーナー・ブラザーズに入社、そこで初のソロアルバム『ソング・サイクル』を発表。前後してハーパース・ビザール、モージョ・メン、ボー・ブラメルズなどのアルバムに関わり、『SMiLE』プロジェクトの精神を引き継いだサウンド作りやアメリカ再発見のテーマを内方したこれらの作品群は“バーバンク・サウンド”と呼ばれ語られるようになる。その名も『ディスカヴァー・アメリカ』というセカンド・ソロアルバムを発表した'72年、レコーディングでLAを訪れた日本のグループ、はっぴいえんどのレコーディングに関わり、“さよならアメリカ、さよならニッポン”を制作。細野晴臣、大滝詠一らメンバーのその後の活動に大いなる影響を与える。その後も『ヤンキー・リーパー('75)』『ジャンプ!!('84)』『東京ローズ('89)』とアルバムを発表、'88年には初来日し、細野晴臣と再会、共演を果たし2005年現在まで3度の来日公演を成功させる。'95年にはブライアン・ウィルソンとの共同アルバム『オレンジ・クレイト・アート』を発表。『SMiLE』の亡霊を葬ったかに思えたが2004年、健康と音楽的意欲を取り戻したブライアンは『SMiLE』の制作を再び開始、ヴァン・ダイクも作詞家として新たに何曲かの詞を書き下ろし、アルバムは37年の時を経て完成、世界中で賞賛されたことは記憶に新しい。