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仰木彬

(スポーツ)
おおぎあきら

「名将」と称えられるプロ野球指導者。

右投右打、ポジションは投手→二塁手。背番号は42→5→71→72→70番。

1935年4月29日、福岡県生まれ。
東筑高を経て、1954年に西鉄ライオンズに投手として入団。1年目に二塁手に転向し、活躍。中西太、豊田泰光、稲尾和久らと共に黄金時代のメンバーに名を連ねる。

1968年、現役引退。

1970年、三原脩に招聘され、近鉄バファローズのコーチに就任。

1987年、近鉄バファローズの監督に就任。

1998年、プロ野球史上に残るロッテオリオンズとの10.19ダブルヘッダーを指揮した。

1989年、西武包囲網を敢行、いてまえ打線を率いて、10年ぶりのパ・リーグ優勝に導く。西武ライオンズの連覇を4で止め、黄金時代を打破した。

1991年、退団。

退団後はNHK解説者を務めた。
1994年、オリックス・ブルーウェーブの2代目監督に就任。
1995年、パ・リーグ優勝。

1996年には、監督として自身初の日本一に輝く。
2001年、監督を辞任。大阪近鉄バファローズとの最終戦では、両球団の選手に胴上げされた。

退団後は朝日放送の野球解説者の側ら、マスターズリーグ・福岡ドンタクズのコーチを務めた。


2004年、野球殿堂入り。

2005年、球団合併に伴い誕生したオリックス・バファローズ初代監督に就任。

同年、監督を勇退。シニアアドバイザーとして球団に残るが、12月15日、肺がんのため福岡市内の病院で逝去。

監督通算988勝815敗53分。

功績

西鉄時代の恩師・三原脩の薫陶を受けた名采配は「仰木マジック」と呼ばれるようになる。
近鉄時代、1988年の“昭和最後の名勝負”「10.19ダブルヘッダー」と、その翌年のリーグ優勝が名場面として多くのファンの記憶に残っている。
またオリックス時代、1995年のキャッチフレーズ“がんばろうKOBE”を掲げてのリーグ優勝と翌年の日本一は、阪神・淡路大震災で被災した神戸の街を大いに勇気付けた。
鈴木一朗(イチロー)の才能を見出し、育成したことでも知られる。

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