正徳3年1月18日。先給先請の廻文がある。翌日から一の鳥井のあたりで操りが行われる。演者は豊竹源大夫、多賀権大夫、三弦は竹沢三糸。この日、長屋六左衛門が師役の誓いをする。昨年冬に長屋竹之亟の後見を仰せ付けられていた。近頃、夕方に禅寺町大工の行方がわからなくなる。
宝永7年1月6日。先給先請の廻文がある。
宝永5年12月30日。先給先請の廻文が来る。近頃、西新町東側大道寺駿河守同心坂崎伝五右衛門が逐電する。これは坂崎諸悦の甥で三弦引佐右衛門の甥でもあった。少し前、六曜星下ということを人が言い流行らせる。(後略)今年の秋から冬にかけて疹がとても流行り、諸国でも同様だった。これは珍しいことであった。しかし文左衛門の家では召仕にいたるまで一人も疹を煩った者はなかった。その上、瘧痢病(コレラ)ももちろん同様であった。今年、我が家に医師が来ることはなく、薬代もかからなかった。幸いなことであった。
宝永5年1月12日。先給先請の廻文が来る。 小川勘右衛門が庄右衛門を探し出すためこの日に尾張を発ち、江戸へと向かう。家財には封が付けられ路金もないので、小舅の御園町十一屋と平家(琵琶?)を証文にして金を借り、路用(旅費)として遣わす。
元禄14年12月16日。年季の奉公人を先給先請で来年も雇うようにと廻文がある。廻文は先と同じなので略す。
正徳1年12月27日。建中寺など歳暮の御目見がある。25日の日付、目付林文四郎の名で先給先請の廻文がある。近頃のことだろうか、竹内無遊の子勇寅が内室から15両ずつ金を下されると云々。腰の廻り(小刀を用いる柔術)の師であった。50ばかりの髪を調えた良い男だった。4、5年前のことか、妹聟子千ものが勇虎の七間町の借宅へやってきて切ろうとするのをかえって討ち留めた。手際が良かったと云々。
宝永8年1月6日。文左衛門は巳(午前9時)頃、稽古初に源太左へ出かける。沢井仁左衛門の先給先請の廻文がある。