人間を生かし育てる10の守護。 天理教では、この世は、親神の身体であって、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に充ちているとしている。そして、その恵は、有りとあらゆるものの生命の源であり、すべての現象の元である。つまり、私たちの命はいうに及ばず、天地自然の間に行われる法則、人間社会における秩序など、ことごとく、親神の守護によるのである。 その守護の理は、これに、神名を配して、説きわけられている*1。
*1:http://www.tenrikyo.or.jp/ja/teaching/teach/provid.html
石造り甘露台 寿命薬 甘露がふる 中山みき 凡そ人として自分の生命が、一日でも長く此の世にある様に、願はぬ人はないのであります。死を望んいる仏教の信者でも、さて今死なねばならぬ時は、必ず死を恐れて医者に治癒せられんことを欲するのであります。これは単に人間ばかりではなく、生物全体が有する本能であります。それならこそ虫でも獣でも、死を恐れて逃げ走るのであります。 斯様な訳でありますから、もしここに人間の生命が、確かに全うせられる、即ち百十五歳の定命が与えれるという様な事が、事実の上に現れて来たならば、誰一人としてそれを欲せぬ者はないのであります。必ず我先にと走って、その薬を得んと欲するのは、病院へ…
そこで人間は外に向かって居る眼を内に転じて、その心の底にある鏡に映る自分の姿を見なければならぬのであります。左様すると人々が、表でしている事の裏は、どういう事であるかと云う事が、明らかに分かって来るのであります。すると神様が人間を御覧になって居るのは、こう云うものであるなと云う、神の心がひとり会得出来てくるものであります。 それでお道はその暗の世界に這入って行かねばならぬので、此の道を一寸聞いた人は、お道はとは大変にむつかしい道の様に思うのであります。なぜなら此の信仰に這入る道は、極く/\細い道であって、人間の一切をなげ捨てて、唯本心即ち真実だけの心にならなければ、その間が通れないからでありま…
人間の眼と云うものは妙なもので、暗い所からは明るい所がよく見えまするが、明るい所からは暗い所が中々見えないものであります。日中に都会の小路を通りますると、簾でもつるしてあると、外から内の様子は少しも分からぬのでありますが、夜は家の内へ電灯が灯りますから、内からと外は見えませぬけれども、外から家の内はよく分かるものであります。 所で人間はお互いにこうした明るい世界に生れ出して頂いて居るのでありますから、此の世の事即ち眼で見える事については、何から何まで分かるのでありますが、此の世と云う部屋の外の事になると、何一つ分かって居ないのであります。従って形の無い神様が、どう云うものであるやら、いかなる働…
人間自身の知って居る事は云う迄もなく、自分で思うたか思わぬか分からぬ様な事までも、神様には分かっているのであります。又人間が自分がして忘れてしもうて居ることでも、神様には分かって居るのであります。 例えば人間が人に対して、悪意を持ってしまった事なら、自分のした事は分かって居りますが、左様した悪意を持たずにした事、例えは自分の性質が非常に頑固であるとか、怒り易いとか云う性質の為に、家内の者が苦しんだとか、親族の人が困ったと云う様な事があります。左様した事は自分で意識してした事ではありませんから、悪い事をしたなどと思う人は沢山ありません。然るに神様は左様した事まで御承知になっている、時が来たなら身…
お互人間に取って、最も厭な恐ろしいものは、何でもあると云へば、それは云う迄もなく死ぬことであります。そして又此の死ぬと云う事は、人間は必ず最後に出合はねばならぬものであります。然るに多くの人は、其の死と云う事については、別段深く考えないのであります。そして一日々々と日を送っているのであります。 所が其の死と云うものは、人間が普思うている程、遠い所にあるのではありません。ほんの手近な生きる隣に居るのであります。故に人間が思わぬ時に、ふとやっと来て人々を驚かすのであります。 それで人間は何とかして、死の近づかん様にと防いで、それに対し色々の準備もするのでありますが、死は却って逃げる者を意地悪く、追…
こうして神様の御心に適う様に、懴悔をしたならば勇みが出て来ます。すれば神様の御心に添うて働かして頂く様になりますから、心が何時も喜び勇んで来るのであります。それを御神楽歌に、いつまで信心したとても、ようきづくめである程に、と仰せられたのであります。 尚この理を人間に、親子の上について考えましたら、親の云う事を聞いて、親を喜ばすものは心が勇んで来るのであります。そこで又用を親が云いつける。それを果たすから子は悦べる。こうして両方から悦んで通ったら、何時迄も心安く暮らして行けるのであります。 然るにその反対に、親が用を云いつけても、自分勝手な事ばかりして居て、その用を捨てて置くと、親は叱るより外は…
一軒の家に於て、其の主人公たる者が、不愉快な顔をして居たならば、家族の者は決して心の勇むものではありません。主人が面白そうな気持ちで暮らして居るのと、一家の者の心持ちよく暮らせます。是から考へますと、家族として自分が日々勇んで通ろうと思うたならば、その主人公を勇まして通ると云う事が、自分の勇み喜んで通る元であります。 この道理は単に一軒の内に於てのみではありません。人間と神様との関係に於ても同じことであります。自分が如何に喜ぼうと思うても、神様が御勇み下さらなかったら、勇むことが出来ないのでのあります。故に世の中は喜んで通のが、何より身の為になると云う事を知って居りましても、神様を喜ばす事に依…
そこで此の変り目と云うのは、御教祖が信徒を色々試しにもかけ、手入れも仕込みもして御出になったのが、今度は大体の人出も出来て来た所から、世界の人々を助ける為に、御働きになろうと云う様に変わって来たのを、仰せられたのであります。 そこで道筋の理が変わるについて、一列は心定めよと仰せられるのは、今申したように神様の思召が変わって来たのであるから、其の神様の思召に思うように、又其の方面に一心に働く心を定めよと仰せられたのであります。斯く神様の思召通りに通るので道であります。だから、神様の思召に添わないことをしては、いくら働いても無駄になりますから、其所で先にこうして神様が、お知らせ下されたのであります…
神様のお道と云うのは、決して変わるものではありません。理は末代と仰せられた如く、天の理と云うものは変らぬのが天の理であります。然るに道が変わると仰せられたのは、道そのものが変わる云う意味ではありません。道そのものは変わるもではなく、通る道すがらが変わると仰せられたのであります。 例えて申しますれば、人間が一筋の道を歩くのと同じでありまして、道そのものは昨日歩いた道も、今日歩く道も変化のない道ではありますが、歩けば歩いただけ、其の周囲の景色が変わって来ます。同じ一筋の道の中にも、山道になって通り悪い様な道もあれば、野原を横ぎって行く様な道もあり、林の中を通る様な道もあります。けれどもそれは道すが…
しからば、神様の思し召しというのは、どういうのであるかと申しますると、一寸考えたらこの道は、病助けの様に思われるのでありますが、この道は決して病助けのみの道ではありません。病気を助けというのは、一つの方便でありまして、真の神様の思し召しというのは、真実の人の心に人の心を立て替えさせて、この世を治められるのであります。 こういうと何だかこの道が、世界でも取る様に思われますが、神様のこの世の治め方は、左様いうのではありません。各人の心を立て替えさせて、各自自ら気を付けて争いなきようにして治められるのであります。それは丁度大祭に世界から多くの人が集まって来ますが、その中に警察事故が無いのに依っても知…