弘治元年(天文24年)(1555年)10月1日 (旧暦) に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦のこと。
天文20年に大内義隆を討ち、大内氏の実権を握った陶晴賢と対立するに至っていた毛利元就はこの年に厳島の宮尾に城(宮尾城)を築く。これは厳島が周防国 周防から安芸へ水運を利用する際に重要な位置を占めており、そこに城を築くことで水運路を扼することを狙ったものだったが、同時に晴賢の軍を厳島に誘引するいわば囮の役割も果たした。
陶氏被官。陶隆房(晴賢)に仕えた。官途名は市佑、のちに佐渡守か。天文年間に陶氏の奉行人や東福寺領得地保の代官を務めている。厳島合戦で陶晴賢の身代わりとなって討死した柿並佐渡入道と同一人物の可能性がある。 陶氏の得地保代官 大寧寺の変と厳島合戦 その後の柿並氏 参考文献 陶氏の得地保代官 天文年間、賀藤左近将監に対し「毛利掃部允房継」と「柿並市佑房友」が連署で文書を発給している(「譜録」阿曽沼内記秀明)。毛利房継は天文十九年(1550)まで周防国佐波郡得地保*1代官であり、天文年間には陶氏奉行人としても活動している。房継と連署している柿並房友も陶氏の被官であり奉行人であったとみられ、実名の「房友…
広島城二の丸で、「KAGURA夜市」やっていました。 ぷらりと訪ねました広島城です。 Ⅰ部とⅡ部の合間の表御門からの様子です。 テントの中には、大蛇(おろち)も、 いよいよ、 陽も落ち始めますと、琴庄神楽団の「土蜘蛛」です。 卜部季武(うらべすえたけ)、坂田金時(さかたのきんとき)は、激しい戦いの末、源頼光を毒殺しようとした土蜘蛛を討ち取ります。 (金太郎、頑張れ~!) 続いて、 吉田神楽団の「厳島合戦」です。 毛利元就と毛利隆元です。 陶晴賢との戦いの厳島合戦で、 最期は陶晴賢あっぱれな最期でした。 久々の神楽でした。 囃子の音を聞くと気持ちがウキウキします。 それに、 二の丸の太鼓櫓がとて…
広島県廿日市市の極楽寺の住職さんから、毛利元就によるお寺の再興で実際に施工されたのは宍戸氏とお伺いしまして、 地図を検索しますと、 広島市佐伯区海老山に宍戸氏館跡があることがわかりました。 子供の頃から地名だけは知っていました海老山、と言いましても海老園と記憶しています。 海老を「えび」ではなくて「かいろう」と読みます。 JR山陽本線の五日市駅で降りまして、南口に出て国道2号線を下りますと5~6分も歩けばこんもりと左側(海側)に小高い山が見えます。 海老山です。 少しわかりにくいのですけど、石段があり上りますと、 宍戸氏館跡の掲示板があります。 毛利氏の家臣でした安芸宍戸氏は、陶氏との合戦に備…
旭山神社は、毛利元就とも縁の深いところです。 神社にあります表示板、 旭山の神社の沿革より 《旭日にちなみ旭山とする》 弘治元年(1555年)10月朔日、毛利元就が陶晴賢と厳島にて合戦の折、 元就、郡山より出陣の道すがら、此の社に打ち上り戦勝祈願するまさにその時に、東天より旭日の昇り来るのを見て縁起よいことだとして初めて旭山八幡宮と称された。 また松山も旭山というようになったと申し伝えられてきた。 とあります。 どの辺りから昇り始めたんですかね。 毛利元就の時代もまだ広島市は一面海です。 今では決して見ることのできない旭日ですね。 主君大内義隆に反旗を翻し義隆を討った陶晴賢。 厳島合戦、陶軍二…