第五回内国勧業博覧会への台湾としての参加が決まり、台湾総督府、台湾協会はその成功を目指して日々、努力を重ねていた。しかし、後藤新平が最も頭を痛めていたのが肝心の台湾漢人達の無関心さであった。 その様な状況の中、賀田金三郎が中心となり、1902(明治35 )年10 月 に内台人有志によって設立され、台湾協会大阪支部の補助も受け「台湾協賛会」を設立した。 台湾協賛会は、「第五回勧業博覧会は、新領土の真相をあまねく中外に紹介すべき絶好の機会なり。しかし、本島風気未だ開かず、産業未だ進まず、一般島民未だ博覧会の何物たるかを知らざる者が多し」とし、この問題を解決すべく、出品支援や経費補助、観覧者の勧誘や…