中国の清朝第四代皇帝。姓は愛新覚羅、名は玄菀。諡は仁皇帝、廟号は聖祖。
1654年生、1722年没。在位は1661年から1722年。
順治帝の第三子。8歳で即位した。当初は重臣四人の輔政をうけたが、その中でもとくに権力を振るったオーバイを退けて康熙六(1667)年に15歳で親政をはじめる。
康熙二十(1681)年に雲南王呉三桂・広東王尚可喜・福建王耿精忠が康熙十二(1673)年から反乱していたもの(三藩の乱)を鎮圧。また二年後には鄭経*1病没後の台湾を攻略、領有した。
また北方においては、アルバジン城をロシアから康熙二十四(1685)年に奪還、索額図(ソエト)を派遣して康熙二十八(1689)年にロシアのピョートル1世とネルチンスク条約を締結。
全モンゴル統一をめざすジュンガル部の族長ガルダンにも大打撃を与え、外モンゴル・青海を領域に加えた。
内政面では、宦官政治を改めて長く放置されていた遭運を整備し、黄河の治水に努めた。また、康熙五十一(1712)年以後は増加した人丁を盛世滋丁人丁として永久に加賦しないこととして、地丁併徴への道を開く。
文字の獄、と呼ばれる清朝や皇帝を侮辱する文章を書いた文人への苛烈な弾圧の一方で、大編纂事業を進め、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『古今図書集成』などの編纂や、とくに朱子学には傾倒して『朱子全書』『性理大全』も編纂させた。
清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
*1:鄭成功の長子。耿精忠の求めに応じ、三藩の乱が起こると清朝への攻撃を行った。