御館の乱(おたてのらん)
1578年、上杉謙信急死後、家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で起り、越後を二分した内乱。景勝は謙信の葬儀が終わると春日山城を占拠。景虎派は上杉憲政の居館である御館に入り対抗した。武田勝頼は、景虎支援のために侵攻を開始したが、景勝の贈賄工作により同盟を結び和睦。北条氏政も弟景虎支援のために侵攻したが御館にはたどり着けなかった。景虎は孤立無援となり、景勝方の総攻撃により御館は陥落した。景虎は自害した。
上杉謙信の養子として家督を継ぎ、豊臣政権の五大老、のちに米沢藩初代藩主となった上杉景勝。 寡黙で「義」を重んじ、強者にも屈しなかったその生き様は、いまも多くの戦国ファンを惹きつけています。 そこで本記事では、上杉景勝が登場したすべての大河ドラマ作品を紹介! 演じた歴代俳優の一覧や、各作品での描かれ方もまとめて解説します! NHK大河ドラマで放送された上杉景勝の登場作品一覧(1969年〜2023年) 上杉景勝を演じた歴代俳優一覧【全9作品・11名】 複数回、上杉景勝を演じた俳優 上杉景勝を1度だけ演じた俳優一覧 幼少期・青年期で俳優が分かれるケース 俳優ごとの起用傾向と演技スタイル 上杉景勝が主…
今回のポイント ・手取川の合戦で柴田勝家率いる4万の軍勢を2万の兵力で完膚なきまで粉砕し「織田軍は案外手弱」と書き残した謙信だが、その半年後に突然脳卒中で死亡する。・謙信は亡くなった後、遺言に従って遺体は甲冑を付けて甕に収めて城内の不識院に安置、そのままミイラになったという。・高野山の清浄心院で最近謙信にまつわる文書が多数見つかっており、それによって謙信は空海にかなり傾倒していたことが明らかになっており、またここで見つかった謙信の肖像画は鎧兜を身に着けたものであり、これが死後の姿ではと推測している。・空海は最後に奥の院に入定し、その後そこで永遠に生きているとされている。空海を崇拝していた謙信は…
北条勢による坂戸城攻略は失敗し、成すことなく関東に軍を返してしまいます。景虎にしてみれば、これで来年の雪解けまでは援軍の期待はできなくなったのです。状況はようやくにして、景勝に有利になりました。 10月24日、勢いに乗った景勝勢は春日山城から出撃します。御館からは北条(きたじょう)景広と本庄秀綱が出撃、これを迎え討ちますが、100人余りが討ち取られ、旗指物まで遺棄して退却という有様。以降、景虎は御館に逼塞することになります。 景勝にしてみれば、このまま御館を攻めたいところでしたが、手持ちの兵が絶対的に足りません。そこで御館の補給線を断つべく、琵琶島城方面の攻勢を強めます。琵琶島城は鵜川を通じて…
御館(おたて)において6000の兵を集めた景虎。一方の景勝は城を占拠したはいいものの多勢に無勢、撃って出ることができません。 5月17日、景虎勢は遂に春日山城に向けて進撃を始めます。大将である桃井伊豆守率いる軍勢は全く抵抗を受けることなく、春日山城の千貫門まで達しました。しかしここで景勝勢の待ち伏せに会い、手ひどい反撃を受けるのでした。 戦いがあった「千貫門」は現在の大手道にはなく、搦め手にあたる道にあります。実は戦国期には、この搦め手が大手道として使用されていたようなのです。春日山が廃城になったのは1607年ですが、今ある大手道はそれまでのどこか、1580~1607年の間に新たに造成されたと…
1578年5月、ついに両者の間で戦端が開かれます。上杉家は景勝派と景虎派に真っ二つに割れ、国中で争い始めたのでした。 上杉家中の武将たちや越後の国衆らは、何を拠り所にしてそれぞれの陣営に味方したのでしょうか。双方の陣容を見てみましょう。 まず景勝の利点は何といっても、その血筋になります。由緒正しい上田長尾家を率いる身であり、家格という点ではその資格は十分にあります。しかし利点といえばそれくらいで、数多くの問題を抱えていました。 まず第一に、前記事で紹介したように中央集権志向であったこと。一国を率いる指導者としては、全くもって正しい思考なのですが、既得権益を侵されるのを恐れた多くの家臣たちがこれ…
1578年3月9日に倒れた謙信は、意識が戻らないまま4日後の13日に死亡してしまいました。謙信は前年の9月23日に「手取川の戦い」で織田家の北陸方面軍を率いる柴田勝家を撃破しています。今年は雪解けを待って新たに軍を起こし、上洛ないしは関東平定の遠征を行おうとしていた矢先でした。 当然のことながら遠征は中止、すぐに葬儀が行われました。出棺の際は、その左右を景勝・景虎らが固めており、この時点では上下の区別なく葬送の儀が行われていたことが分かります。 この後の流れですが、まずは通説の紹介から。 葬儀の後の24日前後、景勝がクーデターのような形で本城を占拠、金蔵を確保します。翌々5月に入り、各所で小競…
北条家が無断で武田家と和睦したことを聞いた謙信は激怒、氏政に手切れの一礼を送りつけました。 その怒りたるや凄まじく、同盟破棄の5年後の1576年のことになりますが、将軍・足利義昭が(彼の生きがいである)第三次信長包囲網を更に強化するために、改めて上杉・武田・北条の「三和統一」進めたことがあります。 その時、謙信は「上意であれば武田との和睦には応じよう。しかし北条とは当家が滅亡しようが、将軍に勘当されようが、絶対にありえない」と言って断っています(包囲網自体は成立)。このように謙信は筋の通らない、つまりは「己の価値観に反する振舞い」を最も嫌う人でした。 その怒りの矛先は、氏政の実弟である景虎にも…
リアルが忙しく、なかなか更新できなくなってしまいました。いましばらく旅行記が続くので、お付き合いいただければ。話を春日山城に戻します。 登城ルートを辿っていくと、本城部分に到達します。まずは三の丸です。三の丸→二の丸→本丸と段々畑のような配置になっているんですね。 地図上の案内には、三の丸に「上杉三郎景虎屋敷」とありますが、当然建物は残っていません。今回取り上げる「御館の乱」の主人公になります。 歩いてみて思ったのですが、この春日山城、防御施設としては優秀かもしれませんが、何だか粗野というか、洗練された造りになっていないような印象です。上杉氏の城はそんなに多く見ていないのですが、築城センスはそ…
新装版 天地人 上 天の巻【電子書籍】[ 火坂雅志 ]価格: 503 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 越後魚沼郡に生まれた樋口与六兼続は、上田衆として同郷の上杉喜平次景勝を主君として仕えていた。跡取りがなかった上杉謙信は、甥の景勝を養子に迎えると言うが、謙信には既に北条氏康の七男で美男子と評判の上杉三郎景虎が養子となっている。その謙信は突如脳卒中で倒れ、後継者を指名しないまま49歳で亡くなってしまった。これにより「御館の乱」と呼ばれる家督争いが勃発する。 三郎景虎は生家の北条家と、同盟を結ぶ武田家の両家の支援を背景に、家中で勢力を伸ばしていく。兼続は不利な局面を打開するため、信長に敗れ焦って…
春日山城本丸跡からの眺め。眼下に頚城平野がよく見えました。謙信公がおられた頃はどのような景色が広がっていたのでしょう~ 今年もあと一週間となりました。 年々時間の経つのが早く感じます。 思ったとき、できるときにやっておくことが大切なのかな…。 後でやろうと思っても、きっとやることはないのだろうなぁ…。 ふとそのようなことを思ったりします。 旅も同じですね。行けるときに行っておくのが一番! これまで旅した場所を思い出すと、今なら果たして行けただろうか…と考えたり…。 行こうかどうしようかな…と、そんな風に迷ったときはやはりGO!ですね。 今回の旅の思い出は、前回のこちらの旅の続きをご紹介します。…