数学を通して人間形成を行う、教科教育学の1部門である。
人間形成を目的とする営みである以上、数学と教育の中間的存在あるいは合併と考えるのは望ましくない。あくまで「数学教育」という独自の学問体系を確立したものとして存在している。
数学教育界に限らないことであるが,実際には,教育学者,心理学者などによって提唱された所説について,適当な実証を得ないまま,教育の現場ではそれに形式的に振りまわされていることが少なくない。
このような面に関して,教育学,心理学と数学といった,いわゆる専門の学問だけではすまない,「数学教育学」といった教科教育学の果たすべき分野と役割があるといってよい。
出典:中島健三(1982)『算数・数学教育と数学的な考え方 <第二版>,金子書房,p.112
しかしながら,数学教育学は,決してこのような学問的純粋性だけに安住しえない実践学である。時には心理性によって論理のくずされることも覚悟しなくてはならない場面もあろう。数学教育学は,不安定な人間の知的生長過程と密着して構成されねばならないからである。
出典:平林一榮(1987)『数学教育の活動主義的展開』,東洋館出版社,p.31
おそらく,すべての理論の相対性をもっともよく承知しているものは,数学者とくに数学基礎論学者であろう。一見絶対的な論理的斉合性の上に立脚しているかのごとくみえる数学も,その基盤は決して絶対的なものではない。すべての理論は,その根底において循環論的であり,おそらく数学の自由性もこのことの認識から生まれると思われる。数学教育学も,いくら気張ってみたところで,その理論的斉合性のスコープは数学に及ばない。それだけに,その展開においては,現実的妥当性,功利性が率直に求められねばならないし,それが実践学としての数学教育学の性格であろうと思う。
こうした数学教育学の相対性は,数学教育の研究を既成の数学的体系の教育学的成分と心得ている限り,それほど明確には眼に映じないであろう。しかし,数学を人間の活動性と把え,その分析をもって数学教育学の使命とみるならば,この学の相対性はしばしば大きく眼に映るであろう。われわれにとって重要なことは,大胆に,そして率直にこの相対性をみとめ,そして可能な限りにおいて健全な基盤を確保するようにつとめることではないであろうか。
出典:平林一榮(1987)『数学教育の活動主義的展開』,東洋館出版社,p.32-33