餓鬼道に落ちた亡者にたいして、食べ物をそなえお経を唱え法要を行う。
たいていお盆に付会して行う、仏教の教義と日本の民俗風習の合体したもので、各寺院で行われる。 浄土真宗を除いて仏教の各宗派でおこなわれる。
川施餓鬼
正徳4年7月21日。兵庫は江戸へ出発する。本寿院様から入仏事・施餓鬼が行われる。今朝明け方の寅半(午前4時)、檀歴が建中寺に入る。水が出たための逗留であった。6日に江戸へ出発していた。江戸へ出発した時は御先手安藤甚左衛門が品川まで送り届けた。道中は御足軽5人が附き従った。当地では大塩岡右衛門が熱田まで迎えに出向いた。かや(萱屋)町観音院呑応は貞松院様のひろい子だと云々。門前の町屋に滝川又左衛門悉皆人天野八郎右衛門の妻が住んでいた。呑応はこれと関係を持ち、子どもが生まれた。内密にねだって金を取り、弟子坊主とした。13の時に江戸へ逃げ出し、学問をおさめた。これが檀歴であった。母は存命でかや(萱屋)…
「施餓鬼」(せがき)とは、 「お盆」の時期に、先祖供養とともに 行われることの多い仏教行事のひとつです。 「施餓鬼」(せがき)とは 水の子 施餓鬼の由来 施餓鬼の行われる時期 「施餓鬼」(せがき)とは 「施餓鬼」は、「施餓鬼会」 (せがきえ) の略称で、 先祖供養を兼ねて行われている仏教行事です。 「施餓鬼」の「餓鬼」(がき)とは、 供養をされずこの世を彷徨っている無縁仏や 生前の欲深さの為に 死後に「餓鬼道」(がきどう) に堕ちた 霊や魂のことを言い、 この「餓鬼」(がき) 達は、常に、飢えと渇きに 苦しめられると言われています。 「施餓鬼」とは、「施餓鬼供養」として 「餓鬼」達にも 水や食…
正徳3年12月7日。四十九日の法事・二百部が終わる。瑞祥院様・本寿院様の入仏事・各施餓鬼が申半(午後4時)過ぎに終わる。名代は隼人正が長袴で勤める。斉谷は升の値段を上げるか、さもなくば他へ仰せ付け下さるようにとの願いを7月前から出していたところ、この日申し渡しがあり、1升舛は1匁5分上り5匁となり、斗舛は6匁8分5厘上り22匁6分となる。1升は初め3匁5分、斗舛は初め15匁7分5厘であった。
正徳3年11月29日。六七日の施餓鬼が行われ、名代は周防守が勤める。
正徳3年11月18日。行赦3人がある。名代を肥前守が襲衣冠(晴着用の衣冠)で勤める。九条様からの使者は信濃少路淡路守が勤める。加賀守殿・伊東大和守殿よりも使者がある。初月忌の施餓鬼が行われる。
正徳3年11月16日。梅昌院様から施餓鬼が行われる。
正徳3年11月15日。万五郎様から御施餓鬼が行われる。廟への家督の名代を靭負殿が勤める。本堂へは名代周防殿が大紋で勤める。四十七日の名代は特になし。入仏が終わり、渡辺備中守よりの使者村上舎人がやって来る。文左衛門は役料米6斗6升5合を売払う。7両と520文。
正徳3年11月14日。安房守様から施餓鬼が行われる。この日、石碑が建つ。
正徳3年11月13日。本寿院様から施餓鬼が行われる。通厳院様の廟の用務を御普請奉行2人と津田平次右衛門に建中寺で仰せ付けられる。五十人小頭ならびに平組が江戸へこの日戻る。
正徳3年9月8日。六十七日法事・施餓鬼が巳刻(午前9時)に始まる。名代肥前殿が終わり、梅昌院様(徳川綱誠側室)が参詣し、入仏事が行われる。何れも退出の後、本堂でひそかに左衛門殿より施餓鬼が行われる。僧たちには内緒だから話すなと云々。明日朝は重陽の祝儀ではなく、家督の祝儀として袴で頭へ出向くようにとの小頭からの廻文がある。隼人正・飛騨守同心衆は麻上下で9日に家督の祝儀に出向く。長良村の免は去年より5厘高で申し付ける。日蓮宗法花寺町浄蓮寺は御側坊主誰やらの兄であった。やがて30石の寺領が貰えるはずであった。浄土宗南寺町法花寺は三輪七左衛門の弟であった。隆正寺は守崎の菩提所であった。高岳院の東遍照院…