1 清河八郎の大赦の建白出羽国田川郡清川村(山形県庄内町清川・括弧内は以後も筆者の注記)の郷士清河八郎(本名・斎藤元治)は、醇乎たる尊王攘夷論者であった。文久元年(1861)春には、尊王攘夷党「虎尾の会」を結成し、横浜の異人街を焼き討ち、幕府を攘夷の実行に追い込もうとした。しかし、同年5月、清河自身が町人を斬殺したこともあって、この画策は頓挫した。その後の清河は、その年の冬には京都に上って田中河内介(綏猷)と謀議し、九州を遊説して再度の攘夷挙兵を企てたが、これも翌年4月の寺田屋事件で水疱に帰することとなった。 関西での攘夷挙兵を断念した清河八郎は、今度は水戸の浪士を奮起させて横浜を焼き討つため…