永嘉の乱(えいかのらん)
中国,西晋の末永嘉年間(307年〜312年)に起こった匈奴による乱。後漢末以来匈奴の華北移住が行われていたが,八王の乱に乗じて304年劉淵が自立し,その子劉聡は311年に西晋の都洛陽を攻略,その部下石勒も河南,山東で晋軍を破り,316年西晋の愍帝は劉曜に降伏して西晋が滅び,翌年江南に東晋が建国することになった。
後漢末期〜三国時代という混乱した中国を再統一した西晋王朝ですが、2代目の恵帝の時に早くも瓦解を迎えます。その原因となったのが八王の乱と永嘉の乱の勃発です。 前者は司馬一族の権力闘争、後者はそれに乗じた五胡と言われる異民族の侵攻と説明されます。 ○八王の乱 後漢は外戚政治と宦官によって衰退の道を辿りましたが、西晋もまた外戚によってその滅亡の契機が作られました。暗愚な恵帝を補佐する形で皇太后の一族である楊氏が専制を行いますが、これに反発した恵帝の皇后賈氏は皇族の汝南王亮と楚王瑋の力を借りこれを排除します。ここまではいいのですが、賈氏はこの二王さらには皇太子までも殺害してしまったために朝野は反発。趙…
Wikipediaの知識のみで三国時代の小説を書いてみようという試みです。 第一弾として三國志の於夫羅(於扶羅,オフラ)とその子孫たちを取り上げます。 なお★の付いた人物は『真・三國無双シリーズ』(第8作目までに)で固有グラフィックを持つプレイアブルな人物なので,それだけ有名だと思って下さい。 ========== (1)匈奴と南匈奴 中国の北方に匈奴という遊牧民族がありました。 戦国時代には趙の李牧が匈奴の侵攻から国境を守り,秦統一(前221年)後,始皇帝は蒙恬を派遣して匈奴を討伐(前215年),また長城の建設を始めます(前214年) ja.wikipedia.org 前209年には冒頓単于…
三国時代から隋の中国統一までは魏晋南北朝時代と言われる分裂時代である。桓温はそのうちの東晋の武将、政治家だった。 桓温は17歳の時に父を韓晃により殺された。 韓晃は東晋に反乱を起こして討ち取られたが、桓温の父の殺害に加担していた江播は罰せられることなく生きながらえていた。 桓温は仇討ちを誓ったが、江播はしんでしまった。 江播の3人の子が喪に服していたが、桓温は弔問客になりすまし江播の子らを殺した。 桓温はこの仇討ちで世間の称賛を浴び、父の爵位を継ぎ、皇帝明帝の娘を妻として次第に出世していった。皇帝の外戚で荊州刺史の庾翼は桓温を高く評価し、明帝に対し、桓温は人並の待遇でなく国家の大役を任せるよう…
西晋の建国者司馬炎は、中国の歴史の中でも人気のない人物だろう。 司馬炎の祖父で諸葛孔明の好敵手だった司馬懿仲達が、クーデターにより三国魏の権臣となって西晋の基礎を築き、司馬炎の父の司馬昭が蜀を滅ぼしていた。司馬炎が天下を統一したといっても、呉1国を滅ぼしたにすぎない。 司馬炎は天下統一後政治への興味を失い、女色に耽った。 5000人の女子を後宮に入れ、さらに呉の滅亡後に呉の後宮の5000人、合わせて10000人の宮女を収容する後宮を建設。司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に乗り後宮を回った。羊が止まったところで、司馬炎は1夜と共にするのである。 宮女達は、自室の前に笹の葉を挿し、塩を盛って皇帝の車が…
前回の記事では355年第16代仁徳天皇の頃、百済人から鷹狩りが伝えられたと書きました。 4世紀当時の東アジア事情から百済人が日本に来た理由を考察してみます。
Wikipedia の三国志関連の記事を読んで英語・英単語の勉強をしていきます。「孫堅」に続き第13回は「楊奉」です。 en.wikipedia.org 楊奉(Yang Feng,?年-197年) Yang Feng was a leader of the White Wave Bandits. Later, he became a subordinate of Li Jue. In 192, Li Jue, Guo Si and other former followers of the warlord Dong Zhuo banded together and attacked the H…
前回までは殷から漢にかけて中国を解説してきました。今回からは、この間(約1500年間)に登場した北方遊牧民について、晋が建国される直前までの動きを解説していきます。ここでは前回までに少し登場した匈奴や犬戎、そしてゲルマン人の大移動の原因となったフン人などを扱います。 →ギリシアや中国と異なり、遊牧民族は自らの歴史を記述する文化を持っていなかった。そのため、史料で最初に登場するのは紀元前7世紀に台頭したスキタイである。犬戎はスキタイと同時期に鎬京に侵入した。 →スキタイは紀元前4世紀ごろにスキタイ文化を形成し、動物文様の武器などが作られた。また、このころ陰山山脈周辺では匈奴(きょうど)が台頭し、…
はじめに 今年の国立大学の入試問題を解答し、次年度の受験生のヒントにしたいと考えます。 今回は大阪大学です。西洋史や東洋史という枠を超えた「グローバルヒストリー」を提唱した草分けで、移動や交流に関する出題と文化に関する出題が特徴です。 また中の人が歴史総合や共通テストにコミットしているようで、今年の問題は旧課程でありながら「歴史総合」の用語がフライング出題されていました(後述)。 解答例は正解ではありません。著作権はぶんぶんにあります。 *解答例作成の方針 受験生と同じく何も見ないで解答する。ただし途中でお茶を飲んだりトイレに行ったりはする(ルール違反) 解答を作ったら、受験生がアクセスできる…
はじめに 今年の国立大学の入試問題を解答し、次年度の受験生のヒントにしたいと考えます。 今回は京都大学です。Ⅰ・Ⅲが論述で計40点、Ⅱ・Ⅳが一問一答(小論述含む)で計60点の構成です。Ⅱ・Ⅳは南斗水鳥拳で瞬殺し、Ⅰ・Ⅲに時間を使いたいです。 解答例は正解ではありません。著作権はぶんぶんにあります。 *解答例作成の方針 受験生と同じく何も見ないで解答する。ただし途中でお茶を飲んだりトイレに行ったりはする(ルール違反) 解答を作ったら、受験生がアクセスできる教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、参考書(詳説世界史研究)でウラを取る(イカサマ) 仕上げに河…
五 遊牧民族の時代Ⅰ (1)遊牧諸民族と五胡十六国 中国史において北方及び西方の遊牧諸民族の果たした役割は、極めて大きなものがある。大きく俯瞰して、三国時代に続く五胡十六国時代以降モンゴル帝国版図に中原が組み込まれた元の時代までのおよそ千年間の中国史を主導したのは遊牧諸民族だったと言っても過言でない。 その遊牧民族の時代の先駆けとなったのが、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの有力遊牧民族が華北で割拠した五胡十六国時代である。五胡十六国時代の始まりは、304年の前趙の建国に見るのが通常である。 魏の重臣・司馬炎が建てた晋(西晋)は三国時代の分裂を止揚して漢人系統一国家の樹立にいったんは成功したが、間…
中国の中央集権国家の出現により、道家はその思想を桃源郷に追いやった - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」 で紹介した陶淵明の『桃花源記』の武陵郡(現在の湖南省北部、湖北省南部、貴州省東部、重慶市東南部、広西チワン族自治区北東部にまたがる地域)は、客家の居住地域でもある。客家は中国の河北地方に住んでいた人々が、戦乱などにより南に移り住んだ人々である。だから桃源郷の物語は、客家の物語でもある。 客家中国南部への移動は、5つの段階がある。最初は秦(紀元前221年~紀元前206年)の始皇帝の時代、第2段階が西晋(265年~316年年)の八王の乱、永嘉の乱の頃、第3段階が唐(618年~907年)末…
しま:さて、今日はまず三国時代[220~280年]です!中国が魏・蜀・呉の三国に分割されているから三国時代ね! 生徒:なるほど!よく聞く三国志! しま:まずは、それぞれの都と建国者を確認! 魏…都)洛陽 建国者)曹丕 蜀…都)成都 建国者)劉備 呉…都)建業 建国者)孫権 でね、三国時代ってのは主に魏と蜀の戦いなんですよ。例えば234年の五丈原の戦い。これ、魏の宰相である司馬仲達vs蜀の宰相である諸葛孔明のバトルです!で、この諸葛孔明が天才なんですよ。うかつに攻められない。ってことで兵糧攻めにしていたら、いつの間にか城壁の中に田んぼをつくっちゃったりもするんです。ね、変態でしょ? 生徒:いや天…