1882〜1969。作家、ジャーナリスト。群馬県生れ。
早大英文科卒。「東京朝日」「やまと新聞」「早稲田文学」などに、随筆、翻訳、書評、小説をさかんに発表。個人雑誌「ゆもりすと」「古人今人」を発行、諷刺的文章を多く残した。 特に「古人今人」は、正木ひろしの「近きより」とともに、戦時下における抵抗的な個人雑誌として知られている。
中公文庫から自伝的著作「明治大正見聞史」。
失態である。 前々から予定されていた明治神宮の鎮座祭――竣工したての御社(みやしろ)に、明治大帝の御霊を招く何より大事な神道儀式――の当日に、よりにもよって表参道の地面の一部が陥没したのだ。 五十万もの参拝客が文字通り殺到した所為でもあろうが、これほど不面目なことはない。 大正九年十一月一日のことだった。 (Wikipediaより、明治神宮・社殿全景) 当時に於いて明治大帝が如何に崇敬の的だったかは、これはちょっと筆にも舌にも尽くせない。崩御のその日、二重橋に駆けつけた楚人冠の記録から、わずかにその一端を窺い知れる。 嗚呼其の時の光景、悲惨といはんも足らず、凄愴と評せんも古きを覚ゆ。あの広い石…
青雲の志やみがたく。富山県西部、草ぶかい西砺波郡の田舎から大谷米太郎が念願の上京を遂げたのは、明治四十五年四月二十四日のことだった。 懐は寂しい。十銭銀貨が二枚入っているだけに過ぎない。 むろん銀行預金などある筈もなく、正真正銘、これが彼の全財産に相違なかった。 (Wikipediaより、十銭銀貨) 齢三十一にもなって、これはなんということであろう。彼の半分も生きていない学生の月の小遣いにさえ、あるいは劣るのではなかろうか。 学生といえば、大谷はろくに学校へも通っていない。物心ついたときにはもう小作人として働きに出され、汗と泥に塗れていた。 貧農の家に生まれた者の、どうしようもない現実である。…