島津氏の覇権をめぐる分家の争いは、相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)父子が薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(さねひさ)を圧倒した。天文8年(1539年)、島津貴久(相州家)が実質的に薩摩・大隅の太守となった。 rekishikomugae.net だが、島津貴久が平定したのは薩摩国の中南部のみ。薩摩国北部や大隅国の領主たちは素直に従わないのである。激闘は続く! その実態は下剋上 13人衆、生別府城を囲む 生別府城を放棄、本田薫親と和睦 鉄砲伝来 伊東義祐の台頭 豊州家と北郷氏が、島津貴久を認める なお、記事中の日付は旧暦で記す。 rekishikomuga…