70〜80年代のプロ野球、中日ドラゴンズの選手。
左投左打、ポジションは外野手。背番号は3→40番。
1951年4月26日生まれ。静岡県出身。
中央大学で活躍。「東都の安打製造機」と呼ばれた。
1974年、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
チャンスに強い好打者として「右の江藤、左の藤波」と言われた。
特に下手投げ投手には滅法強く4割以上の打率を残し、新人王獲得。
1977年、高木守道の後釜として基満男を獲得する目的で、クラウンライターライオンズへのトレード宣告。
しかし、断固拒否。ファンの署名も推定だが1万以上集まり、結局、野球協約違反で自費キャンプ参加。
4月7日までの出場停止の処分があったものの、チームに残留。レギュラーおよび背番号を剥奪された。
その後もバットコントロールがうまく、控えの外野手として活躍した。
1987年、現役引退。
現在は東海テレビ野球解説者の傍ら、マスターズリーグ・名古屋エイティディザーズの選手。