やまもにわもうごきいるるやなつざしき 元禄2年(1689)4月4日の作。同年4月3日、芭蕉は下野那須の余瀬に鹿子畑善大夫豊明(俳号 : 翠桃)を訪ねた。その兄・高勝(俳号 : 桃雪)は浄法寺家の養子となり、当時、黒羽藩城代家老であったこともあり、翌日、芭蕉は黒羽城三の丸にある浄法寺図所高勝邸に招かれた。掲句はその際に詠まれたものである。 顧みれば、桃雪と翠桃の父・鹿子畑左内高明も家老職にあったが、「給人騒動」という内紛の責任を取って江戸に隠棲していた時期があり、その際に桃雪と翠桃は江戸にあった芭蕉の門人となった。それぞれ十六、十五歳の頃である。 それから十二年後、鹿子畑家は帰藩し一族は藩の要職…