藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

規制の力学(1)

*[ウェブ進化論]規制している側。

昨年のことだが、警察庁が「生活道路はすべて法定速度を30キロにするという見直し」をしているという記事を目にした。

今の規制では60キロ制限のところがあり、重大な事故がなくならないからだという。

自分はもう20年以上前から、知り合いに「経済の利益と損失」について事あるごとに質問しているのだが、未だに確かな回答には行き当たらない。

 

例えば最近は都心では網羅されつつある「駅のホームドア」も、事業者がそれぞれ百億円単位の費用をかけて設置しているというが、その設置根拠は今ひとつ曖昧で「特に事故の多い場所に設置する」と言うわけではないらしい。

 

2023年は交通事故の死者数は減少気味だが2600人あまりが亡くなっている。昭和45年の17000人に比べれば少ないけれど、これからも千人単位の犠牲者が出るのは間違いないだろう。

日本ではイギリスの赤旗法(自動車導入の反対運動に対して"制限速度と人力による先導義務"を課した業界保護の措置)はなかったけれど、どうも「政治が国民に阿り過ぎる」のでは無いだろうか。

 

いろんな実施すべき規制も、「業界団体の圧力」で骨抜きになるし、発案する当の政治家も選挙を意識して自粛してしまうものなのだ。

(つづき)

 

 

仕事はタダの時代(4)

*[ウェブ進化論]

人がしていた手間仕事が今後急速に機械化されて、

もうこれまでのように「食べるための労働」が必要なくなる時代がいずれやってくる可能性は高いと思う。

 

そうなると「AIに仕事を奪われる」といったみみっちい思考ではなく、ようやく「自分たちは何がしたいか、何がして欲しいのか」というお金の呪縛から解放される世界になりそうだ。

昨日も書いたけれど、この過去のトラウマは「これまで一万年以上」も続いていた常識だからなかなか脱色するのには時間がかかるかもしれないが、それもあと数十年のことだろう。

 

サービスの提供原則が「手数料や対価が得られることが最優先ではなくなる」のなら、ようやく自分たちは「本来の生き方とか本来の生活」について落ち着いて考えられる時代になるだろう。

「富というフィーバー」から醒めることができれば、今まだなくならない争いごとは極端に減っていく時代になると思う。

 

自分は、最も進む日本の"少子高齢化"は、そんな次世代のお手本になり得るのではないかと思っている。

元々「和」を中心としたり、競争よりも安定を志向する性質があるようだから素地は整っていると言えるだろう。

いち早く機械化を進め、貧困を根絶して「経済成長より安定」をテーマにできれば「全く新しい規範の国」が出来上がるのではないだろうか。

 

ちょっとそんなことに期待しています。

 

 

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仕事はタダの時代(3)

*[ウェブ進化論]中心が変わる。

紀元前一万年前頃から始まったという農耕。

労働が「食べるための獲物を得るため」という常識はこの頃から変わったという。

それまでの狩猟生活と違い「食糧の貯蔵」が可能になったからだ。

 

それまでは「獲って食べるだけ」だったものが「財産」に見られるようになったのだ。

そしてそれから一万年あまり。

自分たちはこの「財産(お金)」に翻弄されている。

 

特に製造業とはかなり違い、サービス業では「何かたくさん手数料が取れるもの」という観点が主流になっている。

故に「お金を払ってもらえることは?」ということが話の中心なのだ。

ビジネスモデルという言葉が流通し出したのは二十年くらい前だと思うが、この頃から「手数料の取り方」こそが話題の中心になってきた。

まだ二十代のコンサルタントが「それではビジネスモデルを聞かせてください」という会話には何とも言えない違和感を覚えたものだった。

 

それ以来、垂直モデル(内製化)とか広告モデル(Google)とか、プラットフォーム型(ゲーム)とか「何でも手数料をどこで取るのか」ということに皆が躍起になっていたと思う。

そしてこれからだ。

手数料を稼ぐようなサービスは、どんどん機械化され、さらにAIが学習していく時代になっている。

 

自分は、そろそろ「手数料が取れるのかどうか」という観点を脱皮して「本当に必要とさせているかどうか」がテーマになる時代に入るのだと感じている。

(つづく)

仕事はタダの時代(2)

*[ウェブ進化論]仕事=稼ぐ、ではなくなる。

これまではずっと、製造業も流通業もサービス業も「人手の仕事がお金になる」という時代だった。

大規模に機械化されて何万倍ものレバレッジが効いたとしても、人手×機械の組み合わせが成立していた。

つまり自分たちは「手間仕事をすること」でお金を稼ぎ、巨大なサプライチェーンの中で暮らしていたということだ。

 

それがこれからはどうも「極端な自動化の時代」になるだろう。

つまり「時給で人を雇うよりも、明らかに機械のコストが安い時代」の到来である。

機械とソフトウェアのコストが"閾値"を超えて下がり始めているから、「ほとんどの手間仕事」は機械で代替される時代がすぐそこに来ていると思う。

 

例外的なことや複雑な判断(これも怪しいものだが)のためだけに人が配置され、「街中からは人の姿が消えてしまう」時代の"自分たちの仕事"は一体どんなものになるのかを想像してみたい。

もう「手間」とか「対価」という概念はあまり関係なさそうだ。

つまり「自分の仕事が何か合理的な役に立っているのかどうか」という時代ではなく。

 

「人の心に嬉しい」とか「傷ついた感情が和らぐ」とかいう"人の機械以外への期待"がこれからの人の仕事になるのではないだろうか。

フェイスtoフェイスのコミュニケーション、などが期待されるのだろう。

 

そしてそんなコミュニケーションさえもさらに機械化が検討されていくだろう。

仕事はタダの時代(1)

*[ウェブ進化論]少し先の未来。

いつの時代も。

そして今のように技術革新がめちゃくちゃ早い時代でも、実際の変化というのは自分たちの 目にはかなり「ゆっくり」に映るものだ。

自分の記憶しているところだけでも、ワープロからパソコンへとか、記憶媒体のフロッピーがクラウドに変わるとか、携帯電話の登場から「総スマホ時代」になったとか。

どの変化も「目の当たりにしていた」はずだが、「ただそれを呆然と見ていた」というのが正直な実感である。

50年前と比べると自動化や機械化で人手の仕事はずい分と減っているようだが、今のところは「さらに人がやる仕事に再割り当て」されているような感じだ。

(昔は人がいなかったようなところに警備員がいるとか)

 

そしてこれからのAIソフトによる自動化も、自分たちは「あっという間」に感じて過ぎてゆくのだと思う。

なので少し先を予想してみたい。

すでにサービス業などを中心に人から機械へ、人からネットへ、という流れは相当進んでいる。

これからは費用対効果の原理で、実際には「人でなければできない役割」だけが選別されて、ほとんどは"機械とソフト"が代替することになるのは想像に難くない。

 

なので「生活費を稼ぐための仕事」という概念は遠からずなくなると思っておいた方が良いだろう。

(つづく)

 

 

道の探し方(2)

*[ウェブ進化論]経験を優先する。

昨日「失敗のバターンを全て経験すれば、残りは成功になる」という話をした。

自分のこれまでの経験を思い返しても、確かにそうして「頭を打ってきた経験」から得たものは大きい。(というかそれでしかないかも。傷だらけですわ)

 

なので、生きていく上で大事なのはむしろ「広く失敗すること」であり「成功を恐る恐る手探りすること」ではなくなったのだ。

というか、目隠しをするようにビビりながら手探りをしていては時間が勿体無いというものである。

失敗を恐れて恐る恐る進んでいて、そしてある時に「本当の闇」に紛れ込んでしまったら、恐らくそこから動けなくなって立ち尽くしてしまう、というのはこれまでのよくあるパターンである。

 

なので「向こう傷」を恐れずに、むしろ失敗とか恥をかいて活発に行動した方が断然成長は早い。

特に「正解を辿る」というロールモデルが破綻してしまった現在は、「失敗に飛び込む」くらいのつもりでいろんなチャレンジをするのが時代のスタイルなのに違いない。

そして失敗上等で挑戦する若者に、案外周囲は優しいものである。

 

最近の若者は人見知りで摩擦を嫌うと言うけれど、そろそろSNS世代もリアルな活動を始める時期なのではないだろうか。

(つづく)

道の探し方(1)

*[ウェブ進化論]逆から近づく。

SNSや口コミで物が突然売れたりする時代だが、実際のビジネスの現場でも似たようなことがある。

「実績はどのくらいありますか?」という問いのことだ。

相手が大企業だとほぼ例外なく聞かれる質問である。

最近だと「エビデンスは?」とか「ファクトで話してください」などと言われることもある。

 

同様の現象はスタートアップでも往々にして定石であり「製品の実装はこれからです」などと言おうものなら、もうそこでお終いになることがほとんどである。

それはともかく。

 

自分たちに実績とか成果がないのであれば、そのゼロから"1"を作り出すしかない。

そしてそこで重要なのは「マイナスの蓄積」だと思っている。

自分たちは失敗を、つい「ただネガティブなだけの存在」と思いがちだが、実は経験値はどんどん上がっていくものだ。

 

例えば、どんどん営業に行ってどんどん断られると「断られるパターンの蓄積」はひたすら増えてくる。

しばらく継続していると、相手の反応などほぼ確実に100%経験できてしまうものだ。

そうしたらシメたもの。

そしてそこから「成功の道筋」が見えてくるのである。

なぜなら、失敗を全て経験することができたとしたら、残るのは「それ以外」ということになるのだから。

 

差しずめ「失敗探索法」と言っても良いだろう。

成功の方法を手探りするのもいいが、全く反対のやり方もあることに気付こう。

(つづく)

温度差

*[ウェブ進化論]伝えるために。

徳川家康は「人の一生は、緩い上り坂の遠い道を、重荷を背負って行くようなもの」と例えたという。

それってしんどいことばっかりやん。

あんな天下取りがそういう表現をしているということは、人生は教訓的に例えればそういうものなのだ、ということだろう。

さらに「急ぐべからず」とも遺している。

そんな話を学校の入学式とか入社式で聞かされたら、これから社会に出る若者はゲンナリするだろう。

自分もそんな話を聴いて「なんだよ」と思った記憶がある。

 

こういう話は親が子供に対する物言いに近い。

つまり「話し手と受けての意思疎通が途絶」しているのだ。

お互いが誠実に話しているのに、まったく思うように伝わらない、ということが世の中ではしょっちゅうあるものなのだ。

 

そして大事なことは「伝え手が変わらないと断絶は永遠に続くかもしれない」ということだろう。

目上の人たちは、とかく若手に対して「自分の思う正解を伝えよう」とするけれど、それは言われる側にしてみると「突然の苦言」でしかない、と受け取ることが多い。

さらには「自分は別にただ正解を目指して生きているわけではない」などとも思うものだ。

 

そういう年長者の話は、『後日、その若者が大変な苦労をしてからようやく思い出して納得したりするようなもの』なのである。

 

若い人への説教は、実はそのくらい伝わりにくいものなのだと知っておこう。

少しでも

*[ウェブ進化論]飲習慣。

お酒を飲まない人にはハナから関係のない話ですみませぬ。

一人では飲まない、という人もいるし家では一滴も飲みません、という人もいる。

断酒をすれば、これからでも「膨大な自由時間が生まれる」ことは分かっていても一応合法的なこの習慣からはなかなか抜け出せない。

働くために飲むのではない、飲むために働くのだ、と豪語していた先輩のことを思い出す。

それはともかく。

 

そんな自分でも心がけていることがある。

それは「大人数で飲まない」ことだ。

そして「できれば自分以外と飲まない」ということも気を付けている。

理由は「ペースが乱れるから」だ。

もっと言うと飲み過ぎるのである。

 

そして年と共に飲み過ぎは翌日に影響してくる。

深夜まで友人と飲んでいたりすると翌る日はかなり悲惨なことになるのだ。

「飲酒後の回復力」というのはかなり正確な老化のバロメーターになるのではないだろうか。

などと言いつつ60代になった目標の一つに「節酒」を加えたいと思っている。

まだまだ遠い休肝日。

人生を知ることから始まる

*[ウェブ進化論]まずいろんなことを観る。

https://youtu.be/Dynv2ttkaXU?si=HgDbNZRuS5bIm8OV

音楽の道に入るとか、そして音大とかヨーロッパに留学して勉強するとか、もう「一身にして二生を生きる」どころではない経験がネットでできる時代になっている。

これを活用しない手はないだろう。

机上の知識ではあるけれど「当たりをつける」には最高の機会だと思う。

 

ネット以前なら「リアルに会って、そこでウマが合えば話を聞ける」というプロセスはすでにすっ飛んでいる。

形式的な手順を踏む必要がなくなっている、と言っても言いだろう。

本当の「人対人の出会いの機会」というのは無くならないと思うが、"そこに至る無限のチャンス"を提供するのがネットの真骨頂なのだろう。

 

もう「アプリを通じてパートナーと出会う」というやり方は当たり前になっているのを見ても、「これまでのやり方」が時代遅れになっているのかもしれない、ということを年配者こそ問うてみる必要がありそうだ。

 

人の寿命も伸びて、今は人生100年などと言われけれど、それよりも「他人の人生のエッセンス」を知ることのほうがより貴重な機会になるだろう。

 

これからの若者はそんな楽しい体験ができる時代に生きるのではないだろうか。

継続のコツ(2)

*[ウェブ進化論]脳内メモリー常駐の法。🥷

昨日「継続のためには一回の時間を短くすると良い」と書いた。

一方、資格試験の達人に聞いたのだが

「過去問を7-8回みっちり解くと、どんな資格試験も突破できる」と言っていたことを思い出した。

曰く「何度も不正解をする場所を炙り出すこと」が重要なのだという。

 

🧐なるほど。

確かに「もう記憶に定着している部分」を何度もなぞるというのは効率がよろしくなさそうだ。(なぞる、は手で何かを撫でる「爾(あ)ぞる」が語源らしい。むずかしー)

 

それで勉強というよりは、読書のことを思い出したのだが「ハナから最後まで読み切れない本」もあれば「一度読んでお終いの本」もある。

希少なのは「何度も読みたくなる本」のことだ。

自分の場合だと「7つの習慣」とか「次の500年-繁栄に終わりはあるか-」くらいしか思い浮かばないが、こうした本は確かに「何度も読み返しては確認する」ということを7-8回くらいはしているので、ほとんど内容を誦じることができるものだ。

 

つまり「どうしても忘れたくないような内容の本」は"意識して8回読む"ことで「自分の脳内に配備できる」ということになる!

 

その「書籍一冊が丸ごと自分の脳内メモリーに展開される」というのはなかなかすごいことではないだろうか。

 

 

継続のコツ(1)

*[ウェブ進化論]乗り越えるために。

筋肉💪を増強してムキムキになるのが楽しい人ならともかく。

健康維持のための筋トレとかウォーキング🚶などはあまり日々の楽しさを実感するものではない。

そうした「練習」とか「稽古」などの類にはコツがあることに気がついた。

きっかけはコロナ前に受けた資格試験だったのだが、久しぶりの「何かのためのお勉強」はペースが掴めずにかなり苦労したのである。

「予め決まった量」の学習を期限を決めてこなす、というのは社会人になるとあまりない。

仕事や趣味においてはそもそも採点などされないし、また合否の判定などもないからだ。

それはともかく。

 

そうした「ある意味強制的な作業」をテンポ良くこなす方法は"短くする"ことがコツだと気がついたのだ。

毎日、どうしても挑まねばならないと思うと「とっかかり」に時間がかかる。

まあグズグスしてしまうのだ。

 

なので取りかかる時には「長時間」を前提としない。

パッと取り掛かって、そしてパッと止めても構わないことにする。

ともかく「パッと」を重視するのだ。

すると案外まとまった時間続いたりもすることにも気が付いた。

 

そう言えば10年以上続けている「自重筋トレ」も1レッスンがどれも5分以下と、とても短いからこそ続いている。

キーワードは"短くする"、だ。

 

変節前提

*[ウェブ進化論]後追い注意。

自分の社会人時代の価値観の中心は「所有・蓄財・高級」というモノ中心が当たり前だった。

そしてそんな時代がこれからもずっと続くに違いない、とみな本気で思っていたのである。

(だからバブルが生まれたらしい)

 

そしてここ数年もコロナの補助金の影響がまだあったりして、世の中全体はカネ余りという感じのようだが、いずれ「実需に戻る」ということは当たり前に起きると思う。

90年代もその「まとも」をみんなが想像できなかったのだ。

それはともかく。

 

人は「一生の中で価値観が移り変わるものだ」ということを予め知っているかどうかは、実は重要なことである。

自分の中で、時とともに「大事なものとか優先したい事は変わる」のだから、それを予想しておかないと、例えば「最初に良いと思い込んだものが一生絶対的に続く」などという幻想を持ってしまう。

自分の好きなものを所有したりコレクションしたりして、そしてさらに、そのうちそれが自己目的化し、例えば「蓄財とか富の拡大こそ」が最期まで目標になってしまったりすることもあるのだ。

 

自分の目標が勘違いなもなのではないか、という問いは熱中している時ほどしてみる必要があると思う。

まあ熱中しているとなかなかそんなこと考えられないんですが。

余白思考

*[ウェブ進化論]仕事を減らして感じること。

近ごろは休日もずい分増え、働き方も変わって労働時間は相当減っているようだ。

(すでに40年前には月の営業日は20日を切っていたが)

ところが祝休日が増え、長期休暇も取れるようになっているのに、どうも「生活の自由時間」が増えている実感はなかった。

 

物理的には休み時間が増えているのに、精神的にはあまり解放されていないように感じる。

頭が解放されない理由はスマホの普及が原因である。

どこにいても仕事はでき、だからどこにいても休めていないのだ。

そして物理的に仕事や人間関係から離れたところにいても、頭の中ではつい戻ってからのことを考えてしまいがちだ。

それくらい自分たちは「ONとOFFとか、自分だけの時間」という意識から遠のいていると思う。

 

そこで仕事の量を思い切って半分とかに減らしてみると、ようやく「強制的に出来た頭の余白」に気がつくようになった。

日常のタスクに押しつぶされず「本当に何もない時間」を作ってみると、これから読みたい本のことや3年後の計画とか健康のこととかを考えるようになってきた。

日常が忙しいと本当にそれだけで何年、何十年が過ぎてしまう。

 

若い人でも精神の解放を考える必要があるのではないだろうか。

 

小さな出だし

*[ウェブ進化論]0と1の間。

よく「自分には分からないから考えない」という人がいる。

大企業の組織などにはよく見られる省エネ思考だ。

「どうせ自分が考えても変わらない」というのが彼らの言い分だが、当然それでは何も変わらない。

 

そしてそう言えば「結果はどうあれやるかやらないか」という場面で「やらない」という選択をする人は案外多いものだ。

そのココロは失敗したくないから、である。

ところがそういう人は「失敗の先」があることをあまり知らない。

というか「そういう(煩わしそうな)ものからは遠ざかりたい」という人も多い。

 

コツは「変わらないかもしれないけれど、それでもやる」ということに尽きる。

そうして小さな失敗を重ねると何がしかの「経験」というのが溜まってくる。

そしてその小さな経験が、さらに「次の何かへの挑戦」を引き寄せてくるものだ。

 

詰まるところ最初の「小さな行動が未知の何かへとつながる」ということなのだと分かれば

一歩を踏み出して「無駄な何か」をしてみる意味はあるだろう。

 

もしかしたら、それも"余計なこと"になってしまうかもしれないが、「その余計なことをやってみる」ということが新しい道を開く鍵になるのなら"やってみない"という選択肢はないだろう。

 

踏み出す最初の一歩はとても小さい。