「史上最大の殺人事件」は氷山の一角?

(実際にアップロードしたのは8月30日です)


「少年犯罪データベースドア」さんが、「史上最大の殺人事件」として戦艦陸奥の爆沈事件を紹介しておられる。

昭和18年6.8、瀬戸内の連合艦隊基地である柱島泊地にて、停泊中の戦艦陸奥が爆発して一瞬のうちに沈没、乗員1474人のうち1121人が死亡しました。
戦時中の出来事ですが、敵の攻撃による爆沈ではありません。戦争とは関係がなく、これは明らかに殺人です。
事件を詳細に調べ上げた吉村昭陸奥爆沈』を読むと、艦内で窃盗を繰り返していた二等兵曹が、捜査の手が伸びてきたことを察知して火薬庫に忍び込んで火を放ったことは間違いないと思われます。

こうした事例は陸奥だけではなかった。大江志乃夫の『天皇の軍隊』(「昭和の歴史3」、小学館)によれば、「日本の主力艦は太平洋戦争までは、戦争で沈んだものより、爆沈の方が多い」という。例えば日露戦争時の連合艦隊旗艦三笠は、日本海軍の栄光を象徴する船であるはずだが、凱旋大観艦式もすんでいない1905年9月11日、佐世保で爆沈した。原因について異説もあるようだが、大江氏は「上陸を許されなかった古参水兵が酒宴のために盗み出したアルコール容器を弾薬庫通路でたおし、流れたアルコールに火がはいったのが原因」という説を採用している。修理された三笠は1912年10月にも、「照準器の部品を紛失した一水兵が処罰を恐れて火薬に点火」したため爆発事故を起こしたが、砲術長の機転で爆沈は免れた。おなじ1912年には装甲巡洋艦日進が、「進級漏れに不満をもった一下士が火薬庫の鍵を盗んで放火」したため小爆発を起こし、1917年には巡洋戦艦筑波が「上官の制裁をうらんだ一水兵が火薬庫の鍵を盗んで放火したものと推定」される事故で爆沈している。1918年7月には戦艦河内が爆沈。「職務上の失策をした下級士官が火薬庫に放火したのが原因と伝えられ」ているという。


こうしたエピソードを紹介したのは、南京事件否定論者を中心に旧日本軍の軍紀に関して妙にロマンティックな思い入れをもっている人々が少なくないからである。日中戦争以降の日本軍の軍紀の弛緩ぶりは、別段「侵略戦争」に批判的ではない人々によってすら証言されており、「日本軍の軍紀は敗戦まで一貫して厳正だった」と主張する人物がいたとすると、その誠実さを疑わざるを得ないほどである。軍からの支給品を紛失したりすればひどく叱責され制裁を受けるのが厳正な軍紀の一例として紹介されたりするが、人間のやることであるから物品の紛失は必ずある。その場合兵隊はどう対処したか? 別の部隊から盗んで帳尻をあわせたのだ(この「員数」あわせについても、いやというほど証言がある)。旧日本軍を図式的な「悪」として描くことにも私は同意しないが、それ以上に旧日本軍の実態をロマンティックに歪曲することの危険は大きいだろう。


軍隊というのは基本的に「人にやりたくないことを無理矢理やらせる組織」であるから、どの国の軍隊でも程度はともあれ兵士の人権が蹂躙されるという事態は発生する(近年も、ロシア軍におけるいじめが表沙汰になり報道された)。しかし近代軍隊史のなかでも、旧日本軍の兵士(特に初年兵)が受けた抑圧は特筆すべきものであろう。その鬱憤が敵の捕虜や民間人に向けられ(丸山眞男の言う「抑圧移譲」)、また自分が暴力によって兵士を管理していることに過ぎないと自覚している上官も報復(「後ろ弾」)を恐れて制止しない、という状況を招く。


敵よりもまず日本軍自体が日本兵を苦しめる、という事態の背景の一つは、当時の日本の貧しさである。旧日本軍は機械化(自動車化)が著しく遅れていた。言うまでもなく、日本の自動車生産能力が遅れていたためである。排外主義の権化であるはずの陸軍省ですら、大臣の公用車に外国車を使っていた。1939年、時の陸軍自動車学校校長武内少将が「国産車を使うべき」と抗議すると、陸軍省は「大臣は陛下のお供をしますから、そのとき、万一、事故が起きては畏れ多いから、これはやっぱり国産車じゃなくて外国車ですよ」と回答したとのことである(この件、および以降は吉田裕、『日本の軍隊』、岩波新書、199頁以降による)。その結果、歩兵たちは膨大な装備を担いで行軍せねばならなかった。1941年9月の第一次長沙作戦出発時に小銃手が担いだ装備は合計25キロを超え、太平洋戦線では4、50キロに達することもあったという。1937年、第二次上海事変を視察したアメリカの駐在武官は、日本軍の歩兵について次のように観察している。

これらの歩兵部隊の行軍軍紀の奇妙な特徴は、兵士の個人装備を運ぶための手助けとして、ほとんどあらゆる種類の運搬手段を使用していることである。そのような運搬手段の範囲はあらゆるものを含んでいる。すなわち、乳母車から、人力車、倉庫で枠箱を運ぶのに使う、低い二つの取手の付いた荷車〔いわゆる猫車のことか。引用者〕、そして東洋中で使われている人力で引っ張る普通の二輪車まで、である。

人が運べないものは馬に運ばせた。満州事変以降、戦場に投入された馬(現地で徴用したものを含む)は百数十万頭に達するとされ、1944年の時点でそのうち70万頭が“戦死”している。このように、日本軍の兵士にとってはただ行軍することでさえ大きな負担だった。それに輪をかけたのが軍靴の不備で、南京攻略戰では地下足袋をはいて行軍する日本兵も見られたという。南京攻略戦における民間人殺害の一類型として、荷物を運ばせるために拉致してきた民間人(主として農民)が逃げようとしたり用済みになったときに殺害した、というものがある。これについて日本軍の法務官が日記に次のように記している。

甚だしき部隊にありては疲労の為か、支那人を連れ、それに背嚢は勿論、銃、鉄帽までも背負はせ、又その数多数に上り甚だしきは兵の数ほども連れたるを見る。或人曰く百鬼夜行の有様なりと。恰も日本兵の行軍やら支那土民の行列やら区別付かざる感なきにあらず。(中略)その場合、我が兵の命が儘に従はず少しでも拒めば立ち所に遣られ、万一逃げてその辺をうろつけば直に遣られ支那人としては進退これ極まり、結局言はれるままに動かざるを得ざるに至る。

これが軍紀厳正な軍隊であるというのは、悪い冗談であろう。