シートン俗物記

非才無能の俗物オッサンが適当なことを書きます

自滅する地方都市2 理想の街とは?

このエントリーは
自滅する地方都市
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20070328/1175070164
の続きです。


自分のエントリーとしては最多のはてブを頂いて、ちょっとビックリしている。みんなの関心が結構高いのか、それともトラックバックさせて頂いた方々が著名だったからかは判らないが。
その、はてブの中で、気になるコメントを頂いた。


id:caramellyさんの、


>それ、都市なのか?(市なんだろうけど)
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20070328/1175070164
と云う言葉。


まさにその通りであって、ゆえにカッコ付きで「地方都市」と書いたのだった。


志太地域には三市二町があって、それぞれの人口は最大でも12万人。にも関わらず、どの市町も「都市整備事業」が行われている。地方はやたら「地方都市」と名乗りたがるが、地方が「都市」と名乗るのには、多分に問題があると思う。別にバカにしているわけではない。むしろ、逆だ。地方が「都市」と自称し、「都市計画」を立てたがる事に、「都市」(=東京)に対するコンプレックスが窺えるような気がするからである。ただ、市の「都市整備」関係所属職員と話すと、何も考えていないようにも思えるが。


もし、このエントリーを読んでくれた方がいれば、是非、自分の市町村役所へ行ってみるといい、広報用の「都市整備事業計画書」を読むことができる。その計画はおそろしく古くさく、郊外化を無理に推し進めるような事業が羅列されている。その一方で駅前(中心市街地)再活性化事業、などというものまで登場するのだから、矛盾した政策を平気で行っているのだ。


さて、「都市」の条件とは何か?それは「人口密度」である。ハッキリ言ってしまえば、「人口」が多いから都市、ではない。「人口密度」が高くないと「都市」とはいえないのである。現在、合併で「政令指定『都市』」を名乗る地方が登場している。静岡県であれば、静岡市浜松市などがそれだ。だが、一定面積下での人口増加によって「政令指定」を受けたのではなく、合併によって政令指定の条件を満たしているような状態だ。極論すればこうなる。静岡県の全市町村が合併したら人口380万人の都市になるようなものだ。都市が都市機能を果たし、それが効率的に運営されるには、ある程度の人口密度が必要なのである。


例を挙げてみよう。分かりやすいものは「下水処理」である。古来より都市というのは、排泄物処理に苦労していたようだ。古代インダス文明モヘンジョダロハラッパなどでは下水道が設けられていた、というのは有名な話だ。下水道によって運び出す事は他の歴史ある都市でもしばしば行われた手法だが、疾病蔓延や衛生環境破壊につながったという説もある。下水道で運び出すならまだマシな方で、中世ヨーロッパの都市では、建前上は回収して川や排水路へ捨てる事になっていたが、しばしば二階以上の建物では窓からぶちまけていたという。フランスのベルサイユ宮にトイレが無かったというのは正確では無かったようだが、庭園で用をたす者が後を絶たなかったのは事実らしい。こうした事態は、19世紀以降の都市計画で集中下水処理が行われるようになって改善する。だが、非都市部では排泄物処理自体が大きな問題にはならなかった。それぞれの村落などで充分に処理可能だったからだ。
つまり、都市では集中処理を行う汚水処理システムが必要かつ有効だが、村落では不必要かつ無効なのだ。
それなのに日本では地方の人口密度が低い町でも流域下水道を導入したがる。「下水道は文明のバロメーター」などという、時代遅れのスローガンを行政が掲げているのを見て、苦笑した事がある。合併浄化槽や簡易下水道でも充分な場所が多いのだが、そうした地域ではインフラ投資や維持経費に比べて処理量が少ない。結局、下水道料金に跳ね返る事になる。


こうしたケースは下水道だけではなく、道路(≒公共交通)、上水道、ガス、電力、通信、いずれも同じである。ある人口密度以上の「都市」では人口に対するインフラの必要量は相対的に少なくて済む、それを低人口密度の地域で同じインフラを整備すれば必要量は増大し、整備・維持コストも上がるのだ。


つまり、「都市」と「都市以外」では、インフラ整備の行い方を変えなくてはならない。都市で有効なインフラ整備・維持のやり方が「都市以外」では有効ではなく、負担になる。
ところが、地方は自らを「地方都市」として、「都市」の(つまり東京を基準とした)インフラ整備を行う。地方の見栄、東京に対するコンプレックスが、地方を財政破綻に追い込むのだ。


では、どの程度の人口密度があれば「都市」と呼べるのだろうか。もちろんここでいう「都市」は公的な基準ではなく、あくまでもインフラ整備が有効に行える事を基準とした私見である。パーマカルチャー的、または近自然学的に考えれば、都市はある程度の人口密度が必要だが、あまりに高密度だと環境負荷が大きくなる。従って、インフラ整備が有効かつ環境負荷が大きくなりすぎない人口密度を理想的な「都市」として考える。すると、過去の、産業革命時以前の都市を基準にするのが良い。都市による人口増加が過剰になれば、病疫などによって減少方向に進むため、都市は常時人口増加と減少、流入と流出のダイナミクスの均衡にある。その都市の人口密度が、一つの基準となるだろう。


中国の歴代王朝が都とした長安(現西安市)は、唐の時代に最盛期を迎え、人口も100万以上とされる。長安は典型的な城郭都市であり、総面積80平方km強にも及ぶ。そのうち皇帝の宮殿が数十平方kmを占めていたと考えられるので、大ざっぱな計算で、1平方kmあたり2万人の人口密度、と考える事が出来る。面白い事に、この値は中国の他の諸都市でもあまり変わらず、ヨーロッパでも似たような傾向にある。パリはシテ島を中心とした城郭都市だが、中世には1平方kmあたり1万人、近世までの段階的な拡張で産業革命時までで1平方kmあたり4万人になっている。調べると、均衡状態にある都市は大体このあたりの人口密度に収まるようだ。もちろん、都市内の部分部分で密度は異なる。



唐代長安城の城壁の幅は約6 考古学者の発掘調査で判明
http://www.fmprc.gov.cn/ce/cejp/jpn/zgly/t239185.htm


パリの歴史
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/saito_burabura/bb/Chrono/Chrono.html


明治大正期の東京の人口集中と生活の近代化
http://www.metrosa.org/topix/jinko-mt.htm


現在の機械力を利用できる都市は、これ以上の人口密度でも生活を維持できる。だが、1平方kmあたり2万人程度の人口密度なら、最低限の機械力によるインフラ整備で都市生活を営む事が出来るのだ。これは渋沢栄一の目指した「田園都市」に対して、「エコシティー」と呼べるものになりうるだろう。これ以上の人口密度の場合は機械力が重要かつ必須の要素となる「現代的都市」となる。
つまり、この人口密度が「現代的都市」の最低限の人口密度である。これ以下では都市型インフラ整備は非効率的で、財政的苦境をもたらす。


翻って、「地方都市」の実態はどうだろう。旧静岡市は静岡駅を中心に半径約5kmに人口のかなりの部分が収まる。しかし、5km圏の面積は80平方km弱に及ぶのに対して、人口は40万弱。人口密度は1平方kmあたり5000人で到底「都市」の基準に至らない。つまり、静岡市の「都市計画」は、人口集中地とそれ以外で大きく変更し、その大部分は「都市以外」の施策が必要なのだ。だが、静岡市清水市と合併して政令指定都市となり、その施策は「現代的都市」的施策である。
このような規模で「現代的都市」のインフラ整備を行えば、投資効率は上がらず財政的に困難になっていくだろう。これから人口が大きく増える可能性は無いからだ。


ここで、二つの方向性が打ち出せる。
一つは、
・村落的発想に立つまちづくり
もう一つは、
・狭い区域に人口を再集中して都市整備を行う
この後者が「コンパクトシティ」と呼ばれるものだ。


もちろん、市域の全体を「コンパクトシティー」にする必要はない。市の中心地は「コンパクトシティー」として都市整備を行う。周辺部は村落的整備を行う。その境界部は漸近的市街となるだろう。私見では、地方は「人口の8割を市域面積の2割に集めるべき」だと考える。つまり、「人口の2割は市域面積の8割に住む」村落的住民となる。コンパクトシティーだけで成り立たせるわけではなく、コンパクトシティー周縁の村落を併せ持ち、「エコシティー」または「LoHASロハス)シティー」と呼ぶ存在を目指すのが適当ではないか、と考えているわけだ。
続いては、その「エコシティー」の具体像を提示してみよう。