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現代古楽の基礎知識

2017-01-05

[] N響機関誌「フィルハーモニー」に出開帳!


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 NHK交響楽団の機関誌「フィルハーモニー」に、"ピリオド・アプローチ" に関するエッセイを寄稿しました。リレー・エッセイのシリーズ「オーケストラのゆくえ」の第5回です。

 昨今、モダン・オーケストラでも作曲当時の演奏習慣を取り入れるようになってきました。おもに海外の実例を挙げてその現状を整理。簡単な古楽入門としても読んでいただけると思います。

 「フィルハーモニー」はN響のウェブサイト(下記)でダウンロードできます。



N響機関誌「フィルハーモニー」2017年1月号








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2016-12-22

[] ゲヴァントハウス管が "ゲヴァントハウス" を失っていたころ


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 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は2017年9月、237期目の演奏会シーズンを迎える。1781年にゲヴァントハウス(初代)を本拠地としてから途切れることなく、コンサートの暦を積み重ねてきた。とはいえ、綿々と続く歴史が断たれそうになったこともある。もっとも大きな危機を迎えたのは第二次世界大戦末期のことだ。

 ライプツィヒは12世紀、商業都市として認められ見本市の街となった。それ以来、宮廷を持たない市民都市として繁栄する。ここでは音楽の担い手はつねに市民。この市民の間に、近代的なコンサートの習慣を植え付けたのが、演奏団体コレギウム・ムジクムだった。17世紀に当地の大学生らが結成、18世紀にはテレマンやバッハなど当代一の音楽家が監督を務めた。こうした伝統を受け継いで1743年、音楽愛好会グローセス・コンツェルトが設立される。

 1781年、ゲヴァントハウス(織物陳列館)の落成が市民の音楽生活をいっそう豊かにした。コレギウム・ムジクムやグローセス・コンツェルトの流れをくむ愛好会が、管弦楽団と合唱団を結成し、織物陳列館を拠点に演奏会を行うようになった。これが現在までつづく演奏会場ゲヴァントハウスと、その座付き楽団ゲヴァントハウス管弦楽団の歴史の始まりだ。

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 初代のゲヴァントハウスは、演奏会場としては1884年まで使われ、94年に取り壊された。2代目ゲヴァントハウスは84年に竣工。織物陳列館の名は残ったが、2代目は純演奏会場だった。バウハウスで有名なグロピウスが設計に関わった。この2代目ゲヴァントハウス時代に楽団は、アルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、ヘルマン・アーベントロートら著名指揮者を楽長に迎え、充実した演奏活動を繰り広げていた。

 しかし第二次世界大戦によって、市民楽団の行く末に暗雲が立ち込める。1944年2月20日未明、800機を超える爆撃機がライプツィヒの空を覆った。英国空軍は2300トンもの爆弾をライプツィヒに浴びせ、街の南部から南西部を破壊した。同日午後には米国空軍も爆撃を行い、北東部の工業地帯を焼き尽くした。このライプツィヒ空襲によって2代目ゲヴァントハウスは破壊され、楽団は本拠地を失った。

 ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏暦はこのとき、中断してもおかしくはなかった。しかし、コンサートの灯は消えなかった。代替会場として、戦火を免れた旧市街中心部の映画館「カピトール Capitol」を使い、1781年来の歴史を守った。1929年に開業した「カピトール」は2003年に廃業したが、映画館の入っていた建物は現在も、ペータース通り20番地に往時の姿で建っている。

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 より安定した条件で演奏活動を行うため1946年、楽団は「ライプツィヒ会議場 Kongreßhalle Leipzig」をコンサートホール代わりに使い始める。こちらも映画館同様、爆撃を受けなかったため、1900年に竣工した姿をとどめていた。「会議場」はもともと市の支庁舎で、1878年に開業した動物園に隣接する。ゲヴァントハウス管はその後35年にわたり、この「会議場」を拠点にコンサートを開き続けた。作品にはオルガンを必要とするものもある。1946年には早くも「会議場」に楽器を設置する計画が持ち上がり、47年に建造。翌48年2月にオルガン開きが行われた。演奏は当時のトーマスカントル(市の音楽責任者)、ギュンター・ラミンが担当した。街にはまだ瓦礫の山がたくさん残っている。それでも市民楽団の演奏環境を整えようとする声は大きかった。この「会議場」時代、ヘルベルト・アルベルト、フランツ・コンヴィチュニー、ヴァーツラフ・ノイマン、クルト・マズアが楽長として楽団を率いた。

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 とはいえゲヴァントハウス管弦楽団は、ゲヴァントハウスを根城にしてこそ、その名前に値する。新しいゲヴァントハウスの建設は、楽団員にとっても市民にとっても悲願だった。

 1968年3月、空襲後そのまま放置されていた2代目ゲヴァントハウスが撤去された。その後、跡地は長い間、駐車場として使われていたが2002年、そこにライプツィヒ大学人文科学センターがオープン。ベートーヴェン通り15番地が再び、文化の中心地のひとつとなった。ライプツィヒ市はまた、悲願である3代目ゲヴァントハウスの建設に向けても動き出す。場所は旧市街の東端、カール・マルクス広場(現アウグストゥス広場)の南側。かつて造形美術博物館のあったところで、この博物館もまた1943年12月の空襲で破壊されている。新ゲヴァントハウスの定礎は1977年。竣工は1981年で、同年10月、クルト・マズアの指揮のもと、こけら落としが行われた。

 「3代目」は段々畑状の客席が6方向から舞台を囲むヴィンヤード式。高性能ヘッドフォンのような克明な響きが特徴だ。黄色いブロックを7つ戴くガラス張りの正面が、印象的な外観を作る。そのガラスの向こうにはジクハルト・ギレの大壁画がうかがえる。建築設計はルドルフ・スコダが担当した。当時の旧東ドイツが威信をかけて完成させたとされる。クルト・マズア、ヘルベルト・ブロムシュテット、リッカルド・シャイーの各楽長が、この新しいゲヴァントハウスで采配を振った。新楽長に決まっているアンドリス・ネルソンスもまた、この3代目の舞台に上がる。

 こうしてオーケストラは、37年に及ぶホームレス状態を脱し、名実ともにゲヴァントハウス管弦楽団として再スタートを切ることになった。オーケストラは第二次大戦中に失った「名前」を、1981年、とうとう取り戻した。拠点の名を戴いた楽団にとってそれは、アイデンティティ回復することに他ならなかった。


【写真】(上から)

▼2代目ゲヴァントハウス(1900年)

▼爆撃で破壊された2代目ゲヴァントハウス(1947年)玄関が瓦礫で埋まっている(Deutsche Fotothek)

▼ライプツィヒ会議場(1950年)舞台両脇のバルコニーにオルガンのパイプが見える(Deutsche Fotothek)

▼3代目ゲヴァントハウス(2016年)(©SAWATANI Natsuki)


初出:モーストリー・クラシック 2016年9月号




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2016-12-15

[] ボストリッジ「シェイクスピア・ソングス」


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イアン・ボストリッジ(テナー)▼アントニオ・パッパーノ(ピアノ)▼エリザベス・ケニー(リュート)▼アダム・ウォーカー(フルート)▼マイケル・コリンズ(クラリネット)▼ローレンス・パワー(ヴィオラ)〔WPCS13553〕

シェイクスピアの戯曲の詞章をテクストとする歌曲を集めた特集盤。作家と同時代の16世紀半ばから、20世紀後半までの作曲家による20作品を収める。歌うのはボストリッジ。子音を予め発音し、母音を音符に乗せる歌唱は澱むところを知らない。フレーズの歌い納めに神経を通わせることにより、シェイクスピアの脚韻に新たな息吹が宿る。その上、詞の内容を充分に踏まえて声色を変え、息の勢いを調える。その表現の細やかさが、恋心の甘さや苦しさを豊かな階調で描く。英語の言語としての美しさを存分に楽しむことができる。ピアノを始めとした器楽陣も、多彩な子音で言葉に寄り添う。音楽家たちの冷静な演奏が一層、深い趣を誘う。2016年最優秀盤のひとつ。


初出:音楽現代 2016年12月号



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2016-12-08

[] パブロ・カザルス -- 音楽家の肖像


 1971年10月24日、国際連合本部の総会議場に《鳥の歌》が響いた。この日、このカタルーニャ民謡をチェロで演奏したのが当時94歳のパウ・カザルス(パブロ・カサルス)だ。カザルスの作曲したオーケストラと合唱のための《国連賛歌》、スターンシュナイダーによるバッハ《2つのヴァイオリンのための協奏曲》、ホルショフスキー、ゼルキン、イストミンによる同《3台のクラヴィーアのための協奏曲》が演奏されたあと、カザルスは短いスピーチをしてこの曲を弾き始めた。「私の故郷カタルーニャでは、鳥たちはピース、ピース、ピース(平和)と鳴きながら飛んでいるのです」。彼がその後半生で最も世界の注目を集めた瞬間だった。

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 パウ・カザルスは1876年12月28日、スペイン・カタルーニャ地方のベンドレルで生まれた。音楽に造詣の深い両親のもと早くから音楽教育を受け、11歳にしてバルセロナ市立音楽院に入学。チェロ、ピアノ、作曲を学ぶ。1891年2月、14歳のときにバルセロナでデビューしたあとは、カフェでチェロを弾き糊口をしのいでいた。

 作曲家アルベニスの紹介でモルフィ伯の後援を得たのち、1893年にはスペイン王国摂政マリア・クリスティーナからの支援を受けマドリード音楽院へ。ブリュッセルに赴き、当地の作曲家ヘファールトに作品を認められたのが1895年。パリを経てバルセロナに戻り、1896年にリセオ劇場の首席チェロ奏者に就任した。

 1899年にはラロの《チェロ協奏曲》でパリ・デビュー。国際的に活躍する契機となった。ロンドン、アメリカ、ロシアへの演奏旅行、またウィーン・フィルとの共演により1914年までにその名声は不動のものとなる。演奏の傍ら1919年にパリ・エコールノルマル音楽院の創設に参画。同年、自らのオーケストラ、パウ・カザルス管弦楽団を設立して音楽家の指導にも当たった。

 こうしてカザルスの前半生を振り返って見ると、彼が徹頭徹尾19世紀の音楽家だったことが分かる。「長い19世紀(1789-1914)」の末期「帝国の時代」に教育を受け、デビューし、音楽家としてのキャリアを積み、国際的な地位を確かなものにした。だから、この脂の乗り切ったころの彼の音楽に耳を傾けることが、音楽家カザルスを理解するための早道だ。たとえば、ヴァイオリンのティボー、ピアノのコルトーと録音したメンデルスゾーンの《クラヴィーア三重奏曲 ニ短調》作品49-1。ジグ風のスケルツォ楽章で、まるでバロック期の通奏低音奏者のように舞曲のリズムを支配していく様子には、18世紀から続く演奏習慣の残り香とともに、バッハに傾倒したカザルスの音楽性がありありとあらわれている。

 そんな音楽家人生にも暗雲が立ちこめる。1936年、スペインで左右陣営による内戦が勃発した。第二共和制の左翼的政策を嫌ったフランコ将軍がクーデターを起こし、1939年にはマドリードを攻略。内戦は終結し、将軍の独裁体制が確立した。この体制は1975年の王政復古まで続く。このフランコ体制下で政治的圧力を受けたカザルスは1936年、フランス領のカタルーニャ語圏プラドへと逃れる。その後、フランコ体制を認める国々での演奏を拒否し続けた。

 国際的な舞台に復帰したのは1950年。他でもないバッハ没後200年を祝う年だ。同年、プラドに著名な音楽家を集め、バッハ音楽祭を催した。そこから新たな演奏活動と録音とが始まる。代表的なのは、ヴァイオリンのスターンやシュナイダーらとともに弾いたブラームスの《弦楽六重奏曲第1番変ロ長調》作品18。1952年にプラドで録音された。第2楽章アンダンテの変奏曲では和声進行を担う低声部として、カザルスが5人を支え、まとめ上げる。テンポやリズムの引き締めをカザルスが担っているので、叙情的な楽章ながら嫌らしい揺れ動きはなく、変奏曲としてのプロポーションが保たれている。

 第一次大戦後/第二次大戦後のカザルスの演奏に共通して言えるのは、音楽の思考上も演奏の技法上もバッハの《無伴奏チェロ組曲》に多くを負っている、ということ。音楽の思考の点では、チェロが「通奏低音」を担うべきだという信念を固くしたと言える。和声とリズムの大黒柱となることをバロック期の演奏習慣から学び、それを室内楽の分野で充分に発揮した。一方、音楽の技法上は、《無伴奏チェロ組曲》を演奏するのに有益な指づかいや弓づかいを次々と考案し、それをあらゆる場面に利用することで、その後のチェロ奏法に大きな影響を与えた。こうしたカザルスの「学び」を追体験するにはやはり、彼の《無伴奏チェロ組曲》に耳を傾けるのがいちばんだろう。

 プラドのバッハ音楽祭の段階ですでに73歳になっていたカザルス。以降の活動は徐々に教育と平和運動とに収斂していく。1958年には国際連合の13周年を祝って総会議場でコンサートを行った。1961年にはケネディ大統領の招きでホワイトハウスに赴き演奏を披露した。1962年には自作のオラトリオ《飼い葉桶》を世界各地で上演するにいたる。このオラトリオには平和への願いが込められており、上演は平和運動への参画だった。

 こうした活動の頂点が、冒頭に紹介した1971年の国際連合演奏会だ。94歳になっていたカザルスのチェロからは、往年の雄渾な楽想は失われていた。しかし《鳥の歌》を紹介するスピーチには、平和への万感の思いがありありと浮かぶ。その場の聴衆はもちろん、放送でこのスピーチと演奏に接した多くの人々がカザルスの名前を胸に刻んだ。

 1973年10月22日、カザルスは移住先であるプエルト・リコのサンファンで亡くなった。享年96。私たちにとって印象深い、彼の平和活動家としての力強さは、両大戦前後の豊かな音楽活動が後押ししている。いまこそ音楽家カザルスを復権させる時だ。


初出:音楽現代 2013年6月号


【CD】

▼バッハ《無伴奏チェロ組曲》

▼メンデルスゾーン《クラヴィーア三重奏曲 ニ短調》作品49-1

▼ブラームス《弦楽六重奏曲第1番 変ロ長調》作品18




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2016-12-02

[] 音盤比較 モーツァルト《交響曲第40番ト短調》K.550


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 「モーツァルトの交響曲の中で、この作品ほどたくさんの論評を喚起したものはない」(ニール・ザスラウ)

 《ト短調交響曲》はいつの時代も「モーツァルト論」や「モーツァルト演奏」の中心課題だった。この作品は1788年の夏、他の2曲、つまり変ホ長調とハ長調の交響曲とともに書き上げられた。かつてはモーツァルトの芸術的欲求から作られたとされたが、最近では「ロンドンへの演奏旅行のため」「ウィーンでの演奏会のため」「楽譜出版のため」といった仮説が唱えられ、とりわけ楽譜出版説の説得力が高い。

 3曲は作曲者の生前には演奏されなかった、とする考え方も修正を迫られている。というのも《ト短調交響曲》に複数の稿が残されているからだ。第1稿A(オーボエ稿、クラリネットなし)、第2稿(第1稿にクラリネットを加えオーボエ声部を手直ししたもの)、第1稿B(Aのアンダンテ楽章を手直ししたもの)の3つである。モーツァルトは、作品を舞台に掛け、修正の必要が生じたときしか改訂を行わない。だから《ト短調交響曲》はまず間違いなく演奏された。

 さて、この《ト短調》を次の二者で聴き比べたい。カール・ベーム指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と、ニコラウス・アーノンクール指揮のコンセルトヘボウ管弦楽団だ。両者の目指すところは対照的で、ベームは横方向への旋律線の流れ、アーノンクールは縦方向の響きの広がりを重視している。また曲の「駆動装置」も好対照。たとえば第1楽章では、前者は16分音符のノコギリ音形を、後者は高速テンポを推進力として使う。結果としてベームは、同時に流れる声部同士を対比させ、アーノンクールは瞬間瞬間の響き同士を対比させている。

 こうした両者の違いは、先述の稿の選択にも表れている。ベームは第1稿Aを選択。弦楽器を主体にして流れを作り出す。一方のアーノンクールは第2稿。クラリネットを加えた管楽器群が、音色や音量にくっきりとコントラストを付けていく。ふたりの指揮者が、自らの音楽観に従って楽譜を選んでいる様子がよく分かる。

 ベームの方向から《ト短調交響曲》を位置付ければ、第1楽章の冒頭に代表される「歌うような旋律の流れ」が各所で強調される。強烈な表現を伴う第4楽章すらどこか優美に響くのは、そうした指揮者の考えが楽団にしみ込んでいるからだ。他方、アーノンクールは「コントラストの妙」を前面に押し出していく。音色や音量の急激な変化を利用して、彫り深くオーケストラを響かせる。大きい三拍子と小さい三拍子とが交錯する第3楽章。アーノンクールは輝度差のある響きによって、その「ギアチェンジ」を鮮やかに決めてみせた。

 非常に対照的な両者ながら、どちらも魅力的なモーツァルト像を提供していることには変わりがない。《ト短調交響曲》は「論評」だけでなく、「優れた演奏」を引き出す点でも並ぶものがないと言って過言ではないだろう。


【CD】

▼ベーム(指揮), ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(管弦楽)▼1975年

▼アーノンクール(指揮), コンセルトヘボウ管弦楽団(管弦楽)▼1983年


初出:モーストリー・クラシック 2014年4月号




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2016-11-28

[] 読売日本交響楽団 第561回定期演奏会


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 フランクフルト歌劇場音楽総監督クリスティアン・ヴァイグレが、読響の定期演奏会に初めて登場。得意のR・シュトラウスで演目を固め、日本の聴衆に指揮の実力を見せつけた。

 ヴァイグレはシュトラウスを、極めて細い糸で織り上げようとする。管弦楽、とくにヴァイオリンが高い精度でそれに応える。糸は細くとも織り上がる布の重さは変わらない。織りが緻密ということだ。光沢は増し、わずかな動きでも表情を変える。管弦のバランスを繊細に調えることで、緊張と緩和の落差を大きくする。大げさな強弱はない。それが緩和を先延ばしにする局面でも効果を発揮した。聴き手はシュトラウスの和声の綾に巻き込まれていく。

 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」でそうした音楽が響いたあと、会場全体はもう指揮者の手の内に落ちた。「4つの最後の歌」では、とりわけ第1曲でソプラノのエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーが繊細さを発揮。口跡と音量とが、お互いを殺さない地点で釣り合った。

 局所的にはつねに軽やかだが、結果として軽々しくならないのは「家庭交響曲」でも同じ。こうした方向性は、日常生活の各場面と、登場人物それぞれの性格とを細やかに描き分けるこの作品にうってつけだ。

 この指揮者が管弦楽に求める機能と、読響の持つ高精細な演奏能力との平仄がぴたりと一致している。音楽上の相性の好さを、強く聴衆に印象付けた一夜。〔2016年8月23日(火)サントリーホール〕


初出:モーストリー・クラシック 2016年11月号




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2016-11-21

[] レッスン室の言葉


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「バッハは1日に6時間も稽古を付けてくれます」(弟子クロイターの言葉。バッハのレッスンについて)

バッハの鍵盤レッスンは打鍵法の訓練から始まる。鍵盤のたたき方だけで半年以上を費やした。それを終えた生徒は《インベンションとシンフォニア》で基礎を身につけ《平均律クラヴィーア曲集》でフーガの訓練へ。レッスンの仕上げは通奏低音の演奏法を身につけること。低音旋律を左手で弾き、右手でそれに適した和音などを即興で演奏する。弟子のゲルバーに行った授業では、アルビノーニの《ヴァイオリン・ソナタ》が教材に選ばれているので、実際にバッハがヴァイオリンを弾きながらゲルバーの通奏低音を指導していたかも知れない。


「数時間がほんの数分に思える」(弟子ゲルバーの言葉。バッハの模範演奏を聴いて)

ときにはバッハの気がレッスンに向かないことも。そんなときはレッスン代わりに数時間も鍵盤楽器を演奏してくれた。バッハのリサイタルが目の前で行われるわけで、弟子にとっては贅沢な時間だった。


「彼女の顔は悪魔の顔のお手本だ」(モーツァルトの言葉。アウエルンハンマーを評して)

モーツァルトに鍵盤楽器を習う生徒は大勢いたが、なかでも才能に恵まれていたのがヨゼファ・アウエルンハンマー。ヨゼファはモーツァルトに恋をしていたが、モーツァルトは見向きもせず、つれない態度。


「左手はオーケストラの指揮者」(ショパンの言葉。レッスンに際して)

ショパンは自在にテンポを揺り動かしたというが、実は左手は正確なテンポで、右手の表現がとても自由だった。左手はあくまでも正確に。そのことをショパンは、オーケストラの指揮者にたとえて弟子たちに教えていた。


「宿題を暗記して来た子どものつもり?」(ショパンの言葉。弟子の態度にいらついて)

楽譜を持たずにレッスンに来た生徒。ショパンが楽譜はどうしたかたずねると、暗譜しているから持ってこなかったとの答え。それに対してショパンが放った一撃。いつも物静かなショパンも音楽に関してはやはり厳しい。


テクニックは精神によって培われる」(リストの言葉。ピアノの訓練に関して)

超絶技巧ピアニストの代表選手と言えばリスト。ところが彼は弟子にテクニックの指導をしなかった。弟子の身体は自分の身体とは違う。伝えられるのはテクニックの奥に潜む本当の意義だけ、という信念から。


「激しく燃える詩人は恐ろしい」(シューマンの言葉。師との法廷闘争を前に)

シューマンは18歳の時、ピアノ教師ヴィークに弟子入りした。たちまちその家の娘クララと恋に落ちる。ところが師匠には交際を反対され、泥沼の裁判沙汰に。師匠と弟子の絆も、恋愛の炎の前には灰となるしかない。


【CD】

▼バッハ《平均律クラヴィーア曲集》第2巻 BWV870-893▼エフゲニー・コロリオフ(ピアノ)

▼バッハ《ゴルトベルク変奏曲》BWV988▼高田泰治(チェンバロ)

▼モーツァルト《クラヴィーア・ソナタ イ長調》K.331ほか▼アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)

▼ショパン《24の前奏曲》作品28 ほか▼ウラジーミル・ソフロニツキー(ピアノ)

▼リスト《超絶技巧練習曲集》▼ジョルジ・シフラ(ピアノ)

▼シューマン《ダヴィット同盟舞曲集》作品6 ほか▼アンドラーシュ・シフ(ピアノ)




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