Hatena::ブログ(Diary)

現代古楽の基礎知識

2018-04-20

[] 音楽家の連帯 ― ブラームスの場合


 音楽家たちは古来、さかんに相互交流を重ねてきた。特殊技能を持つ者同士の緩やかなギルド、職位を独占するための同族組合、互いを触発する音楽家同士の連帯。たとえば、テレマンとバッハには家族ぐるみの付き合いがあった。バッハは中部ドイツを根城とする音楽家一家出身。バッハ家は地域の演奏家ポストの一部を一族で独占していた。あるときドレスデンの名リュート奏者、ヴァイスとクロップフガンスの演奏に魅了されたことでバッハは、「リュート組曲」などを新たに生み出していく。このように19世紀以前のミュージシャンたちは、通信手段が限られる分、今の音楽家よりもずっと密に関係を構築していた。ブラームスの楽界交友も、そういった密度と厚みとを持っていた。

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 若きブラームスは自作自演の演奏会を地道に積み重ねていた。たとえば1849年4月のリサイタル。ハンブルクの新聞批評子は「ベートーヴェンの演奏に勉強の成果」を、「自作の演奏に並々ならぬ才能」を見た。とはいえ、こうした演奏会はマイナーな活動に属する。そんなブラームスを一段高いステージへと引き上げたのが、エドゥアルト・レメーニだった。レメーニはハンガリー出身のヴァイオリニストで、19世紀を代表する音楽家のひとり。1886(明治19)年に早くも訪日。長崎、神戸、横浜の各居留地で公演をしたほか、東京では宮中と鹿鳴館とで御前演奏を行った。当時としては図抜けて世界的な奏者だ。

 1853年、ブラームスはレメーニの伴奏者となり演奏旅行に随行。ヴィンゼン、ツェレ、リューネブルクといった北ドイツの各地で、当代一のヴァイオリニストともに舞台に立った。そこでは自作を披露する機会も与えられ、イ短調の「ヴァイオリン・ソナタ」(現存せず)や「ピアノ・ソナタ第2番」作品2、「スケルツォ」作品4などを演奏したという。

 レメーニはブラームスに、メジャー級の舞台を経験させるだけでなく、メジャー級の音楽仲間を引き合わせてくれた。ヨーゼフ・ヨアヒムだ。ヨアヒムはハンガリーのヴァイオリニストで、レメーニとは同郷・同世代。ヴィルトゥオーゾとして名声を博していた。以後、ヨアヒムの演奏家としての助言は、作曲家・ブラームスを育てる大きな力となっていく。

 ブラームスがその声望を確かなものとしたのは、「ドイツ・レクイエム」の成功によるところが大きい。その全曲初演を担った指揮者が、カール・ライネッケだ。1869年2月18日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスでこの作品の全容が明らかになった。ライネッケはメンデルスゾーンやシューマンのよき解釈者で、当時、ゲヴァントハウスの楽長を務めていた。いうまでもないが作品の評判は、演奏のよしあしに左右される。ライネッケの優れた“実体化”によって「ドイツ・レクイエム」は、聴き手の心を動かした。その波動がドイツ語圏全体に広がり、ブラームスの作曲家としての立場を強めていく。

 その意味でハンス・リヒターとの出会いも、ブラームスにとって大きな意味があったはずだ。ブラームスは1876年、構想から20年を経てやっと「交響曲第1番」の初演にこぎつけた。ベートーヴェンの幻影、シューマンの期待、同時代作曲家たちの交響曲創作が、彼にプレッシャーを与え続けた。そこから解放され、ブラームスは晴れ晴れとした気持ちでオーストリアの保養地ペルチャッハに向かう。そしてそこで「交響曲第2番」を書き上げた。逡巡に逡巡を重ねた第1番とは違い、いわばペルチャッハに飛び交う音をそのまま書き留めるかのように筆を進めた。

 そうした第2番の雰囲気を、そのまま大らかに表現したのが、初演の指揮者ハンス・リヒターだ。1877年12月30日、リヒターの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によってこの作品は、世に送り出された。演奏会は大成功。厳しい批評で有名なハンスリックも「よい音楽を聴きたがっている、すべての人のために書かれた作品」と絶賛した。作曲家と演奏家との、作品を通した響き合いが、幸せな音を奏でた好例だ。ちなみにリヒターとウィーン・フィルは、ブラームスの「交響曲第3番」も初演している。

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 指揮者でもうひとり名前をあげたいのが、ハンス・フォン・ビューロー。リストとワーグナーの音楽のいちばんの支持者だった。ブラームスがビューローと初めて会ったのはまさに、この指揮者がリスト=ワーグナー派の頭目であった1854年のことだ。1880年代になるとビューローは、さかんにブラームスの作品を取り上げるようになる。中部ドイツ・マイニンゲンの宮廷楽長として楽団を鍛え上げ、その活動の中で多くのブラームス作品を演奏した。

 もっとも注目すべき成果は、1882年のベルリン演奏旅行だ。ビューロー率いるマイニンゲン宮廷楽団が、帝都に赴き演奏を披露した。その中には二夜にわたる「ブラームスの夕べ」が含まれる。第1夜はビューローが指揮をしブラームスが「ピアノ協奏曲第2番」を独奏。第2夜はブラームスが指揮台に上がりビューローが「ピアノ協奏曲第1番」を弾いた。これらの演奏会は大成功を収めた。

 クラリネット奏者のミュールフェルトなど、ブラームスに創作のひらめきを与えた演奏家は少なくない。それは器楽に限ったことではなく、歌い手にも彼の創造性を刺激する者がいた。ブラームスは1856年、バリトンのユリウス・シュトックハウゼンと出会った。ふたりはバッハに対する関心などを共有したのかもしれない。すぐに打ち解けた音楽家たちは以後、歌手とピアニストとして共演を重ねていく。作曲家はシュトックハウゼンのために作品も書いた。「マゲローネのロマンス」作品33 だ。それは「われても末に逢はむとぞ思ふ」を地でいく恋愛譚。さまざまな障害があっても、思い合う者の間には強い紐帯があることを示す内容は、友情の証にふさわしいものだった。


【CD】

ピアノのための「スケルツォ」ほか

ドイツ・レクイエム

交響曲第2番

ピアノ協奏曲第1番・第2番ほか

歌曲集「マゲローネのロマンス」


初出:モーストリー・クラシック 2018年5月号






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2018-04-12

[] 出開帳!website『音遊人』に批評を寄稿


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ヤマハのweb情報誌『音遊人』に、アレクサンドル・タローのリサイタル評を寄稿しました。演目はバッハの《ゴルトベルク変奏曲》。以下のサイトでご覧ください。

その夜、《ゴルトベルク変奏曲》はフランス語で”演じられた”/アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル

なお、トッパンホールでのリサイタル(フランス・プログラム)については、2018年4月20日発行の「モーストリー・クラシック」6月号に批評を書いています。あわせて乞うご高覧。


【その他の記事】

ベルリン・フィル内に室内合奏団を生んだ、シューベルトの《八重奏曲》を聴く

奏者と楽器と空間、三者がみごとに交わり、メシアンの音楽を包み込む/オズボーン (Pf.)






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2018-04-05

[] 20世紀の「運命交響曲」演奏史


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 交響曲の代名詞、ベートーヴェンの第5番「運命」。初演当時、多くの聴衆がこの作品をすぐには理解できなかった。理由はいくつかある。聴き手はたった4音の動機と、それがしつこく使い続けられることに驚いた。50小節に及ぶティンパニの同音連打の後におとずれる第4楽章冒頭の響きにも、耳を疑った。当時は教会音楽か劇音楽でしか使われなかったトロンボーンが、高らかに響いたからだ。

 とりわけ第3楽章掉尾のティンパニ連打と、第4楽章冒頭のトロンボーン導入のふたつは、「運命」の音楽的なクライマックス。この部分にこそ「運命」解釈のエッセンスが表れ出る。そこでこの2点に注目しながら、14組の演奏を比較しよう。

 フルトヴェングラーはベルリン・フィルとの1926年の演奏で、第3楽章のティンパニを四股を踏むように叩かせ、地鳴りのようなコントラバスによってリズムを強調した。50小節の同音連打を打楽器的に処理しているわけだ。第4楽章の冒頭ではトロンボーンをはっきりと鳴らす。同楽章の速さは2分音符=毎分66。ベートーヴェン自身の速度指定は毎分84だからとても遅い。楽章内での速度変化も激しい。一方、1947年の同コンビも、第3楽章の打楽器ティンパニと地鳴りコントラバスは1926年と同様。ただし第4楽章では、引き続きティンパニの“四股”打ちで打楽器の連続性を強調する。金管群はトロンボーンよりトランペットのほうが優位だ。速度は毎分84で作曲家の指示通り。やはり速度変化が激しい。

 1939年のトスカニーニとNBC交響楽団は、第3楽章でオルガンの保続音のようにティンパニを響かせ、第4楽章ではトロンボーンを強調する。速度は毎分80だが、楽章内の速度変化の幅は大きい。こうした激しい速度変化も、1959年のワルターとコロンビア交響楽団以降、影をひそめる。このコンビは第3楽章のティンパニをわずかに打楽器的に処理し、第4楽章ではトロンボーンを強調する。速度は毎分84。

 1962年のカラヤンとベルリン・フィルは、少し打楽器気味のティンパニと、地鳴りコントラバスのリズム強調とを組み合わせる。第4楽章冒頭の速度は毎分80で、響きはトランペット寄り。チェリビダッケとスウェーデン放送響の演奏は1967年。第3楽章のティンパニをオルガン保続音と打楽器との中間ほどに整え、コントラバスでリズムを補強する。第4楽章ではトランペットの華やかさを突き抜けて、トロンボーンの神々しさが前に出る。速度は毎分76で少し遅い。クライバーは1974年のウィーン・フィルとの演奏で、第3楽章のティンパニをオルガンの保続音のように、第4楽章の金管をトロンボーンがちに鳴らす。速度は毎分80。同じウィーン・フィルを1977年にベームが振る。第3楽章のティンパニはほぼ保続音、わずかに打楽器的。第4楽章冒頭はクライバーと同じく毎分80で、トロンボーンがよく響く。

 ブリュッヘンと18世紀オーケストラの演奏は、作曲当時の楽器と演奏法とに裏付けられたもの。第3楽章のティンパニはオルガン保続音に少し打楽器感を加える。それを、コントラバスのリズム強調が薄く支える。第4楽章冒頭の金管群はピリオド楽器らしく、サウンドの一体性がこれまでの演奏にない次元。その響きの土台をトロンボーンがしっかりと支える。同楽章の速度は毎分92でとても速い。同じくピリオド演奏のガーディナーとオルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック。1994年の演奏では、第3楽章のティンパニをオルガン保続音寄りにして、そこに打楽器感を少し足す。第4楽章は毎分88で、ブリュッヘン同様、金管群の響きの一体感が身上。こちらもトロンボーンが土台となる。ティンパニの“四股”打ちも耳に残る。

 1999年にブロムシュテットは、ゲヴァントハウス管弦楽団との演奏で、第3楽章のティンパニをオルガン保続音風とし、リズムはコントラバスで強調。第4楽章を快速の毎分88で飛ばし、一体感のある金管サウンドの中、トロンボーンをおおらかに響かせる。ラトルとウィーン・フィルの演奏は2001年。第3楽章のティンパニをオルガン保続音のように鳴らし、第4楽章はトロンボーンを強調する。速度は毎分92。

 2007年にインマゼールはピリオド楽器の楽団アニマ・エテルナとの演奏で、第3楽章のティンパニを打楽器的に叩かせ、第4楽章ではトロンボーンを豊かに響かせた。速度は毎分84。ピリオド系の指揮者アントニーニは2008年、バーゼル室内管弦楽団と共演。第3楽章のティンパニをオルガン保続音風とし、コントラバスでリズムを強調。第4楽章はトロンボーンをサウンドの土台にする。これら14の演奏は、以下の5種類に分類することができる。

(A)打楽器 - トランペット型(フルトヴェングラー1947, カラヤン1962)

(B)打楽器 - トロンボーン型(フルトヴェングラー1926, チェリビダッケ1967, ベーム1977, インマゼール2007)

(C)保続音 - トロンボーン型(トスカニーニ1939, クライバー1974, ラトル2001)

(D)中間的 - トロンボーン型(ワルター1959, アントニーニ2008)

(E)保続音 - 金管群一体感型(ブリュッヘン1990, ガーディナー1994, ブロムシュテット1999)

 楽譜に忠実な(C)保続音 - トロンボーン型が標準で、(D)と(E)はそのヴァリアント。ティンパニの同音連打を打楽器的に扱うのは指揮者の個性。トランペット型は、第4楽章にトロンボーンを使った作曲家の意図をあまり重要視していない。興味深いのは、解釈の点で演奏時期の新と旧、モダン演奏とピリオド演奏とが入り乱れていること。「運命」は20世紀の前半から21世紀の初めにかけて、このように複雑に絡み合う演奏史を織り出してきた。傑作の傑作たるゆえんは、こうした多様な解釈を引き出す豊饒さにある。


【CD】

(A)タイプ:フルトヴェングラー1947

(B)タイプ:チェリビダッケ1967

(B)タイプ:インマゼール2007

(C)タイプ:クライバー1974

(D)タイプ:アントニーニ2008

(E)タイプ:ブリュッヘン1990


初出:モーストリー・クラシック 2018年4月号





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2018-03-27

[] バッハの"縮"小品


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 バッハの作品の中には、管弦楽作品を鍵盤楽器1台で演奏できるようにしたものがある。他作曲家のソロ協奏曲をチェンバロ1台で弾けるようにしたり、自作のカンタータの楽章をオルガン1台に移し替えたり。小品は小品でも“縮"小品と言うべきこうした編曲作品は、現代の録音盤と同じ役割を果たしていた。大勢の楽団を雇わなくても鍵盤奏者がひとりいれば、オーケストラ作品を味わうことができる。こうした楽しみ方には、小品本来の気軽な性格が色濃く表れている。

 バッハはワイマールに赴任中の1713〜14年頃、協奏曲の編曲に集中的に取り組んだ。この編曲は、独奏楽器と弦楽のための協奏曲を、鍵盤楽器1台で演奏できるようにするもの。当時の雇い主であるワイマール公子ヨハン・エルンストの注文に応じておこなった。

 公子は1713年、ユトレヒト大学での勉強を終え、アムステルダムを経由してワイマールに帰国した。音楽好きだった彼は、帰りに立ち寄ったアムステルダムの新教会で、協奏曲のオルガン独奏に出会い、魅了される。また、同地で大量の楽譜を購入して故郷に持ち帰った。それら最新の印刷楽譜や手稿譜をもとに、鍵盤独奏用の協奏曲編曲をおこなうよう、当時お抱えだったバッハらに命じた。

 原曲の多くはヴェネツィアの作曲家の作品。ヴィヴァルディの「調和の霊感」作品3や、映画「ヴェニスの愛」で有名なA・マルチェッロの「オーボエ協奏曲」などが含まれる。楽団を呼ばずに鍵盤楽器だけでこうした人気曲を気軽に楽しむ。それは、現代人がくつろいだ気分でオーディオを聴くことと軌を一にする。

 一方「シュープラー・コラール集」は、自作カンタータの楽章をオルガン独奏用に編曲した、6曲組の作品集(ただし第2曲の原曲は不明)。独唱と器楽伴奏の編成を、そのままオルガンの鍵盤上に移す。たとえば曲集の冒頭は、カンタータ第140番「目覚めよとわれらに呼ばわる物見らの声」の第4曲を編曲したもの。テレビ番組のBGMやCMの主題曲としても頻繁に用いられる。

 礼拝に使う音楽を編曲し、それを出版・販売するのはとても珍しいことだった。バッハにはその珍しいことをするだけの理由があった。カンタータの自信作も、そのままでは教会の書庫に埋もれてしまう。バッハは自信作を、より簡便な編成に仕立て直し出版することで、世に広め、後世に伝えようとした。

 19世紀になると市民階級が、家にピアノを持つようになり、そこで音楽を気軽に楽しむようになった。その時間を充実させるため、交響曲を鍵盤楽器向けに編み直したり、人気オペラのアリアを、その伴奏ごとピアノに移し替えたりする編曲が世に出回った。バッハの一連の“縮"小品は、こうしたジャンルを先取りしていたと言ってもよい。バッハの作品も19世紀の例も、くつろいだ雰囲気の中、気軽に音楽を楽しむといった目的は同じ。この点に小品の持つ本来の性格がにじんでいる。


【CD】

協奏曲編曲(チェンバロ):ミケーレ・バルキ 

協奏曲編曲(オルガン) :ロレンツォ・ギエルミ 

シュープラー・コラール(オルガン):トン・コープマン 


初出:モーストリー・クラシック 2018年3月号




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2018-03-20

[] ゲーベル&ベルリン・バロック・ゾリステン:《ブランデンブルク協奏曲》(全曲)


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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ《ブランデンブルク協奏曲》(全曲)▼ラインハルト・ゲーベル(指揮)ベルリン・バロック・ゾリステン[SICC 30471~2]

ベルリン・フィルの楽団員を中心に結成された17・18世紀音楽の専門集団が、バッハの管弦楽作品の最高峰に挑む。ゲーベルはかつて、ムジカ・アンティクヮ・ケルンを率いた音楽家。最近はヴァイオリンを指揮棒に持ち替えて活動している。ヴァイオリニスト時代はまるで、抜き身のままに音楽をするような奏者だったが、指揮者になって各楽団と共演することで、そこにさまざまな拵(こしら)えが付いた。それでも本身の切れ味はそのまま。第2番の第2楽章に聴く「せわしないため息」、第3番第3楽章に描かれる「ダムの決壊」、第6番第1楽章に現れる「カノンの洪水」。18世紀の語法を採用すればモダン楽器でも筋肉質なバッハになる。


初出:音楽現代 2018年3月号





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2018-03-01

[] ヘンデルの合奏曲


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 中部ドイツの街ハレで生まれ、ロンドンで活躍し、のちにイギリスに帰化したヘンデルをめぐって、ドイツとイギリスの間ではいまだに国籍論争が続いている。生まれたのはドイツなのだからヘンデルはドイツ人だ、という声にも一理あるし、おもな活躍の場所がロンドンでイギリスに帰化したのだからイギリス人だ、という主張ももっともだ。この問題は案外に根深い。イギリスのエリザベス女王は2009年、没後250年を記念するハレ・ヘンデル音楽祭に寄せた挨拶の中でさえ、「ヘンデルが人生の大半を過ごし、名作を多数生み出した場所はロンドンだ」と書き、ドイツ側に釘を刺した。このようにヘンデルはいまだに、国際問題を引きおこしかねないほどの人気を誇っている。

 その人気の大元はオペラをはじめとする大小の声楽曲だ。ヘンデルの創作史で声楽作品と器楽作品とを比較すれば、その分量の割合は9対1で、どちらに力を入れていたかは明らか。それにもかかわらず、ヘンデルの器楽曲の存在感はすこぶる大きい。とりわけオーケストラ曲には、どこかでいちどは聴いたことがある、という作品が目白押しだ。

 ヘンデルは合奏協奏曲を22曲、残した。そのうち「作品6」として出版した12曲が、佳作としてとくに名高い。合奏協奏曲は17世紀から18世紀にかけてもてはやされたジャンル。独奏群と合奏群とが楽想・音量・音色・テクニックなどの点で対比をなす。ヘンデルが「作品6」の12曲を作曲したのは、オラトリオの幕間に演奏するため。次の劇場シーズンを見据え、1739年の秋にひと月ほどで全曲を書き終えた。出版は翌年4月。1741年の第2版から「作品6」と明記された。「12曲」の「合奏協奏曲」を「作品6」として出版する。これはヘンデルにとって、先輩音楽家であるコレッリへの賛辞に他ならない。

 ローマで学んでいたヘンデルは1707年、コレッリの知遇を得た。コレッリはこの年、ヘンデルのオラトリオの上演にヴァイオリン奏者として参加。翌年にはコンサートマスターとして楽団を率い、ヘンデル作品の上演に寄与した。コレッリはこれを機に公の演奏活動から引退。以後、作曲や旧作の改訂に精を出し、1711年に12曲からなる《合奏協奏曲集》作品6を完成させた。作品6は作曲家の死後に出版された。

 こうした事績を受けてヘンデルが、みずからの「作品6」に取り組んだことは想像に難くない。ヘンデルは実際、典型的な緩急緩急の4楽章制を守ることよりも、コレッリ同様、そこにさまざまな変化を持たせることのほうに気を配った。その結果、4楽章構成2曲、5楽章構成6曲、6楽章構成4曲の布陣となった。なかにはソロ協奏曲風の楽章や、協奏様式をとらない弦楽合奏の楽章も。多様な音楽を盛り込むことに腐心した様子がうかがえる。

 イギリス王室は当時、舟遊びのイヴェントをしばしば開催した。ドイツからやってきた“外様”王家には、こうした催しを通して国民の支持を取り付ける必要があった。そのうち1717年と1736年の2回、王室は舟遊び用の音楽を作曲するよう、ヘンデルに依頼した。それにより生まれたのが「水上の音楽」だ。内容は華やかで豪快な楽想の舞曲集。大規模な楽器編成が採用された。1717年夏の催しでは、50人もの楽師の乗った船が王の御座船に続き、《水上の音楽》を披露した。

 金管楽器の多用は野外で演奏することを見越して。ヘ長調の第1組曲ではおもにホルンが、ニ長調の第2組曲ではおもにトランペットが、ト長調の第3組曲ではおもにフルートが活躍する。なおこの分け方は、『ハレ・ヘンデル新全集』の校訂者が、調と楽器編成とによって分類したもの。2度の舟遊びでどの曲がどの順番で演奏されたかは分かっていない。豪奢な響きに織り込まれる繊細な節回しや精密なリズム遊びに、ヘンデルの器楽作品の真骨頂を聴くことができる。

 ヨーロッパでは1740年、オーストリア継承戦争が勃発。北米やインドなどの植民地も戦火に巻き込まれた。同戦争は1748年、アーヘン和約によって終結した。この講和条約の締結を国内に知らしめるためイギリス王室は、大規模な祝典を計画。花火の打ち上げをボローニャ出身の2人の職人に、特設舞台の設置をフィレンツェ出身の劇場建築家に、音楽の作曲をヘンデルに依頼した。

 祝典は1749年4月27日、ロンドンのグリーンパークで開催。6日前のリハーサルから《王宮の花火の音楽》は評判を呼んでいた。このとき上演された管楽合奏版は異様なほどの大編成。もっともパート数の多い序曲は、オーボエ24、ホルン9、トランペット9、ファゴット12、コントラファゴット1、ティンパニ3組を必要とした。初演時の記録によると、楽団の大きさは100人。この記録が正しければ、各パートをそうとう増強したとみられる。曲は全5楽章。野外での大編成の上演にふさわしく、壮大なエコー効果を狙った楽想が耳をひく。

 ちなみに、祝典自体は成功とは程遠い状態だった。雨のため花火が着火しない。やっと着火した花火はあらぬ方向に飛び、特設舞台を焼く。舞台を設営した建築家は激怒し、花火打ち上げの責任者に剣で切り掛かった。

 このように混乱した初演から1ヶ月後、ヘンデルは孤児養育院での演奏会でこの作品の管弦楽版を発表した。これは当初、作曲家がもくろんでいた編成。これにより初志を貫徹したことになる。

 ヘンデルはオーケストラ曲を片手間に書いていた。だからといってその片手間が、品質の低下を招いたかといえば、そんなことはない。むしろ、それぞれの用途にきちんとあてはまるようにヘンデルは、綿密な計算を働かせた。こうした手入れの行き届いた曲づくりを、ごく短期間で成し遂げてしまうところに職人としての技量のたくましさが、生み出された曲に、多くの聴き手が魅了されるところに音楽家としての水準の高さがあらわれている。


【CD】

《合奏協奏曲》作品6▼ホグウッド(指揮)ヘンデル&ハイドン・ソサエティ

《合奏協奏曲》作品6▼アントニーニ(指揮)イル・ジャルディーノ・アルモニコ

《水上の音楽》▼サヴァール(指揮)ル・コンセール・デ・ナシオン

《水上の音楽》▼カールヴァイト(指揮)ベルリン古楽アカデミー

《王宮の花火の音楽》▼ニケ(指揮)コンセール・スピリチュエル

《王宮の花火の音楽》▼ピノック(指揮)イングリッシュ・コンサート


初出:モーストリー・クラシック 2018年2月号






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2018-02-22

[] ブラームスの管弦楽小品


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 画家の個展に行く。代表作が正面の壁に掛かっている。周囲のスペースには、その絵画につながる習作群も展示される。作家によってはその習作が、完成度の高い一作品となっている場合もある。技法の試験場としての役割と、個別作品としての品質とが両立しているのだ。ブラームスの管弦楽小品もまた、そんな両面を兼ね備える。

 ブラームスは1869年、《ハンガリー舞曲集》第1集と第2集を出版した。これはピアノ連弾のための曲集で、スラヴ趣味の高じた当時の西欧の音楽愛好家に、熱狂的に受け入れられた。そのうち第1・3・10曲を、ブラームス自身が管弦楽用に編曲した。

 ブラームスは既存の旋律素材をもとにして各舞曲を書いた。そのため出版後すぐ、盗用疑惑をかけられる。この曲集を元のメロディーの「編曲集」であると言い張ることで彼は、この件を切り抜けた。社会的な問題はさておき、この既存の素材を利用する手法は、ブラームスの以後の管弦楽創作でも大きな役割を果たす。

 《ハイドンの主題による変奏曲》は1873年の作品。先に2台のピアノのために同曲を作曲し、のちに管弦楽用を完成させた。「ハイドンの主題」と呼ばれているのは古い教会讃美歌の旋律だ。伝ハイドン(実際はプレイエルか)の作品に引用されている。それをさらにブラームスが、変奏曲の主題として扱った。この作曲を通してブラームスは、さまざまな技法の練度を徐々に高めていった。

 1880年の《大学祝典序曲》と《悲劇的序曲》とは対をなす2曲で、対照的な性格を持った“兄弟”と言ってよい。ブラームスは1879年、ブレスラウ大学から名誉学位を授かった。その答礼作品が《大学祝典序曲》だ。ブラームスは4曲の学生歌を引用し、溌剌とした楽想で全体をうめる。打楽器の活躍も特徴的。トライアングルの使用は《ハイドン変奏曲》に続く工夫だ。

 一方、《悲劇的序曲》の作曲目的ははっきりしない。しかし、この作品が《大学祝典序曲》と対をなすことは、ブラームスの手紙からもわかる。主題を緊密に関連させていく手法はベートーヴェン譲り。それが劇的な性格を強める。

 既存作品の引用、それをもとに綴る変奏、その移り変わりを描く管弦楽法、密度の濃い主題労作とそれがもたらす劇的な効果。管弦楽小品で培われたこれらの手法をブラームスは、《交響曲第4番》(1885年完成)に結実させる。この作品ではトライアングルの使用といった細部から、緊密な主題労作、バッハ作品の引用、変奏曲・シャコンヌの採用といった大きな枠組みにいたるまで、管弦楽小品で試した手法が大いに利用されている。

 《交響曲第4番》はブラームスの後期を代表する1曲だ。この作品の“周囲の壁”には、さまざまな管弦楽小品が“掛けられている”。習作と呼ぶには優れすぎているそれらを鑑賞しながら、一方でそれらの中に、代表作につながるさまざまな印を確認するのも、ブラームスを聴く楽しみのひとつである。


【CD】

《ハンガリー舞曲》ノイマン&ゲヴァントハウス管

《ハイドン変奏曲》ダウスゴー&スウェーデン室内管

《大学祝典序曲》《悲劇的序曲》ヤルヴィ&ドイツ室内管

《交響曲第4番》カーディナー&レヴォリューショネル


初出:モーストリー・クラシック 2018年3月号





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