Hatena::ブログ(Diary)

現代古楽の基礎知識

2017-02-22

[] 生誕450年 モンテヴェルディ 音楽の歩み


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同時代のふたり ― 光悦とモンテヴェルディ

 本阿弥光悦は16世紀から17世紀にかけて活躍した書家。1615年に徳川家康から京都鷹ヶ峰の土地を下賜され、そこに芸術家村を作り隠棲した。光悦は、長次郎が千利休の指導によって始めた楽焼を、楽家二代目の常慶から教わり、鷹ヶ峰で茶碗を焼き始める。利休以来の侘び数寄の理想を踏まえながら制作に励むが、そのこと自体は引退後の手遊びに過ぎない。しかし光悦は、侘び数寄のつぼを押さえつつもそれに縛られることなく、手遊びであるがゆえの自由さを持って、一碗一碗に創意工夫を尽くしていく。伝統とそこからの距離、自由さと創意工夫の交わる一点に、光悦の仕事は花開いた。

 同じころイタリアでは、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)が音楽の世界で、その創作の力を発揮していた。場所も分野も隔たってはいるが、この同時代の二人は意外にも、よく似た姿勢で仕事に取り組んでいる。モンテヴェルディは16世紀の音楽家たちが積み重ねたスタイルをよく消化しつつも、新しい芸術思潮を現実化するためならば、既存の音楽の形を改変することに躊躇を覚えなかった。だからといって、新しさの持つ勢いだけで作曲をしたわけではない。その仕事は微に入り細を穿つ入念さで行われた。その繊細な手入れの深さゆえ、音楽史におけるインパクトはとても大きくなった。本阿弥光悦とモンテヴェルディは、こうした芸術上の姿勢の点で、同じ道を歩んでいる。

 モンテヴェルディは(光悦もまた)「発明・発見」の人ではない。しかし、そこに存在する物事を新しい思潮に従って改変し、使い勝手を調える「応用」には大きな才能を示した。その仕事は「発明・発見」に価値を置く"ノーベル賞"に輝くことはないが、世界を大きく変える力には満ちていた。


「応用」の舞台 ―《マドリガーレ集》

 モンテヴェルディの「応用」のおもな舞台は3つある。ひとつは世俗的内容の室内声楽曲・マドリガーレ、ひとつは芝居を伴う大規模な声楽曲オペラ、もうひとつはキリスト教典礼のための各種声楽曲だ。モンテヴェルディはこれらの舞台で、新しい芸術思潮の現実化のために作曲の筆をとった。彼が依拠した芸術思潮は、「言葉が音楽の主人になる」という彼自身のひとことに現れている。詩に表現された情緒を、音楽でいかに表現するか。これは古来、重要な課題だが、この課題に取り組むにあたりモンテヴェルディは、詩の情緒(言葉)をより克明に表すためであれば、楽曲のかたち(音楽)が旧来の規則に背いてもよいと考えた。「言葉が音楽の主人になる」というのはそのような意味だ。

 「旧来の規則」というのは端的に言えば、対位法のことであり、それに「背く」というのはつまり、不協和音を対位法の規則から逸脱して使う、ということを意味する。このような視点のもと音楽を徹頭徹尾、言葉に従わせた結果、モンテヴェルディは音楽に実に豊かな表現力を付与することに成功する。それが逆説的に、言葉からの音楽の自律を促し、のちの器楽の隆盛にも一役買うことになった。

 モンテヴェルディの世俗声楽曲を代表する作品群は、《マドリガーレ集》全8巻の中に見ることができる(他に死後に出版された第9巻も存在する)。16世紀のマドリガーレは、文芸性の高い詩を多声で表現したもの。この全8巻におけるモンテヴェルディ個人の歩みがそのまま、よりダイナミックな音楽史の運びと軌を一にしている。

 第1巻(1587年)でモンテヴェルディは、先輩世代の書法である対位法に依拠して作品を書き上げた。対位法とは複数の声部がそれぞれ独立して旋律を担い、それらが同時に鳴り響くことで不協和音と協和音、すなわち緊張局面と緩和局面とが交互に現れるスタイルのことを言う。モンテヴェルディはこの巻で先輩世代よりも多少、不協和音を大胆に扱っている。

 第2巻(1590年)では対位法の扱いがいっそう洗練され、非の打ちどころのない水準に達した。その上で、詩の情緒を音で表す術を拡大させる。たとえば「新しき夜明けはいまだ訪れず Non si levav’ancor」の冒頭、明けきらぬ太陽の様子を上行音形と下行音形とを同時に使うことで描いてみせた。また「波はささやき Ecco mormorar l’onde」では、旋律を鏡像のように配置することで、海面に映る夜明けの太陽を表現した。

 1592年の第3巻では、より今日的なスタイルが支配的となる。それはイタリアで活躍したフランドル人の作曲家ジャッケス・デ・ヴェルトの確立した様式だ。ヴェルトは言葉の可聴性を重視し、話し言葉に近い音付けを試みた。それは歌としてはぎこちない旋律線と、耳を引く不協和音とに依っている。モンテヴェルディはこの巻で、ヴェルトに輪をかけて強烈な不協和音を用いた。「どうか私の心を引き裂いてくれ Stracciami pur il core」の荒々しくひしゃげた和音は、この第3巻を代表する特徴と言ってよい。

 次の第4巻の出版は1603年。前巻から11年が過ぎている。第4巻以降の新しい試みに鑑みれば、第3巻との間にこれだけの時間が必要であったことにも納得がいく。この第4巻と2年後の第5巻とでモンテヴェルディは、不協和音の扱いにいっそうの独創性を発揮した。即興的に演奏されるものだった装飾音(不協和音を生み出す付加音形)を、楽譜にあらかじめ記したり、不協和音の前後にあるはずの協和音を省いたり。こうして不協和音の使用を拡大し、一様でない緊張感を表現しようとした。これらはいずれも、同時代の他作曲家の創意に基づいている。モンテヴェルディの卓越性は、それらを手のこんだ方法で用いた点にある。第5巻ではすべての作品に通奏低音がつけられた。声部は刈り込まれ、高音部と通奏低音声部とが対置される。

 第6巻(1614年)でいったん16世紀の5声マドリガーレの創作を振り返った上で、1619年の第7巻では17世紀を代表するスタイルを前面に押し出している。その大部分は二重唱だ。この二重唱は3つの型に分けられる。通奏低音付きのマドリガーレ(「いとしい小鳥よ、おまえはなんと優しいのだ O come sei gentile」など)、器楽の繰り返し楽節と歌とが交互に登場するアリア(「黄金の髪、美しき宝 Chiome d’oro」など)、そして低音部の定型旋律に基づく変奏曲(「おお我が恋人はどこへ行った Ohimé do’vé il mio ben?」など)だ。

 作曲家の最後の《マドリガーレ集》となったのが第8巻(一1638年)。第4巻以降の作曲を回顧する大きな曲集で、全体は「戦いの歌」と「愛の歌」とに分かれている。興味深い例は「ニンフの嘆き Lamento della ninfa」。情景を表す2つの部分が、ソプラノの哀歌を挟み込む構成をとる。哀歌は低音部の定型旋律を持っている。男声3声部がソプラノの背景をなし、自由に振舞うソプラノと、厳格に音を運ぶ男声部以下との対置が、不協和音を際立たせている。


「応用」の舞台 ―《オルフェーオ》《聖母マリアの夕べの祈り》

 《マドリガーレ集》全8巻の中に見られたさまざまな工夫は他の舞台、すなわち芝居を伴うオペラや、キリスト教の典礼のための各種声楽作品にも敷衍される。モンテヴェルディの現存する最初のオペラは、音楽寓話劇《オルフェーオ》(1607年)だ。この作品にはマドリガーレ、通奏低音と独唱、さまざまな器楽曲が盛り込まれている。注目すべきは器楽の扱い。編成にはトロンボーンやコルネット(マウスピース付の木製円錐管楽器)、リコーダーやハープなどが含まれる。とくに通奏低音を担当する楽器が多様で、演奏者はその組み合わせを変えて、情景を描き分けることができる。こうした器楽編成を背景に、マドリガーレ集で開拓された各種の声楽スタイルが物語を彫琢していく。その表出力は「バロック時代を扉を開けた」というに相応しい。

 1610年に出版された曲集《教会の合唱による聖母マリアための6声のミサ曲と多声の晩課(聖母マリアの夕べの祈り)》には、多様なスタイルの典礼曲が含まれる。それはモンテヴェルディが、この分野にも長けていたことを示している。ここでも旧来の伝統的な書法を踏まえる姿勢と、そこから距離を置く姿勢とを並置する。旧来の書法はミサ曲に顕著。一方、新しい書法はモテットにあらわれる。《マドリガーレ集》で工夫を重ねた装飾音形が、この曲集のモテットにも顔を出す。この装飾旋律の追求によってこの曲集は、同時代の典礼音楽と一線を画している。装飾は不協和音を生む。不協和音は詩の情緒を細やかに描く。モンテヴェルディは世俗詩に向かうときと同じ姿勢で典礼文にも取り組んだ。そのおかげで、より闊達な音楽解釈が典礼にもたらされた。

 モンテヴェルディのこうした「応用」の骨子は、バロック期をはるかに超え、現代の音楽シーンにまでその影響力を保っている。


初出:音楽現代 2017年2月号


【CD・DVD】

《マドリガーレ集》▼ラ・フォンテヴェルデ

《オルフェーオ》▼カヴィーナ(指揮), ラ・ヴェネシアーナ(管弦楽)

《聖母マリアの夕べの祈り》▼ガーディナー(指揮), モンテヴェルディ合唱団(合唱)





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2017-02-15

[]「動く音楽サロン」フランツ・リスト


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 フランツ・リスト(1811-1886)。ピアノ奏者、作曲家、教育家、慈善事業家、聖職者アイドル、プレイボーイ……。西洋音楽の歴史の中で、これほど「散らかった」肩書きの持ち主もめずらしい。様々な顔を持つリストだが、さらにもうひとつ注目すべき横顔を持っている。19世紀後半、リストは「動く音楽サロン」の役割を果たしていた。

 ピアノの神童と謳われ、若い頃からアイドル演奏家としてヨーロッパ中を飛び回ったリスト。1848年には中部ドイツ・ワイマールの宮廷楽長に就任し、演奏から作曲へと軸足を移す。イタリア・ローマに移住したのが1861年。69年からはワイマール、ローマに、ハンガリーのブダペシュトを加えた3つの都市を行ったり来たりする、「三分割の生活」を始めた。そんな移動生活を営むリストの周囲にはいつも、演奏家や作曲家、音楽愛好家たちが集まってきた。弟子入りを志願したり、作曲のアドヴァイスをもらったり。誰もが善良だったわけではない。中には就職口を世話してもらおう、有力者に推薦してもらおうという思惑を持って来たものもいる。

 リストは誰に対しても良き相談相手だった。弟子入り志願者には稽古をつけてやるけれど、レッスン料は一切、取らなかった。自分を慕ってやってくる作曲家の同僚や後輩たちを励まし、ときには彼らの作品が上演されるように手配さえする。リストは行く先々でそんな人々に囲まれた。リストの足を運ぶところには必ず、音楽サロンができるのだ。たとえば、ジュール・マスネはリストに会うため1864年にローマ、79年にブダペシュト、ヴァンサン・ダンディは73年にワイマール、レオ・ドリーブは78年にブダペシュトを訪れている。みな19世紀後半に活躍したフランスの作曲家だ。

 1861年からリストと親しく交流を重ねていたのは、同じくフランスの作曲家カミーユ・サン=サーンス。作曲ではなかなか、世の中に出るチャンスに恵まれなかった。リストはサン=サーンスのオペラ《サムソンとダリラ》の初演を手配することで、この若い作曲家が世間に認められる突破口を開いた。ロシアの作曲家アレクサンドル・ボロディンが、ワイマールのリストを訪ねたのは1877年のこと。ボロディンは、自分の交響曲の評判が良くないことをリストに相談した。ピアノで彼の交響曲を弾いたあとリストは、「このままで良い。間違ったところはありません」とボロディンを大いに励ましたという。

 若い同僚に対するリストの手助けは、つねに温情にあふれていた。彼の手でたくさんの卵が温められ、それにより次世代の音楽家たちが孵化し、巣立つ。フランツ・リストは19世紀後半の「音楽サロン」そのものだった。


【CD】

ボロディン《交響曲第1番》▼「スヴェトラーノフ・エディション」▼スヴェトラーノフ(指揮) ソ連国立交響楽団 ほか(管弦楽)





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2017-02-09

[]「交響曲で我慢」から「交響曲最高!」へ ― ハイドンの《朝》《昼》《夕》


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「交響曲で我慢」

 交響曲の起源と発展についてはこれまで、いろいろとかまびすしく議論されてきた。その多くは、スタイルや形式の類似性から「前交響曲」と言えるジャンルを洗い出し、その作者たちにスポットを当てる、といった手順を取った。そういった研究は貴重で、聴き手に新たな「耳」、新たな「思考回路」を与えてくれる。しかし、そういった研究をいくら重ねても、当時、交響曲を聴いた人々にとって当の交響曲がどういった意義を持っていたか、という点は明らかにならない。これには別建ての研究が必要になる。

 交響曲は18世紀、ドイツ語圏を中心に広がりと厚みを増していった。なぜ、ドイツ語圏なのか。始めに確認したいのは、交響曲が流行の産物だということ。ただしそれは、交響曲そのものの流行ではなく、17世紀に始まるオペラの流行を指す。オペラはイタリア発の最新音楽。ヨーロッパの宮廷はオペラを宮廷で上演することを、自分たちの権勢を示す目印とした。というのもオペラを上演するには、たくさんの歌手と楽器奏者、豪華な美術や衣装、そして劇場が必要だったからだ。オペラは当時の王侯貴族にとってこの上ないステータス・シンボルだった。

 だからといって皆が皆、オペラを手中に収められたわけではない。大貴族は別として、大方の中小宮廷にオペラ劇場を持つ余裕はない。しかし、楽団だけなら何とかなる。中小宮廷にはオーケストラだけが先行して導入された。こうした中小宮廷は、中央集権君主のいないドイツ語圏に多く存在していた。

 こうした宮廷楽団が演奏するのはもちろん器楽曲。たとえば、合奏協奏曲は宮廷にとって都合の良い演目のひとつだった。少数の専門音楽家と、普段は宮廷で他の仕事をする多数のアマチュア奏者とが楽団を構成しているので、ソロと総奏とが交代しつつ進行するスタイルの合奏協奏曲は格好のレパートリーだ。それが極まれば、ひとりのスター演奏家にスポットライトを当てるソロ協奏曲にも目が向いていく。

 始めのうちはイタリアからの輸入曲を演奏していたが、そのうち自家生産を行うようになる。すなわち、宮廷内の音楽家が曲を作る。その方が安上がりだからだ。やがて、高給の専門家やスター演奏家を必要としないジャンル -- 交響曲が自家生産されるようになる。このように交響曲は、オペラを我慢するための代用品であり、宮廷の経費削減が生み出した窮余のレパートリーだった。


「交響曲最高!」

 ハイドンの交響曲第6番《朝》、第7番《昼》、第8番《夕》の三部作も、そういった文脈の中で生まれてきた。ハイドンは1761年5月、ハンガリーの大貴族エステルハージ侯爵家の副楽長に就任した。副楽長というのは楽団における器楽曲の責任者。教会音楽や劇音楽の責任は楽長が負う。交響曲は副楽長ハイドンの管轄だ。ディースが1810年に出版したハイドンの伝記によれば、エステルハージ侯がハイドンに、朝昼夕を題材にして曲を書くよう指示したとのこと。この3曲が三部作であることが分かる。第7番《昼》の自筆譜には「1761年」と書かれていることから、この3曲が同年の副楽長就任記念作品だった可能性もうかがえる。

 オペラに代わる楽しみ、副楽長として責任を追う分野、就任記念の三部作と、ハイドンにとって創作意欲を充分に刺激するポイントの揃ったこの3曲。そこに施された工夫はなかなか興味深い。「朝・昼・夕」という各曲のタイトルはもちろんのこと、楽章レヴェルにも標題性が顔を出すところもそのひとつ。第8番《夕》の終楽章には「嵐」とタイトルがつけられている。ここでは音による自然描写が繰り広げられる。のちの劇音楽創作につながっていくような音画技法だ。こういう形でハイドンは、オペラなどが持つ劇的な性格を交響曲に取り入れている。

 交響曲のオペラ化と言えばもうひとつ、第7番《昼》の「レチタティーヴォ」も注目点。大規模な声楽曲でストーリーを進め、アリアとアリアをつなぐ役目の朗唱・レチタティーヴォを、独奏ヴァイオリンで模倣した。つづくト長調のアダージョに向け、緊張感を高めるのに一役買っている。

 興味深いのは、3曲が独奏楽器の名人芸に彩られた交響曲であること。その意味では、合奏協奏曲や協奏交響曲とも通じる。フルートやヴァイオリン、チェロなどの活躍は聴き逃せないところだ。ここから、当時のエステルハージ宮廷楽団には当該楽器の名人が揃っていたことが分かる。また、副楽長就任に際してハイドンが、それら名人に活躍の場を与えることで、楽団の人心掌握を試みていたことなどもうかがい知れる。

 これらの工夫には、交響曲を「オペラの代用品」から「傾聴に値するジャンル」へと昇華させようとするハイドンの意図がよくあらわれている。以後、30年以上に渡って繰り広げられるハイドンの交響曲創作の基本姿勢は、すでにこの三部作に刻印されている。


【CD】

ハイドン 交響曲《朝》《昼》《夕》▼シギスヴァルト・クイケン(指揮), ラ・プティット・バンド(管弦楽)



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2017-02-02

[] ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》作品123


鈴木雅明の指揮でバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)が、ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》を演奏する(2017年2月3日 於 東京オペラシティ)。それに向けて、以前この作品の演奏会のために書いた解説を、ここに再掲載。予習/復習用にどうぞ!

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典礼音楽】

 ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴くと、はたしてこれは典礼音楽(実際に儀式に用いる音楽)なのだろうか、という疑問が浮かんでくる。演奏時間の長さ、楽器編成の大きさ、演奏の難易度の高さなどは、宗教儀式に付随する音楽という枠組みを超え出ている。同じような疑問にさらされる曲にバッハの《ミサ曲ロ短調》がある。演奏時間の長さや構成上の問題に、楽曲成立の複雑な事情も相まって、典礼用と言うには据わりが悪い。そのあたりのことを、かつてのライプツィヒ・トーマスカントル(トーマス教会音楽責任者)クリストフ・ビラーに尋ねたことがある。彼は当惑した表情で「《ミサ曲ロ短調》を典礼音楽でないと思ったことはない」と言った。実際、歌手出身であるビラー自らが先唱(グロリアとクレドを導く独唱)を歌いつつ、ミサ司式に則って《ミサ曲ロ短調》を演奏したこともある。

 合唱団とオーケストラを統括する教会音楽監督、そしてバッハの後継者としての矜持が、彼にそのように言わせ、行動させたのだと思う。ビラーと同じように、ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》は「典礼音楽」だと、ここで言っておきたい。その理由を考えてみよう。


【ミサ・ソレムニス】

  「ミサ」とは、キリストの最後の晩餐を起源とする儀式。キリストの身体(の象徴)であるパンと、血(の象徴)であるぶどう酒とを参加者で分け合うことで、キリストの贖罪を記念し、共同体の一員であることを確認する。「ミサ・ソレムニス」は典礼上、「盛儀ミサ」と呼ばれる大規模な儀式を指しており、複数の聖職者が奉仕する。ミサ曲は、この「盛儀ミサ」で式文を唱えるのに用いられる音楽だ。中世を通じて多くの単旋律聖歌が生み出されてきたが、13世紀頃までには多声音楽が創作されるようになり、14世紀にはミサ通常文(いずれのミサにも共通の式文)5章をまとめて作曲する「通作ミサ曲」が作られるようになる。以後、多くの音楽家が教会での典礼に資するためにミサ曲を書いた。一方、誰もが同じ式文に音楽を付けることから、ミサ曲は音楽家の力を試す格好の材料と捉えられ、その考え方は19世紀の前半にもなお残っていた。


 ベートーヴェンは1819年頃、パトロンであるルドルフ大公の大司教就任ミサのために作品123の作曲に取りかかったが、結局、式に間に合わすことができなかった。しかし、その後も作曲の手を休めることなく、丸4年の歳月をかけてミサ曲を完成させた。特別な機会のためというのが作曲の動機だったが、結果としてこのミサ曲は、ベートーヴェンが自発的に作曲したものと考えてよい。


【真の教会音楽】

 ベートーヴェンは教会音楽に関して次のような証言を残している。

「古い教会旋法では敬虔さが神々しい。神よ、いつか私にも実現させて下さい」(1809年のメモ)

「真の教会音楽を書くためにはグレゴリオ聖歌の通読が不可欠」(1818年の日記)

「このミサ曲には無伴奏の箇所もある。この様式こそ唯一の正しい教会様式だ」(1823年の書簡)

 彼は、教会旋法を用いた音楽を無伴奏で演奏することに、教会音楽として最高の価値を置いている。また、対位法を駆使した古様式への傾倒もみられる。19世紀初頭のヴィーンでは、復古的な教会音楽、たとえばパレストリーナらの音楽が推奨されるようになっていた。ベートーヴェンが教会旋法・無伴奏・古様式に力点をおき、「真の教会音楽」を実現しようとしたのも、そういった楽壇の潮流が背中を押したからと言えるだろう。これらの特徴は、《クレド》の「そして肉体を受け」(ドリア旋法)・「そして復活した」(無伴奏/ミュクソリディア旋法)でもっとも鮮やかに現れる。また《グロリア》の「父なる神の栄光のうちに」、 《クレド》の「そして来世の生命を」での大規模なフーガに、伝統的な通作ミサ曲への傾倒がはっきりと刻印されている。ベートーヴェンは「真の教会音楽」で、処女懐胎と復活というキリスト教最大の神秘を強調した。そこに彼の典礼文解釈が透けて見える。


【「神の家」を創出するミサ曲】

 《サンクトゥス》と《ベネディクトゥス》の間に位置する器楽間奏《プレルーディウム》にも注目したい。典礼上この場面では、パンがキリストの身体に、ぶどう酒がキリストの血に変化する。ヴィーン宮廷礼拝堂のミサでは当時、この場面でオルガンが用いられていた。木管の低音域に軸足を置く《プレルーディウム》は、このオルガンの響きを模倣している。

 この工夫は、「オルガンのある教会、すなわち神の家で演奏されるのがミサ曲」という従来の「常識」を逆転させ、たとえそこにオルガンがなくても「このミサ曲が響く場所こそが神の家」という構造を作り出している。


【真の典礼音楽《ミサ・ソレムニス》】

「この大ミサ曲の作曲に際し、第一に意図したことは、歌い手にも聴き手にも宗教的な感情を呼び覚まし、持続させることだった」(1824年の書簡)

 ベートーヴェンがここで想定している共同体は決して、敬虔な信徒集団ではない。なぜなら、敬虔な人々の心に改めて「宗教的な感情」を呼び覚ます必要はないからだ。 ベートーヴェンが想定しているのは、(当時の人々なのか人類一般なのかは別として)もろい信仰心しか持ち合わさない聴き手や演奏者である。神の家を創出させる工夫で時間と空間の制約を超え出で、真の教会音楽、すなわち教会旋法・無伴奏・古様式の音楽を通して自らの典礼文解釈を知らせることで、神に対して感度の低い人々を教化する。そんなベートーヴェンの意図が、上記の書簡にありありと現れていよう。 彼が目指したのはまさに、「真の典礼音楽」だった。


【CD】

ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》作品123▼ガーディナー(指揮), モンテヴェルディ合唱団(合唱), イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(管弦楽)





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2017-02-01

[] 戦後のピアノ協奏曲


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 第二次世界大戦後にもピアノ協奏曲を書く作曲家はいたが、その目指すところはそれまでの創作とは異なっている。戦後のピアノ協奏曲は、多くの音楽ジャンル同様、解体される運命にあった。もちろん18世紀以来、鍵盤楽器の協奏曲を書く作曲家はつねに、規範からの逸脱を創作のエンジンとしていた。しかし、解体そのものが目的と化したのは、20世紀に特有のことだ。

 イーゴリ・ストラヴィンスキーは1959年の《ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ》で、十二音技法を使った。ただしストラヴィンスキーは、音列を細切れにして、それをさまざまに組み合わせることで、自分の和声感覚やリズム感覚により適した形へと技法を変化させた。あわせて、テンポを「しりとり式」にリレーすることで、楽章それぞれの区分と連続性とを同時に示すことに成功する。様式や技法を自分の創作法に引き寄せることで、ストラヴィンスキーは新たな絵筆を手にした。このことがのちの創作にもつながっていく。

 1965年に《ピアノ協奏曲》を書いたエリオット・カーターは、力と力のぶつかり合いをベートーヴェン風に描いた点で、旧来の協奏曲のスタイルを利用してはいる。技法の点ではピッチクラス・セット、この協奏曲で言えば3つの音をさまざまに重ね合わせる方法を、コンセプトの点ではピアノ陣営とオーケストラ陣営二者の妥協のない戦闘を採用した。カーターはベルリンで、街を分断する壁を眺めながらこの曲を書いた。対決姿勢を崩さない両陣営は、壁の両側を象徴しているようにもとれる。ここに「協奏しない協奏曲」のラジカルな姿がある。

 《プリペアドピアノのための協奏曲》(1951年)と《ピアノとオーケストラのためのコンサート》(1958年)とでジョン・ケージは、「偶然の音楽・不確定の音楽」の中にピアノ協奏曲を投げ込んでしまった。前者は魔法陣によって自動的に作曲した「偶然の音楽」、後者は様々な要素が演奏現場の選択に委ねられる「不確定の音楽」にあたる。少なくとも技法の点で、解体は進むところまで進んだ。とくに「コンサート」の初演は、聴衆の激烈な反応を引き出した。そこにこの作品の「解体ぶり」がよく表れている。

 こうした状況を尻目に1967年、矢代秋雄もまた《ピアノ協奏曲》を書いた。矢代はNHKの委嘱により1964年にこの作品に着手し、3年後に完成させる。ピアノ協奏曲が解体されていく時勢の中で矢代は、この分野を総括するような曲を書き下ろした。急緩急の三楽章制、冒頭楽章のソナタ形式、終楽章のロンド形式、標準的な管弦楽編成などは、従来の協奏曲の外形をよく守る。一方で、無調の節回しや表現主義的な和音の推移、伸縮するリズムにより、どこか歪みのある音世界を描き出していく。解体されるピアノ協奏曲の姿を、矢代一流の筆で書き残す。この《ピアノ協奏曲》は、そんな歴史的な目論見を内に秘めているかのように響く。

【CD】

イーゴリ・ストラヴィンスキー《ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ》

エリオット・カーター《ピアノ協奏曲》

ジョン・ケージ《プリペアドピアノのための協奏曲》《ピアノとオーケストラのためのコンサート》

矢代秋雄《ピアノ協奏曲》



初出:モーストリー・クラシック 2016年1月号




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2017-01-28

[] 三本の柱が支える立体感 ― バッハ《音楽の捧げ物》


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 バッハはその晩年、いくつかのツィクルスに取り組んだ。ツィクルスとは「連作」のことで、互いに関連の深い楽曲をひとまとめにしたもの。器楽曲では《ゴルトベルク変奏曲》《フーガの技法》《高き御空より我は来たり》《音楽の捧げもの》、声楽曲では《ミサ曲ロ短調》がバッハの最後の課題だった。

 そのうち、作曲のきっかけがはっきりしているのは《高き御空より我は来たり》と《音楽の捧げもの》。後者のバックグラウンドはとりわけ興味深い。1747年5月、バッハはプロイセンのフリードリヒ大王に招かれ、ポツダムを訪問した。そこで大王から「王の主題」が示され、バッハはそれに基づいて即興演奏を行った。ふた月後「王の主題」をさまざまに用いて作り上げた曲集を大王に献呈。その後、そこに数曲を書き足して出版した。

 《音楽の捧げもの》は他のツィクルスと同じく「厳格な作曲法の集大成」の意味合いが強い。一方、際立って違うのは、そこに即興演奏の痕跡や実演の見込みが織り込まれていること。即興演奏を跡付ける《三声のリチェルカーレ》、厳格書法の代表《六声のリチェルカーレ》、王の演奏を見込む《トリオソナタ》はこの曲集の三本の柱だ。この三本柱を、古楽第一世代のグスタフ・レオンハルトと、第二世代の有田正広とで比較してみよう。

 《三声のリチェルカーレ》はどちらもチェンバロの独奏で、レオンハルト盤は自身が、有田盤は有田千代子が担当している。レオンハルトの方がわずかにテンポが速く、そのことが即興演奏のライブ感を増す効果を持つ。いっぽう有田の落ち着いた足取りからは、三連符でのギアチェンジがよりはっきりと感じられる。18世紀半ばの「当世風」がそこににじみ出ている。

 取り組みとして面白いのは《六声のリチェルカーレ》。レオンハルト盤は自身のチェンバロ独奏だが、有田盤にはチェンバロ独奏の他、合奏版が収録されている。楽器の音色の違いが、迷子になりがちな聴き手の耳を自然に対位法へと誘う。

 室内楽編成の対位法楽曲として捉えるか、対位法のスパイスの利いた室内楽曲と捉えるか。《トリオソナタ》に相対するときにはこうしたことが問題になる。レオンハルト盤のクイケン兄弟とロベール・コーネンは前者寄り、有田盤の有田正広、寺神戸亮、中野哲也、有田千代子は後者寄り。その傾向は最終楽章に最も強く出る。クイケンらは各パートが絡みつつ水平方向に進んでいく対位法そのものを推進力として利用する。一方、有田らはこの楽章の本来の性格である舞曲ジグのリズムを活かして、それを駆動装置とする。もちろんクイケンらも舞曲のリズムを捨てないし、有田らも対位法の絡み合いの妙を放り出したりはしない。バランスの取り方が微妙に異なるということだ。

 厳格さ、即興性、臨場感。抽象的なツィクルスと思われがちなこの曲集の真の魅力は、両者の録音を比較することで立体的に立ち現れてくる。


【レオンハルト盤】グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)▼バルトルト・クイケン(フラウト・トラヴェルソ)▼シギスヴァルト・クイケン(バロック・ヴァイオリン)▼ヴィーラント・クイケン(ヴィオラ・ダ・ガンバ)▼ロベール・コーネン(チェンバロ)▼録音:1974年〔SRCR-2123〕


【有田盤】有田正広(フラウト・トラヴェルソ)▼寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン)▼若松夏美(バロック・ヴァイオリン)▼中野哲也(ヴィオラ・ダ・ガンバ)▼有田千代子(チェンバロ)▼録音:1993年〔COCO-70463〕


初出:モーストリー・クラシック 2014年6月号




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2017-01-24

[] あの音楽家の演奏が聴きたい ― 鍵盤楽器編


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バッハ

 「バッハこそ、この世がはじまって以来もっとも傑出したオルガン奏者でありクラヴィーア奏者である」(『故人略伝』1754年)

 故人の業績を讃える言葉だから少し大げさだが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)が鍵盤楽器奏者として並外れた能力を持っていたことはまちがいない。鍵盤楽器の達人という評価はバッハが30歳代の頃にはすでに広まっていたようで、こんなエピソードが残っている。1717年にドレスデンで、フランス人演奏家ルイ・マルシャンとクラヴィーアの弾き比べをすることになったバッハ。ところがこの勝負はマルシャンの敵前逃亡でお流れに。バッハの強者ぶりが忍ばれる。

 そんなバッハがもっとも愛した鍵盤楽器は何か。1802年にフォルケルが著わした『バッハ伝』には「バッハがもっとも愛した楽器はクラヴィコード」とある。たしかに幼い頃から親しみ、もっとも長い時間触れ合った鍵盤楽器はクラヴィコードに違いない。クラヴィコードは、誰かに聴かせるための楽器というよりも、自分で演奏し自分で聴くための楽器。たいへん音が小さいが、一方でチェンバロには出来ないクレッシェンドや、ヴィブラート(!)のような表現も可能だ。鍵盤楽器で細やかな楽想を表すには、今も昔もクラヴィコードがもっとも適している。

 バッハがこの理想の鍵盤楽器を使って自分の満足のために演奏した音楽。最も聴きたい演奏は、と問われれば、そう答えるより他にない。


ルフェビュールとフランソワ

 バッハが聴きたい、モーツァルトも良い、ショパンやリストもぜひ、と言っていると想像力だけが頼りになってしまうので、せめて録音、つまり故人を思いやる「よすが」の残る演奏家に照準を合わせよう。

 イヴォンヌ・ルフェビュール(1900-1986)はフランスのピアニスト。シューマンやラヴェルで水際立った演奏を聴かせてくれる。たとえば、シューマンの《交響的練習曲のための5つの変奏曲》(作品13補遺)では、内声に隠れている旋律線をごく自然に浮き彫りにすると同時に、その内声を音色づくりのパーツとしても活かす。横の流れと縦の響きとを妙なるバランスで実現できるところが大きな魅力だ。

 こうした演奏スタイルは弟子にも受け継がれた。たとえば、サンソン・フランソワ(1924-1970)。師のルフェビュールをたいそう困らせる「不肖の弟子」だったようだが、その「ピアノの流儀」ついてはしっかりと受け継いでいる。横と縦、歌と響きが両立する演奏は、ドビュッシーの《ベルガマスク組曲》などで聴くことが出来る。


ソフロニツキーとリヒテル

 一方、目をロシアに向ければ、ウラディーミル・ソフロニツキー(1901-1961)の存在感が際立っている。ソフロニツキーは、自身の音楽の基礎をショパンに置いていた。彼がスクリャービンを頻繁に採り上げたのも、この作曲家が自分に劣らぬショパン好きだと見抜いていたからだ。実際、スクリャービンはショパンに心酔していた。そのことは彼のピアノ曲のタイトルやスタイルを眺めれば、自ずと浮かび上がってくる。つまりソフロニツキーとスクリャービンをつないでいるのは他でもない、ショパンなのだ。

 ショパンの《ポロネーズ 変イ長調》作品53、俗に「英雄ポロネーズ」と呼ばれる作品。「有名な(低音部の)オクターブのパッセージ(第83-119小節)をピアニッシモで始め、ダイナミックなクレッシェンドをそうとは気づかせずに終わりまでもっていく」。また「(第137-150小節の低音部では)心もち間延びしたアクセントをつけて、遠くから聞こえてくる大砲の、鈍い轟音のような感じを出す」。これらは、ショパンが「英雄ポロネーズ」を演奏したときのことを同時代人が回想したものだ。同時にソフロニツキーの演奏の特徴にも見事に合致している。ことほど左様にソフロニツキーは、ショパンの演奏に肉薄していた。

 そんなソフロニツキーを追う世代として台頭したのが、スヴャトラフ・リヒテル(1915-1997)だ。シューベルトの《クラヴィーア・ソナタ第21番 変ロ長調》D960は長大な楽曲で、下手をすると聴き手に間延びした印象を与えかねない。しかし、リヒテルの手にかかれば、この曲に見事な内実が与えられる。それは和声進行、つまり緊張と緩和の積み重ねに手抜きがないからだ。たとえば「ドミソ」(緩和)に戻る前の「ソシレファ」(緊張)で、「シ」と「ファ」を厚く響かせる。そんな細部の積み重ねが、ひとつひとつの終止、ひとつひとつの転調を深く意味付ける。この「彫りの深い和声進行」によって長大な曲をぎゅっと束ねる音楽性が、この音楽家の身上だ。そういう演奏だからこそ、ベートーヴェンが活き、リストが活き、プロコフィエフが活きる。


初出:音楽現代 2012年6月号


【CD】

ルフェビュールフランソワソフロニツキーリヒテル



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