Hatena::ブログ(Diary)

現代古楽の基礎知識

2016-09-23

[] ハレ・ヘンデル音楽祭2016


 中部ドイツの丘陵地帯、ザクセン・アンハルト州の街ハレは、ヘンデルの生まれ故郷として知られている。そのことはこの街にとって、精神的には誇りであり、経済的には観光資源でもある。ヘンデル音楽祭では、この両者が密接に結びついている。とりわけ作曲家の没後250年だった2009年を境に、音楽祭の水準は飛躍的に向上。精神面での充足度も経済面での恩恵度も上がっている。もちろん参加する聴き手の満足度も高い。

 2016年もまた、この音楽祭の魅力は充分に発揮された。ひとことで言えばそれは「歌」。5月27日から6月12日までの17日間、オペラやオラトリオの分野で活躍したヘンデルの真骨頂を、52のプログラムで明らかにした。

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 5月28日に聴いたオペラ《カトーネ》(演奏会形式、ウルリヒ教会コンサートホール)にまず、驚かされた。この作品はパスティッチョで、レオ、ハッセ、ポルポラ、ヴィンチ、ヴィヴァルディと当時随一のオペラ書きのアリアを、ヘンデルが継接ぎしたもの。各地に散らばる高名な作家たちの曲をかき集められる立場にヘンデルがいたという点に、この作曲家の社会的立場の強さが表れている。

 瞠目すべきは演奏陣。みな達者だが、図抜けて強い印象を残したのはソニア・プリーナ(カトーネ役、写真前列左から3番目)だ。男性アルト歌手の活躍が目立つこの分野で、「私がいるぞ!」という存在感を前面に出すメゾソプラノ。歌はつねに芯のある響きで明晰。つまり「明晰」に笑い、「明晰」に誇り、「明晰」に陰り、「明晰」に嘆く。18世紀の感情表現の王道だ。男性アルトには避けがたい「音域のつなぎ目の段差」がなく、レジスターの変わるキワも清洌。そういう歌手だから「重みのある堂々としたコロラトゥーラ」などという芸当も、さも当たり前にこなす。バロック・オペラの主役の典型「高潔な人士」を演じるために存在するかのようなメゾ。聴衆はさかんに拍手を送っていた。

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 オーストラリアの男性アルト歌手、デイヴィッド・ハンセンによるガラ・コンサートは、5月30日(フランケ財団ホール)。たいへんな「こもり声」の持ち主だが、音域の上から下まで安定して均一な声を出せる。それを土台に針から丸太まで自在に息の太さを変える。見事なのは音程で、まったく外さない。もっとも素晴らしいのは、そういう演奏上のタレントに溺れず、徹頭徹尾、子音と母音、すなわち言葉の伝達に留意していたことだ。「こもり声」の男性アルト歌手にありがちな「不安定/音程が悪い/言葉が乗らない」という問題を、すべて解決している。その上、サービス精神が旺盛で、音楽上も見世物上も、楽しい舞台となった。

 オーケストラ(デ・マルキ指揮、アカデミア・モンティス・レガリス)も佳い仕事をした。歌手の「こもり声」の響くところとは異なる位置に、管弦楽の合いの手や言い争いの「声」を響かせるので、音響空間を棲み分けた上で曲の全体像を示すといった、よくできたパズルのようなサウンドを実現した。

 男性アルトに負けない前掲のプリーナにも感心したが、すぐにプリーナにも負けない男性アルト歌手を出演させるあたり、ハレ・ヘンデル音楽祭のディレクターは実に優秀だ。

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 6月2日はパーセルの夕べ(演奏会形式、ウルリヒ教会コンサートホール)。ヘンデルのパスティッチョ・オペラ《ディドーネ》の上演があるので、演目上の比較対象として《ダイドとイーニアス》が披露された。当音楽祭常連のラファエッラ・ミラネシ(写真右)がダイドを歌ったが、この日とても感心したのはカナダのソプラノ、ステファニー・トゥルー(ベリンダ役、写真左)。英語歌唱のスペシャリストで、パーセルの「言葉と音楽の結びつきの濃厚さ」を充分に堪能させてくれた。

 ボニッゾーニ率いるラ・リソナンザはイタリアの団体ながら、英国風の音さばき。清澄な協和音の一方で、ときおり現れるパーセルの強烈な不協和音をきちっとぶつける。英語自体の音楽性に真正面から向き合う時間となった。

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 打って変わって6月4日は、ヘンデルの英語オラトリオを聴く(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル・ホール)。バビロンの崩壊を描く物語《ベルシャザール》は、旧約聖書の「ダニエル書」に基づく。ペルシャの王子サイラス役(ヴァレル・サバドゥス)などに拍手が大きかったが、この日、見事だったのはベルシャザール役のテナー、トーマス・ウォーカーと合唱のRIAS室内合唱団だ。

 第1幕第4場、ウォーカーの登場で場の空気が一変した。バビロン王の威厳と横暴、そして瀆神への不安を表現していく。アリアの素晴らしさはもちろん朗唱の言葉運びも、ひとことも聴き漏らせない求心力。パドモアやギルクリストに続く、英国テナーの系譜をまざまざと見せつけた。

 RIASの合唱のすばらしさは、テナーをうまく使う点にある。たとえば緊張から緩和に移るとき、緩むところでテナーを厚めに響かせる。内声によって全体がレジスターチェンジする様子は、緊張が内面から解かれていくのと軌をひとつにしている。このテナーの出し入れを、レジスターチェンジだけでなく、響きの立体感を出すのにも利用。それをさらにパートの絡み合いの交通整理に使うところが肝だ。

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 6月7日の演奏会「ヘンデルのiPod」は、ヘンデルゆかりの地らしいプログラム(ハレ大聖堂)。作曲家が青年期に聴いていたであろう音楽を、同じく青年期に作曲家が奉職した教会の御堂で聴く。カペラ・デ・ラ・トッレがさまざまな古楽器を駆使して、16世紀から17世紀の作品を紹介した。そこに「ヘンデルのiPod」と名前をつけたことで、生まれ故郷・青年ヘンデル・ゆかりの教会・愛聴曲といった連環が生まれる。ハレでなければできないプログラムに、音楽祭参加者の顔もほころんだ。

 来年年の音楽祭は5月26日から6月11日まで。ヴィヴィカ・ジュノーやアン・ハレンベルクの出演が決まっている。(http://www.haendelhaus.de


初出:音楽現代2016年9月号




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2016-09-16

[] シューマン《チェロ協奏曲》《ピアノ三重奏曲第1番》─ ケラス, ファウスト & メルニコフ


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ジャン=ギアン・ケラス(チェロ), イザベル・ファウスト(ヴァイオリン), アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ), パブロ・ヘラス=カサド(指揮), フライブルク・バロック・オーケストラ(管弦楽)〔KKC5618〕

ケラス、ファウスト、メルニコフが取り組むシューマン特集の第3弾は、「チェロ協奏曲」と三者全員参加の「ピアノ三重奏曲第1番」とのカップリング。この2曲の楽想の対比がよく出る録音に仕上がった。室内楽的な協奏曲と管弦楽的な三重奏曲という、ねじれた対比。両者は根の部分でつながっている。いずれも極めて精緻な造り。それを突き詰めた結果が対比的になる。精緻さを追求するには、音楽家たちが作品理解を共有することが必要。管弦楽を含めた演奏家全員で、それを分かち合っていることは、音楽的な対話のきめ細かさや、緊張と緩和の一致した移り変わりから聴き取れる。和声の思わぬ歩みを克明に追った三重奏曲第3楽章に息を飲む。

初出:音楽現代2016年9月号



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2016-09-12

[] バーデン・バーデン イースター音楽祭2016


 ドイツ南西部のバーデン・バーデンは、温泉保養地として有名な街だ。長逗留の療養客も多い。そのため、長い滞在でも飽きがこないよう、この街には湯治客向けの各種施設がたくさんそなえられている。ローマ風の公衆浴場、川沿いの遊歩道、色とりどりの花の咲くバラ園、いくつかの美術館、さらには欧州で最も美しい内装のカジノまで。

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 そんな「歓楽」の中心となるのが、オペラやコンサートの公演を行う劇場だ。1998年に開場したバーデン・バーデン祝祭劇場は、良質なプログラムで近年、この街の魅力を高めてきた。そんな祝祭劇場が2013年、イースター音楽祭をベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とともに始めた。ふだんオペラの演奏を行わないベルリン・フィルが、祝祭劇場のピットに入り、サイモン・ラトルがとっておきの演目を振る。そのオペラ公演の合間には、管弦楽や室内楽のコンサートも持たれるから、10日ほどの音楽祭期間は休むひまもなく(とはいえ楽しく)演奏会通いをすることになる。4回目となる今年は、3月19日から28日までの10日間、祝祭劇場を中心に市内の各所で31公演が持たれた。

 今年の目玉はワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」。ラトルとベルリン・フィルが満を辞して取り組むプログラムだ(19・22・25・28日)。

 舞台設定は現代。第1幕の美術はマンガのコマ割り風、もしくはビルの壁面を剥がしたような見た目(ザ・ドリフターズの長屋コントと言ったほうが通りがよいか......)で、同時進行する各部屋の様子が、客席から一度に見渡せる。それが第2幕になると横長画面の映画風、第3幕では舞台平面を活かした演劇風となり、第一幕も含め、それぞれにふさわしい劇的表現がとられる。一貫しているのは、プロジェクション・マッピングを含む、光の表現だ。小さなもので言えば、トリスタンやイゾルデの点すタバコの灯りや、暗い舞台に散らばる将校たちの手袋の白色。大きなもので言えば、舞台の進行に覆いかぶさるように映写されるさまざまな映像。マンガ・映画・演劇といった表現技法の違いによって各幕に視覚上の対比が出る一方、全幕に登場するこうした筋の通った光の表現によって、舞台美術の一貫性が保たれた。

 演出も細部まで行き届く。瞬間瞬間の積み重ねが音楽や美術と呼応する様子には、パズルのピース同士が組み合わさっていく感触がある。それが「トリスタンとイゾルデ」の筋書きを描き出すだけでなく、現在、欧州で議論を呼ぶ難民とその受け容れの問題に、人々の意識を向けさせる。

 こうした視覚上・想念上の奥行きをいっそう深め、舞台の大黒柱として当夜、君臨したのが管弦楽だ。このオペラでラトルは、調のある音楽の緊張と緩和、両者の交錯による段落感をひとつひとつ大事に取り扱った。そのおかげで、たとえば冒頭の「トリスタン和音」や、句点が先延ばしされていく和声的肩透かしなどが、新鮮な表現技法として聴き手の耳に届く。

 イゾルデのヴェストブロックにせよトリスタンのスケルトンにせよ、充分な声量ながら声を張り上げるというわけではなく、つねに繊細な歌いぶりで管弦楽と歩みを共にする。音楽上のまとまりのよさは、歌手たちの弁えのある歌唱によってもたらされた。

 管弦楽公演には世界的な奏者がソリストとして起用された。ヨーヨー・マがホーネックの指揮のもと、シューマンの「チェロ協奏曲」を(20日)、ジャニーヌ・ヤンセンがラトルの指揮のもと、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲」を披露した(26日)。白眉内田光子がラトルの指揮のもと弾いた、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第22番」だった(21・27日)。

 「ピアノ協奏曲」冒頭の堂々とした付点リズムにすでに、オーケストラの音楽運びの芯が見える。弦楽器の弓づかいや管楽器の息づかいの綾を、始めの数小節で表現。遅れて登場する内田の独奏も、これに応える。低音部には弦楽器の音色、高音部にはフルートの音色をあて、両者を中音域のクラリネット風の音でつないでいく。こうして管弦楽とピアノという「大小のオーケストラ」が、さかんにおしゃべりを交わすようなモーツァルトを実現する。

 管弦楽は小さな編成で、ピアノの音も控えめ。大劇場に朗々と響くといった風情ではない。それにもかかわらず、ぎゅっと目の詰まった密度の濃い音楽が耳に届く。内田、ラトルとベルリンフィルの、横綱相撲だった。

 オーケストラ単独で言えば、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」が、きわめて強い印象を残した。「音楽の考え方」を中心に置いて、その上で各パートの演奏技術の精度を最大限に追い込むと、管弦楽には信じられないほど力がみなぎる。たとえば弦楽パートの中で、弓の上下運弓には力動の差異があり、その差異は子音の多彩さに、拍節の推進力に、和声の緊張感の推移につながるなどということを共有し、その上で飽和するまで技術水準を高める。そうすると作品のどんな場面でも、そこにあるべき音楽が明確に像を結ぶ。オーケストラのそうした姿勢によって、「堆積し、崩壊し、溶けていく。それを螺旋状に繰り返す」といったショスタコーヴィチ特有の音楽の運びが、超高精細で目の前に開ける。この音楽祭の歴史に残るであろう名演だ。

 20公演にも及ぶ昼間の室内楽の内、とりわけ素晴らしかったのは20日の演奏会。ドイツの若手バリトン、ハンノ=ミュラー・ブラッハマンが、シューベルトの「魔王」を中心にドイツ歌曲を歌った。演じ分けの声色が違うという歌手は多々あれど、演じ分けの息の形が違うという保守本流本格派は、ドイツでも稀な存在だ。

 バーデン・バーデン、ベルリン・フィル、ラトル、多彩なソリストたち。一流が一流を呼ぶさまを見るのに、この音楽祭はうってつけの機会。来年は4月7日から17日に開催される。ベルリン・フィルの次期音楽監督キリル・ペトレンコの出演も決まっている。( http://www.festspielhaus.de


写真:内田光子とサイモン・ラトル (c)Monika Rittershaus

初出:音楽現代2016年6月号




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2016-08-30

[] トーマス・ルフ展(東京国立近代美術館)


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 ドイツの写真家、トーマス・ルフの展覧会のため、竹橋の東京国立近代美術館へ。壁を埋める作品のうち、とりわけ興味をひかれたのが《ma.r.s.》(2010〜)と題されたシリーズ。NASAの火星探査機に積まれた高性能カメラで撮影した画像を、デジタル処理して作品に仕上げてある。火星の地表を高精細に切り取るが、これが人間の肌や植物の一部分を接写したものに見えてくるから面白い。「非常に遠距離にある巨大な無機物を撮影した」にもかかわらず「ごく身近にある有機物をミクロに接写した」ようだなんて、逆説的にもほどがある(褒めてる)。巨視と微視とは紙一重だ。

 さらに面白いのはシリーズの内のひとつ《3D_ma.r.s. 10, 2013》。火星表面のクレーターを写し出す一枚だ。その名の通り専用メガネをかけて立体視する。するとクレーターがくぼんで見える。この工夫自体はありふれているが、今のところ実際に目にすることが叶わない火星の風景を、脳内に浮かび上がらせるというコンセプトはよく理解できる。こうしたイリュージョンはアートの根本機能のひとつ。

 ふと思いついて、メガネの左右を逆にしてみた(俗に言うウルトラマン・メガネ)。すると、先ほどくぼんでいたところが山となって盛り上がる。「くぼんでいると観測されたところ」を「くぼんでいると見る」ことさえ、我々にとってはイリュージョンなのに、「くぼんでいるところ」に「山の盛り上がりを見る」とはイリュージョンのイリュージョン、「二重イリュージョン」だ。虚と実もまた紙一重である(せいぜいメガネを逆さにするくらいの違い)。シンプルで力強いコンセプト、単純な仕掛け、それをひと捻りしたときに生じる奥行きの深さ。この作品のアート上の底力を見た瞬間だった。

 展覧会においでの際は、ただメガネを正しく掛けるだけでなく、その左右を違えて作品を眺めてみるとよい。図録にもメガネが付いているので、この「遊び」ができる。おすすめ。

トーマス・ルフ展:http://thomasruff.jp/event/




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2016-05-15

[] 追悼 ニコラウス・アーノンクール


 2007年6月9日、中部ドイツ・ライプツィヒは晴天。折からの猛暑で、石畳の道には蜃気楼が見える。旧市街の西側にはバッハゆかりのトーマス教会が建つ。この日、トーマスの聖歌隊席に陣取ったのは、ニコラウス・アーノンクールと彼の楽団コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンだ。7日から始まったバッハ音楽祭の3日目、彼らはここでバッハのカンタータを演奏する。普段なら夏でも、御堂の空気は冷んやりとしている。しかしこの年は、教会の中まで熱波が入り込んでいた。

 長堂のほぼ中央、説教壇に近い座席の周囲ではみな、プログラム冊子を団扇代わりにして少しでも涼を得ようとしている。しばらくすると、階上西側の聖歌隊席にアーノンクールが姿を現した。正礼装の燕尾服を着ている。桁外れの暑さの中、彼がホワイト・タイで身を固めたのには理由ある。

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 バッハ演奏を志す者にとって、トーマス教会は特別な場所だ。バッハが働き盛りの時に赴任し、亡くなるまでそこで活動を続けた。その場所で演奏することの意味は、音楽家それぞれに異なるだろう。しかしその意義は、誰にとっても非常に深い。アーノンクールにとってトーマス教会の聖歌隊席は、正礼装で臨むべきところだった。彼がこの聖歌隊席で演奏したのは、この日が初めてであると同時に、この日が最後。彼にとってこの公演は、文字通り一世一代の大舞台だった。

 オーストリアの音楽家ニコラウス・アーノンクールは1929年12月6日、ベルリンで生まれた。まもなくオーストリアのグラーツに移り、そこで少年期を送る。48年にウィーン音楽院に入学、チェロを学んだのち、52年にウィーン交響楽団に加わり、69年まで同団のチェロ奏者として活動した。

 古楽器に興味を持ったのは音楽院在学中。仲間とヴィオラ・ダ・ガンバのコンソートを結成した。1953年、このコンソートを母体として、古楽器の楽団コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンを設立。4年間、18世紀以前の音楽の研究を重ね、57年に公開演奏会をスタートさせる。60年には演奏旅行に出かけるようになった。

 1965年からは録音を開始する。その活動が勢いを増すのは、テレフンケンレーベルと契約した71年。同年から、オランダのチェンバロ奏者で指揮者のグスタフ・レオンハルト(1928-2012)と共に、バッハのカンタータの全曲録音に挑む。このプロジェクトは88年に完了した。

 指揮者デビューは1972年のミラノ・スカラ座。75年にはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、チューリヒ歌劇場で指揮台に登り、以後、現代楽器のオーケストラと公演を重ねている。近年はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の舞台にも、たびたび登壇した。

 2015年12月5日、誕生日の前日にアーノンクールは、演奏活動からの引退を電撃発表。その三ヶ月後の2016年3月5日、ザルツブルクにほど近いザンクト・ゲオルゲン・イム・アッターガウで亡くなった。享年86。

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 場面を2007年のトーマス教会に戻そう。この日のプログラムはバッハのカンタータ3曲。いずれもオーボエの活躍が目立つ。最後に置かれたカンタータ第21番「わがうちに憂いは満ちぬ」はワイマール期の1713年に作曲・初演を迎えたが、23年6月13日にライプツィヒで再演された。23年6月といえば、当地にバッハが赴任したての頃。いわば「顔見せ期間」にあたる。つまりこのカンタータでアーノンクールは、1723年と2009年の教会暦上の時期(6月)を一致させ、バッハの「顔見せ」とみずからのデビュー公演を重ね合わせている。

 演奏ではシェーンベルク合唱団の活躍が光った。ピアニッシモで組み立てる音楽は繊細そのもの。声楽は弱音ほど息と神経とを使う。芯の通った合唱の歌は、そんな基本にしっかりと立脚している。歌を支えるコンツェントゥス・ムジクスの働きもすばらしい。合唱の各声部を器楽がなぞり下支えする「コラパルテ」が、言葉を御堂の平土間へと運ぶ。オーケストラが歌の息づかいを感じ、歌手に寄り添っている証拠だ。第21番の第2曲で演奏者は、3度唱えられる「われ」の語を、子音と息の勢いとで描き分けた。言葉の理解、歌の技術、それを運ぶ器楽のサポート、そしてそれらを統括するアーノンクールの音楽家としての底力が、この場面で浮き彫りになった。

 終演後、当方の席のふたつ向こうに腰掛けていたレオンハルトが真っ先に立ち上がり、聖歌隊席に拍手を送る。装束にも演目にも演奏にも、アーノンクールの矜持がありありと現れていた。

 幸いにして我々は、彼の矜持が何によって支えられていたかを、その著作に探ることができる。『音楽は対話である―モンヴェルディ・バッハ・モーツァルトを巡る考察』(那須田務・本多優之訳、アカデミア・ミュージック、1992年)と、『古楽とは何か―言語としての音楽』(樋口隆一・許光俊訳、音楽之友社、1997年)はいずれも、過去の音楽を演奏する際の哲学的考察から実際上のやりくりまでを記した書物。アーノンクールは作曲当時の楽器や楽譜、文献からさまざまな情報を引き出し、それを演奏に活かし、そこからさらに学び、その結果を公刊した。

 20世紀後半は音楽学が長足の進歩を遂げた時期でもあり、実際、バッハ研究にせよモーツァルト研究にせよ、たくさんの成果をあげた。アーノンクールはそんな研究の世界とは一線を画しつつも、同じ峰を望んでいたと言える。自ら行い得ることは自ら行う。これもまた、この音楽家の矜持の最たるものだ。

 残された我々は録音だけでなく書物からも、彼のまだなお生きる思想に触れることができる。しかし最も重要なのは、聴き手おのおのが、自らの人生の一場面に彼の音楽を響かせた事実だろう。そうした地に足のついた音楽こそ、彼が生涯を通じて追求したものだった。


初出:音楽現代 2016年5月号




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2016-05-10

[] 読響のチラシに出開帳


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読売日本交響楽団の第559回定期演奏会のためにチラシ文を書きました。題して「我信ず -- credo in musicam」。同定期ではシルヴァン・カンブルランの指揮のもと、ベルリオーズの序曲《宗教裁判官》、デュティユーのチェロ協奏曲《遥かなる遠い世界》(ジャン=ギアン・ケラス独奏)、ブルックナーの交響曲第3番《ワーグナー》(第2稿)が披露されます。たいへん興味深いプログラム。ご興味ある方はぜひ!


演奏会情報:2016年6月24日(金) 19:00開演 サントリーホール▼シルヴァン・カンブルラン(指揮), ジャン=ギアン・ケラス(チェロ), 読売日本交響楽団(管弦楽)


チラシ:http://bit.ly/1Odg6CH(PDF)



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2016-04-29

[] バッハ《ゴルトベルク変奏曲》-- 武久源造(チェンバロ)


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J・S・バッハ《ゴルトベルク変奏曲》《14のカノン》▼武久源造(チェンバロ、オルガン), 山川節子(チェンバロ)〔ALCD-1156〕

古典鍵盤楽器奏者の武久が、いわき芸術文化交流館アリオスの所蔵楽器を使って、バッハの晩年期の作品を弾く。《ゴルトベルク変奏曲》に用いた楽器には弦のセットが4つあり、普通の二段鍵盤のチェンバロよりも低音側の弦列が多い。それにより多彩な音色変化が可能になる。武久はその機構を演奏に存分に生かす。第16変奏の華々しさがよりいっそう強調されるのも、低音の厚みが管弦楽を彷彿とさせるから。重要なのは曲と楽器のスケールの大きさに、演奏の懐の深さが負けていないことだ。随所でスイングする楽想、折々に緊張感を醸すアクセルとブレーキ。最後のアリアも、元の位置に戻るのでなく、螺旋階段を一周分昇ったような趣で面白い。

初出:音楽現代 2016年4月号



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