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現代古楽の基礎知識

2017-07-29

[] ハインツ・ホリガー《スカルダネッリ・ツィクルス》


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2017年5月25日(木)▼東京オペラシティ コンサートホール▼コンポージアム2017 ハインツ・ホリガーの音楽 ー《スカルダネッリ・ツィクルス》

 ホリガーの「スカルダネッリ・ツィクルス」(1991年完成)の日本初演。スカルダネッリとは19世紀ドイツの詩人ヘルダーリンの筆名。この詩人の作品をもとにホリガーは、合唱のための「四季」全3集、器楽のための「スカルダネッリ練習曲集」全11曲、フルートのための「テイル」を書き、2014年にはこれら全体の演奏順序を定め決定稿とした。演奏はフルートのレングリ、ラトヴィア放送合唱団、アンサンブル・ノマド。指揮は作曲者自身。

 たとえば「四季」第2集の「夏」。3連の詩の背景が丘・道・園と微視的になるにつれて、3回繰り返すカノンの音度が半音・四分音・八分音と狭くなる。こうして詩世界と音楽とは呼応する。しかし聴き手は、詩にも音楽にも夏を感じることはない。それがこの作品の芯だ。

 音楽が詩世界に寄り添うほど、その詩世界と聴き手との断絶は深まる。他人を寄せ付けない詩本来の性質を、音楽が色濃く映すからだ。ここには2つの奇跡が生じている。ひとつは、そんな詩の性質にもかかわらずホリガー自身は、その詩世界に近づけたこと。もうひとつは、その接近を通して、詩と他者との断絶をありありと表現したこと。自分自身は詩世界に寄り添いつつ、他者には詩との断絶を感じさせるというのは本来、その詩の作者にしかできない。この詩人と作曲家との二重写しに気づかせてくれた点に、日本初演の意義は凝縮している。演奏者に拍手。

【CD】

ハインツ・ホリガー《スカルダネッリ・ツィクルス》


初出:モーストリー・クラシック 2017年8月号





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2017-04-23

[]《怒りの日》の"古典物理学"


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 店内に流れる《蛍の光》で閉店時間に気づくという経験を持つ読者も多かろう。音楽が記号として働く典型的な例。同じように《怒りの日 Dies irae》の旋律も、キリスト教文化圏に生きる人々にとってはひとつの、しかしとても重要な記号と言える。

 修道士トマス・ア・チェラノが詩を書いたとされる《怒りの日》は、カトリック教会の聖歌。作曲者は不明だが、作詞作曲ともに13世紀後半と考えられている。劇的な内容により人気を得て、まもなく各地の「死者のためのミサ(レクイエム)」で用いられるようになった。

 《怒りの日》はセクエンツィア(続唱)のひとつ。セクエンツィアとは聖書の詩句ではなく、自由詩に基づく聖歌で、中世末期に盛んに創作された。柔軟な発想の詩は人々の心をつかんだものの、聖書上の根拠は薄い。その結果、16世紀のトレント公会議で4つを残してほぼ全面的に禁止された。《怒りの日》はこの生き残った4つの一角を占める。なお、20世紀後半の第2ヴァチカン公会議によって、《怒りの日》を含むすべてのセクエンツィアをミサで唱えることが禁じられた。ただし、2000年に出版された祈祷書では、教会暦の最後の1週間に日々の勤めの中で歌うことが認められている。

 冒頭の「怒りの日、その日こそ Dies irae, dies illa」なる詞章は、旧約聖書ゼファニア書第1章第15節からの引用。全体は最後の審判の様子を映す内容で、地獄で業火に焼かれることなく、天国でキリストの元に集いたいと唱える。そこに付けられた音楽は、西洋音楽史上、最高の旋律のひとつと言っても過言ではない。

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 はじめの旋律を取り上げてその造りを確認したい。「ファ ミ ファ レ ミ ド レ レ」はジグザグに進むメロディー。よく目を凝らすと単旋律に隠れた2つの声部、A「ファファミレ」(奇数番目の音)とB「ミレドレ」(偶数番目の音)とが浮き上がってくる。Aは高い位置に留まっていたい、Bは低いところに降りて行きたい、その両者の力が「レ」で釣り合うという綱引きがある。これは、地獄に落ちるほかない人間を、キリストが救い出していることを象徴しているようにも見える。この力動性によって《怒りの日》の旋律は、名作としての地位を確固たるものにした。

 旋律そのものの力、詩の内容を縁取る描写力、根強い伝承によってこのメロディーは、キリスト教文化圏の中で発信力の強いシンボルとして働いてきた。簡素なこの旋律が鳴り響くと人々は、即座に最後の審判、地獄の業火を思い浮かべるようになる。こうした象徴性を多くの音楽家が利用した。ベルリオーズの「幻想交響曲」、リストの「死の舞踏」、サン=サーンスの「交響曲第3番」、ラフマニノフの「死の島」、ダッラピッコラの「囚われ人の歌」、クラムの「ブラック・エンジェルズ」など、多くの作曲家が死のイメージを喚起するのに、この旋律を用いている。


初出:モーストリー・クラシック 2017年2月号


【CD】

ベルリオーズ《幻想交響曲》インマゼール指揮, アニマエテルナ管弦楽団

サン=サーンス《交響曲第3番》ミュンシュ指揮, ボストン交響楽団

ラフマニノフ《死の島》プレヴィン指揮, ロンドン交響楽団

ダッラピッコラ《囚われ人の歌》スウェーデン放送交響楽団

クラム《ブラック・エンジェルズ》ブロドスキー弦楽四重奏団





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2017-04-06

[] バッハ《ヨハネ受難曲》― ピラトをめぐる3つの層


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 《ヨハネ受難曲》をより深く理解するためには、「ピラトをめぐる3つの層」の問題に迫らなければならない。

 《ヨハネ受難曲》はその名の通り『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」に題材を取っている。この受難曲の中心となるメッセージを伝えるためにバッハは、巧みな方法を使った。それは「調を大幅に変えながら場面を劇的に描き、重要なコラールやアリアをその場面の最終局面に置く」ということ。

 こうした手法が集中的に使われているのが「ピラトの審問」から「判決」にかけての場面だ。ポンテオ・ピラトは当時、ローマの属州だったユダヤを治めていた総督で、イエスを十字架刑に処した張本人。《ヨハネ受難曲》には「イエスに罪はないのではないか?」「この男は本当に神の子なのではないか?」と戸惑うピラトの様子が描かれている。

 こうしたピラト像には実は、3つの層が折り重なっている。1つ目は歴史的事実の層。ある時期のイスラエルに、イエスを十字架刑に処したローマ総督ピラトなる人物がいた、ということをニュートラルに示す。4つの福音書の中でもっとも古い「マルコによる福音書」に描かれるのが、こうしたピラト像だ。

 2つ目はドグマ化の層。初期キリスト教会ユダヤ教とは異なる宗教として生き残るためには、キリスト教としての教義を整える必要があった。ピラトに関して言えば、ニュートラルなピラト像から迷うピラト像へと転換が図られる。「ルカ」と「ヨハネ」の両福音書は「マルコによる福音書」を底本とするか、少なくともその内容を踏まえた上で書かれている。ピラトに関しては、古層を示す「マルコ」にはない記述が「ルカ」「ヨハネ」の両福音書に見られる。それは、ピラトがイエスの審問に際して何度も「私は彼に罪を見いださない」と言明していること。そして何度かイエスを釈放しようと試みていること。一方で、イエスを告発するユダヤ人の「声」は強化されている。ここには、イエスの磔刑の原因を「ピラトの判決」から「ユダヤ人の告発」のほうへシフトさせようとする意図が見て取れる。反ユダヤ主義の芽生えだ。

 3つ目は18世紀ドイツの層。《ヨハネ受難曲》の「ピラトの審問」の場面は、反ユダヤ主義的な傾向を持つ「ヨハネによる福音書」の章句がそのまま使われている。バッハは、ピラトがイエスを処刑するか否か迷う様子や、イエスを釈放しようと思いを巡らす様子を、調を大幅に変えながら劇的に描く。一方で、かたくなにイエスを十字架に付けようとするユダヤの民の姿を、騒ぎ立てるような対位法を使って表現する。章句に音楽がつくことで、ピラトとユダヤ人との対比が鮮明になる。「ともすればイエスをキリストとして受けれいてしまいそうになる異邦人ピラト」と「ひたすら悪辣にイエスを殺そうとするユダヤの民」。この対比は反ユダヤ主義を増幅させると同時に、異邦人に救いの道が拓かれていることを強調する。

 当時ドイツでは、受難週に聖職者が聖書の中のユダヤ人を非難する説教を行うと、それに呼応した信者がユダヤ人の居住区に放火することもあった。マルティン・ルターでさえその晩年、ユダヤ人を嘲笑する長い論文を書いている。反ユダヤ主義は教会の中に脈々と流れていたのだ。一方、異邦人宣教の理想は大いに語られる。それもそのはずで、異邦人のなかにはドイツ人も当然、含まれるからだ。自分たち異邦人の救いを強調するためには、異邦人ピラトの良心が示されなければならない。

 「ピラトの審問」や「判決」は、それぞれの場面の終着点に位置する重要なコラールやアリアへの序奏 / 助走として劇的に描かれるのだが、そこには幾重にも重なる歴史の層、伏流する人々の意識までもが見え隠れしている。

 教会音楽は難しい。演奏の側面だけとっても微に入り細を穿つアプローチが必要になる。詩の読み込みは欠かせないし、その土台となる神学知識を得るには苦労も多い。その上、そこに思想潮流までも加味するとなると、その労力は計り知れない。それを乗り越えた上で、音楽的にも成果をあげる演奏家がいることを幸いと思いたい。






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2017-04-01

[] 東京交響楽団 第684回定期演奏会


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 秋山和慶の指揮で東響が、「フランスのエクリチュール」のさまざまな姿を紹介する。

 メシアンの交響的瞑想「忘れられた捧げ物」は、作曲家22歳のときの若書きだが、リズムと管弦楽法とはすでに精緻。こうした総譜を前にすると、音符を正確に音にするのに長けた秋山と東響とは力を発揮する。

 一方、フローラン・シュミットのバレエ音楽「サロメの悲劇」は、楽譜の空白部分を彫琢してはじめて体をなす作品。このコンビのアプローチでは音楽が空洞化する。

 この日の白眉は両曲に挟まれた「ピアノ協奏曲」。仏で作曲を修めた矢代秋雄の作品だ。深い次元まで書かれた総譜が、楽譜再生能力の高い管弦楽と呼応する。その上で独奏の小菅優が、子音の利いた発音で作品世界を描き出していく。矢代は短長や長短短といった特徴的な韻律を、曲全体を束ねるかすがいとして用いた。滑舌の良いピアノがそのかすがいを、打つべきところに打ち込む。この協奏曲の演奏史はこうして新局面に入った。〔2017年1月14日(土)サントリーホール〕

初出:モーストリー・クラシック 2017年4月号


【CD】

矢代秋雄▼ピアノ協奏曲▼森正指揮, 中村紘子独奏, NHK交響楽団





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2017-03-25

[] アートを守る"防災訓練"


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 3月は9月(1923年関東大震災)とともに、自然災害とそれのもたらす二次災害とを想定して、さかんに訓練をしたり、さまざまな提言を発表したりする月になった。災害に強いインフラストラクチャー、緊急時を想定したたゆみない訓練、遺漏のない危機管理を実現する仕組みづくり。こうした施策が人々の生命と財産とを守ることにつながる。今般ここに「アートを災害から守る」という視点を付け加えたい。

 企業メセナ協議会は 2011年3月、東日本大震災をうけて、GBFund(ジービーファンド)を立ち上げた。これは「芸術・文化による復興支援」を目的とした基金で、すでに260件を超える活動を支援している。これらの活動から見えてくるのは、アートが、人々の関係をつなぎ地域のコミュニティーを維持するための、強力な「かすがい」となっていることだ。インフラが 再整備され、容れ物としての街がかつての姿に戻っても、そこに住まう人々のつながりを再生させない限り、真の復興とは言えない。アートはその真の復興をもたらす魔法の鍵となる。

 ところが、その「かすがい」としての力強さとは裏腹に、アート自体は災害にすこぶる弱い。災害発生時、生命と財産を守ることを優先するのは当然だ。それに比べればアートを守ることの優先順位は低い。だから、地域の芸能などを含めたアート一般は、ともすれば生活の波間に消えていく可能性すらある。だが先述の通り、アートは真の復興をもたらす魔法の鍵だ。災害後にアートは力を発揮する。そこで、命を守る防災訓練と同様、「アートを守る防災訓練」が必要になる。

 アートには大雑把に言って、(1)制作の背景と技術、(2)表現の結果としてのモノやコト、(3)モノやコトの受容と反応、という3つの局面がある。災害時、この3局面を一体的に守ることができれば、アートは災害後の復興に大いに力を振るうことができる。免震構造の美術館であれば「モノ」(収蔵品)を守ることはできる。しかし、その「モノ」の制作の背景や技術、人々の受容のありよう、その反応の質を保存することはできない。たとえば、(1)を保存するためには継承される技術を顕在化(明文化・映像化)する、(3)を保存するためには受容者の内心を積極的に言語化する(広い意味での批評を残す)といったことが考えられる。このように各局面をまるごと再構築できるように日頃から準備しておくことで、災害に強いアートが生まれる。 災害に強いアートは復興時、人々の関係をつなぎ地域のコミュニティーを維持する強力な 「かすがい」となる。

 さまざまなアート活動で、3つの局面を一体的に保全する「アートを守る防災訓練」を実施すること。それは、(A)人々とアートとの日常の接触を増やし、(B)アート自体の足腰を強め、(C)災害時の復興の備えとなる。 そのために、(ア)各局面の保全方法を開発し、(イ)保全に携わる人材を育て、(ウ)災害復興時のアート活動の方針を策定する必要がある。アートを災害から守り、そのアートが災害からの復興を助ける。防災とアートの先進国・日本こそ、この問題を深めていくのにふさわしい場所だ。


写真:2013年の中部ドイツ洪水(ザクセン=アンハルト州ヴァイセンフェルス)




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2017-03-23

[] 新日本フィルハーモニー交響楽団 第568回定期演奏会


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 冒頭、蓄音機からシャンソン「聞かせてよ愛の言葉を」が流れる。武満徹を音楽家の道へと誘ったこの曲の後、この作曲家の歩みをたどる演目が続く。指揮は井上道義。

 歌(大竹しのぶ)などを交えつつ進むプログラムは、ほぼ年代順に武満の創作期をなぞる。その中心は2つ。1つは前半のピアノ曲「リタニ」第1曲と第2曲との間の輝度差、もう1つは後半の管弦楽曲「カトレーン」と「鳥は星形の庭に降りる」との間の対比。

 木村かをりの弾く「リタニ」では、第1曲と第2曲とのサウンドが異なる。それこそ武満がこの作品で目指した曲作り。2曲はテンポも楽想も似通っているが、基本的な音域が違う。音域の違いは音色の差異を生む。この音色の輝度差を武満は、「前奏曲とフーガ」や「アダージョとアレグロ」といった古典的な楽曲形成原理に代わるものとして用いた。

 「カトレーン」と「鳥は〜」との対比は、それぞれの中心的な音程、四度と五度の世界観の違いに由来する。井上は、前者では管弦楽の最低音域をごく薄く配して、横方向への旋律的な運びを重視。後者では最低音域を厚めに配して、縦方向へと屹立する和音の移り変わりに力点を置く。こうして四度音程と五度音程の世界観の差異を表した。

 前後半の2つの中心には、西洋音楽を換骨奪胎して、そこに自らの血を流し込む武満の創作姿勢が現れている。演奏家たちの佳い仕事が、それをはっきりと示してくれた。〔2017年1月26日(木)サントリーホール〕


初出:モーストリー・クラシック 2017年4月号





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2017-03-13

[] A・ビルスマ他『バッハ・古楽・チェロ ― アンナー・ビルスマは語る』


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アンナー・ビルスマ, 渡邊順生『バッハ・古楽・チェロ ― アンナー・ビルスマは語る』(加藤拓未 編・訳)アルテスパブリッシング, 2016年〔本体3800円+税〕

 ピリオド・アプローチを採用する代表的なチェロ奏者のひとり、アンナー・ビルスマと、日本の古典鍵盤楽器奏者、渡邊順生との対話篇。ビルスマ自身の音楽活動を語る第1部、楽器について説明する第2部、バッハの「無伴奏チェロ組曲」の奏法を解説する第3部、ボッケリーニを題材に広く音楽について話題を巡らせる第4部からなる。そこに渡邊によるビルスマとの思い出語りを加えた構成で、この音楽家の世界に迫る。

 各部とも個別具体的なことがらを話題としているにもかかわらず、その中心にはつねに、西洋音楽の太い幹がそそり立つ。これがこの書物のもっとも優れた特徴だ。欧州の伝統として受け取ったことや、楽器・史料から学び取ったことなどを演奏に生かし、その演奏活動の中で気がついたことをさらにそこに付け加えることで、この太い幹は出来上がっている。角度を変えつつこうした往還運動を記述すると、先述の4つの切り口が現れるというわけだ。

 往還運動の点でもっとも豊かな実を結んでいるのはやはり、「無伴奏チェロ組曲」の奏法を解説する第3部だろう。場合によってはとても微視的な題材にも踏み込むが、それさえもつねに大きな音楽論へと即座につなげていく。こうした視点の行き来によって読み手は、「演奏解釈」と称される心の持ちようや頭の使い方を追体験する。この追体験によって、聴き手も弾き手も歌い手もひとしく「音楽家」に近づくことができるだろう。


初出:音楽現代 2017年3月号






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