アジアのバザールが面白い

アジアのバザールが面白い (面白BOOKS)

アジアのバザールが面白い (面白BOOKS)

※ほとんどが見聞録。エッセイの域をでない。なお半角数字が3ヶ所横になっている(41, 43, 114)。
「日本は同じアジアの国で古くからの友人だったのに、何故あんなことをしたのか! いま過去への反省なしに、また軍隊を持っているのは何故なのか」(香港、111ページ)
 自存自衛の論理以上の理屈が必要となる。
メモ⇒可児弘明『香港の水上居民』(岩波新書)、「日本の原風景2(蒼海訪神)」(p119)

105円

八月十五日と私―終戦と女性の記録

八月十五日と私 (角川文庫)

八月十五日と私 (角川文庫)

※カタログにないので代用。こちらは全国の女性から寄せられた手記の一部(木島則夫モーニングショーの終戦企画)。氏名年齢どころか、現住所まで掲載されているのに驚く。社会思想社刊、昭40(現代教養文庫534)。
はしがき(木島則夫)(p3)
終戦玉音放送(全文)(p8)
八月十五日―この日さまざま(p11)
空襲(p61)
疎開(p81)
戦争の中の青春(p101)
広島・長崎(p129)
外地で(p153)
引き揚げ(p211)
あれから二十年(p265)
あとがきp(281)
 広島の手記が凄まじい。「神曲」の世界。手記を読んで意外だったのは、場所によって、降伏の報が玉音放送のまえに流れていたことだ(p191, p274)。

育毛通

育毛通 (ハヤカワ文庫 JA (598))

育毛通 (ハヤカワ文庫 JA (598))

※元本は「現代ヘアーの基礎知識― Kamidas」で、[監修]稲葉益巳/[著]唐沢俊一・毛髪探検隊となっていた。毛髪探検隊はライターの、左保圭・おおいとしのぶ・伊藤剛(泊倫人)のことだろう。イラストに身内(ソルボンヌK子唐沢なをき)が加わっているのは、家内制手工業を思わせる。興醒めである。
カミダス―現代ヘアーの基礎知識

カミダス―現代ヘアーの基礎知識

現物をとりよせてくらべてみたが、文章の流れはほとんど変わっておらず、表現に手が加えられている(唐沢がゲラに手をくわえたと推察する)。元本には「医学・科学」「歴史・文化」「その他・雑学」に分類されているが、文庫本ではそれが省略されている。文庫化にあたり、これくらいの手間を払えなかったのだろうか。おかげで文庫版は本としての統一感をうしなっている。元本のほうが本としての仕上がりがよい。
満足度:評価不能 「評価に値しない」
余白があまりに多い(元本ではイラストで埋めていた)。合計すると3分の1くらいあるのではないか。文献を書き写して一「著」上がりという印象。参照文献の数があまりに少ない。プロダクション制をとればいくらでも量産できる類の知識である。唐沢俊一センセイによる「あとがき」にはこうある。
 
「文庫化にあたり、(略)僕の前著『薬局通』の続編として、読んで役にたたないが楽しい雑学の本として、体裁を改めた(p285)。」
 
「楽しい」どころか不愉快。手元におく価値を見いだせない。私が観察するところ、昨今の雑学ブームで開陳される内容は「知ってオシマイ」の類。本書のように、そこから深みのある知見を引き出す力量がなく、それを面白がるだけの様は痛ましい。
※メモ⇒表現の変更
『育毛通』の「ちなみに、筆者(唐沢)がいつも帽子をかぶっているのは、キャラクターを固定する一種の手段なのだが・・・」の部分(p204)。元本では「ちなみに、筆者もそろそろ前頭部があぶなくなってきていて、ふだん、帽子でそこらを隠している」となっていた(カミダス, p141)。キャラクター固定は後付の理由なのか? 唐沢センセイがいつも帽子をかぶる「もう一つの手段」について邪推してみる。
※メモ2⇒ドラッグ・ライターという出自
元本のプロフィール(1995年時点)
唐沢俊一[からさわしゅんいち]
1958年生まれ。作家・評論家。人間と医療のつながりに焦点をあてるドラッグ・ライターとして、医・薬学関係の評論を科学雑誌業界紙等に多数執筆。その方面の著書に『ようこそカラサワ薬局へ』(徳間書店)、『薬の秘密』(翔泳社)などがある。

読書術

読書術 (同時代ライブラリー)

読書術 (同時代ライブラリー)

※岩波同時代ライブラリー139(1993年刊行)。
読書術 (岩波現代文庫)

読書術 (岩波現代文庫)

岩波現代文庫(社会24)の『読書術』は本書を底本としている(新たな加筆はなし)。
満足度:☆☆☆★★ 「『読書術』という名の読み物にすぎない」
『頭の回転をよくする読書術』というタイトルで光文社から1962年に出版された(昭61に同社から文庫化されている。こちらはカッパ・ブックス版の完全な文庫化である。岩波版は見出しの変更、人物の生没年が追記されている。)。筆者は同時代ライブラリーへのあとがきでこうのべている。

「あらためて読み返してみると、三十年前の私の議論は今でもそのまま通用するというか、今の私が三十年前の私に賛成できる話のように思われました。(略)大筋は全くかわっていません。そもそも「読書術」なるものが、三十年やそこらで簡単に変るはずもないのです(p212-13)。」

 それもそのはず、筆者は読書「術」を掲げるが、実際のところ一般論しかのべていないからだ。これは「術」をあつかった梅棹の『知的生産の技術』がその歴史的使命を終えたことと比較してほしい。三十年後の自分が賛成できるのは、筆者の読書「技術」に普遍性があるのでなく、読書についての自分の考えが変わっていないというだけのことだ。
 たとえば6章で、どんな洋書を読んだらよいか、というテーマをとりあげている。しかし、それにたいする筆者の答えは「内容を知りたい本からはじめたほうがよい」(p127)。これは漠然しすぎており、実際には役に立たない。
 また本書は「〜でしょう」という表現がすごく多い。たとえば「もちろん、英語やフランス語にも、いくらかそういう(「人民」「民衆」「庶民」など立場によって表記がことなる)言葉がありますが、日本語の場合ほど多くはないでしょう。」(p82)といった、推量の意味を表す表現を乱発しているのである。あいまいな表現を濫発するやり方は、かえって読み手の信用を失う好例である。
 以上が、読書術にかんする本を何冊か踏まえて上での感想。初めて手にとる読書術本として、本書は不適格だと思う。おすすめできない。本書は初学者(当時の高校生)向けの読書論としてベストセラーになったと書いてあるが、そうだとすれば、出版社は罪深いことをしたものである。
 以下、本書のめぼしい読書術をあげる。
 
 1.らくな姿勢で読む⇒身体を忘れるのが読書の理想(p16)。
 2.できるだけ辞書をひく(p52)
 3.とばし読みの秘訣⇒全体のしかけをつかむ(p78)。
 4.同時に数冊読む⇒興味を新鮮に保てる(p85)。
 5.一人の作家だけつきあう近代文学は作家の個性を重んじるので(p101)
 6.目的をはっきりさせる⇒読まない本をきめる(p108)
 7.詩などの小説以外の外国文学は原書で読む(p137)
 8.文学作品・哲学思想はそれじたいで完結、ひとつの世界を形づくっているので新旧で判断しない(p155)
 9.自然科学の情報はナマモノなので新しければ新しいほどよい(p156)⇒読むなら新刊ということ
 10.百科事典で言葉の意味をしらべる(p190)
 11.読みながら著者の経験を感じとる(p198)
 12.本の内容がむつかしい⇒まず著者の文章がまずいか、本人じしんが内容を理解していない可能性がある。かりにりっぱな本でも、自分にとってむつかしいのは、自分がその本をもとめていないから(p209)。
 
 こうしてみると、半分は役に立たない。また、読んだあとどうするかについて言及がないのも本書の価値を減じている。

 同時代ライブラリーはその使命を終えた著作ばかりが並んでいるような印象。文庫サイズで保管できるという消極的な意味しか見いだせないものばかりなのが悲しい。

熱気球イカロス5号

熱気球イカロス5号 (中公文庫 M 2)

熱気球イカロス5号 (中公文庫 M 2)

満足度:☆★★★★ 「発想の幼稚さに唖然」
 
「おもしろないなあ。なんぞ、おもしろいことやりたいなあ」「青い空やなあ。きれいな空やなあ」「あの空、飛べるかな?」「そうだ、空を、あの、まっさおな空を」「空を飛ぼう!」
 
読んでいて気恥ずかしくなる。

神坂四郎の犯罪

神坂四郎の犯罪 (新潮文庫)

神坂四郎の犯罪 (新潮文庫)

※神坂四郎の犯罪(1948)/風雪(1947)/自由詩人(1956)
満足度:☆☆★★★ 「戦後臭があまりしない」
「神坂四郎」は6編の手記からなる。それぞれの立場から事件が語られることで、焦点が絞られるどころか曖昧になってゆく。発想はよいが、実際の作品はふつう。「風雪」は傷痍軍人の話。「自由詩人」の主人公、山名の野垂れ死にっぷりがよい。

オペラ座の怪人

満足度:☆☆★★★ 「エリックに同情の余地はない」
原作のオペラ座の怪人(エリック)は殺人者であり、ヒロイン(クリスチーヌ・ダーエ)を拉致した独善的な人間である(1910年作品, 359, 374, 381, 458)。
 
「ペルシアで彼はまさにわがもの顔に振舞ったのだった。かくして彼はかなり多くの悪事を犯したのだ。というのも彼は善悪の見さかいなく、さまざまな悪魔的発明を使って、当時ペルシア帝国と戦争をしていたアフガニスタンの首長と闘ったかと思えば、またいとも涼しい顔で大掛かりな政治的暗殺に協力したりしていた」(459)
 
ミュージカル作品(1986)とは根本的なところで設定が異なっており、観劇ではこの操作を自覚したほうがよい。