続2000人の根拠

石原氏の2000人発言の根拠については今のところ出ていないようである。擁護側もあくまでも誇張ということで乗り切ろうということのようで、それならばなぜ2000人というデータを出したのか、という疑問は残るが、自分の主張をする時にデータを捏造してでも聞き入れて欲しい、というのは「あるある」問題でも見られる問題なので、これ以上問題にはしない。
今回私が問題にしたいのは、自衛隊への派遣要請が遅れたことについて、である。私はこの点については兵庫県の総括が必要であると思われる。それも兵庫県には責任がない、という内容ではなく、兵庫県自衛隊派遣要請がなぜ遅れたのか、遅れたことによる影響はどれだけのものであったのか、ということである。それがきちんとなされていないからこそ、石原氏及びその擁護論が出てくるのである。
しかしながら私は井戸知事の石原氏への反批判を「どっちもどっち」という、一見中立を装った意見には与しない。何となれば根拠を示さない批判をしたのが石原氏であり、まずもってそれを問題にしなければ公平ではあるまい。しかしそれだけに兵庫県は確かにきちんとしたデータを出して石原氏の主張を徹底的に批判するべきであった。そしてそれがなぜなされなかったのか、と言えば、兵庫県による自衛隊派遣要請の遅れに関する総括がなされていないからに他ならないのではないだろうか。もしそれがなされているのであれば、それを出して徹底的に石原氏に論駁すべきである。あるいは石原氏の議論に首肯し得るのであれば、その点は受け入れるべきである。ただあくまでも2000人という数字の根拠は徹底的に追求していかなければならない。そしてもしその数字が誇張というのであれば、誇張した数字を出したことを批判していかなければならない。その作業の前提として総括はなされるべきである。これは兵庫県でなければできない。
次に派遣要請が遅れたことでどれだけの人々が犠牲になったのか、ということである。10分後に派遣要請が出されていたら多くの人命が助かったという可能性はどれだけあったのか、ということだ。地震が起きてすぐに派遣要請が出されていれば、直ちに自衛隊が派遣され、4時間後に派遣要請が出されたよりも多くの人々が助けられた、という議論が方々でなされているが、私はその意見は自衛隊を侮辱する言説であるように思われてならない。自衛隊地震が起きて派遣要請が来るまでぼんやりしていた、というのであろうか。そうではあるまい。自衛隊はおそらく直ちに災害救助のための出動準備に追われたはずだ。地震が起こった後に出動準備にどれだけかかるのかはわからないが、それ相応の大規模な体制を組む以上、地震が起こって10分後に自衛隊が展開しているとは思えない。自衛隊はおそらくは派遣要請が出された時には迅速に展開できる状況にあったのではないだろうか。従って10分と4時間を並べる議論は無意味であるだけでなく、自衛隊を愚弄する言説である。ただ私の記憶が正しければ自衛隊の幹部が派遣要請の遅れを懸念する発言があったので、展開準備が整ってからある程度のタイムラグがあったことも事実であろう。派遣要請の遅れを論じる時には、そのタイムラグが問題にされるべきである。単純に10分と言う根拠不明な数字を出して犠牲者の増加を云々する議論は震災救助に当たった自衛隊への愚弄でしかない。
自衛隊への派遣要請が遅れた事情だが、私は自衛隊アレルギーがあったのではない、と思う。確かに左翼には自衛隊の存在はあくまでも違憲であるから、派遣要請にもいい顔をしない、という人もいるだろう。正直に告白すれば私も同類である。しかし当時の貝原俊民知事はそういうゴリゴリの左翼ではなかったはずだ。左翼をとかく悪く言いたい人は、左翼が自衛隊の派遣要請を遅らせた、と言いたいのであろうが、残念ながら左翼にそれほどの力はない(笑)。「自衛隊違憲だから解体せよ」などという意見は当時極めて少数派で、自衛隊の災害救助活動には高い評価が与えられていたはずだ。自衛隊は人殺しの練習をしている、ということを言うのは少数派だったはずで、自衛隊災害派遣へのアレルギーはこのころには極めて少なかったはずである、少なくとも兵庫県の判断を狂わせるほどの存在感はなかったのではないだろうか。
なぜ遅れたのか。そして遅れたことによってどういう影響があったのか。それは被災当時の状況を考えなければならないだろう。そのための参考として私の事例を示そう。
細かい事情はかつて述べたことがある(2006-01-17 - 我が九条)ので、ここでは問題点をかいつまんでおこう。
1 地震が起こった直後
京都近郊は震度5強だったはずだが、そして実際にその揺れで目を覚ましていたのだが、すぐに状況はわからない。ラジオをつけても普段通りの放送をやっているだけで、結局8時ごろになってようやく情報が入り始めた。最初は情報が錯綜していて、どの程度の被害が出ているのかほとんどわからない。村山富市総理を弁護する気もないが、東京では中々情報が入らず、財界との約束を優先すると言う重大な判断の過誤をおかすことになったのだろう。
2 父親が会社をさぼったこと
私の父は勤務先から15分程度のところに住んでいる。一応幹部なので(代表取締役副社長)、迎えの車が来る。しかしその日は来ない。家族は「歩け」といい、しぶしぶ歩いていったが、これは歩けたからである。もちろん本社も含めて関西の会社機能はほぼ停止していた。すぐに「やることがない」と帰ってきた。確かに取締役の中で、出社できたのは父親だけだっただろう。完全に会社の機能はマヒしていた。これが被災地であれば完全に交通路どころか道路すら寸断され、例え近くにいたとしても出社はままならず、当直しか動けなかっただろう。この時私のバイト先の高校では宿直員がかなりの長時間拘束された、という。教師が出勤できないのだ。しかも宿直員には何の権限もない。困ったことだろう。
3 被災地の状況
マヒした会社もそこそこに帰宅した父親はひたすらテレビを見続ける。父親の事情に気付いた家人はいなかったことは申し訳なかった。考えれば父親は西宮の出身で、父親の兄、つまり伯父家族が住んでいたのだ。伯父一家の消息が気になっていたのだが、父以外の家族はのんびりしたものである。夜10時ごろ父親が叫んだ。「あった」そこには犠牲者として伯母の名前が出ていた。しかし伯父といとこの消息はわからない。翌日父親は一人被災地に向かった。ウィスキーの瓶と現金200万を持って。深夜までかかって伯父一家と再開。被災地の状況を見た父親は避難所にできる限りの物資をとどけることにした。運転者は二人いる。駐車して荷物を届けている間に別の人が来た時に素早く車を動かせるようにである。人手よりも物資、ということで、運転免許のない私たち兄弟は家で留守番。被災地見学にしかならないそうだ。
伯父一家は木造アパートの一階と二階を借りて住んでいた。伯父は早朝から仕事であり、地震発生当時は大阪市内にいたのだが、激しい揺れにただちに家に帰ろうとした。しかし交通網は完全にマヒしていた。伯父は自転車を買い(早朝から空いている自転車屋があった、というのが不思議だが)、自転車で西宮市に向かったと言う。しかし伯父が見たのは変わり果てた伯母の姿だった。一階に寝ていてアパートが全壊し、圧死したという。いとこが遺体を掘り出した。
私の塾も西宮市にある。当時私はまだその塾には勤務しておらず、私がそこの塾に勤務するのは一年後である。塾生の犠牲者は出なかったが、塾のOBには被害者が出た。私は直接その人を知らないので、犠牲者の両親が自費出版した手記によるしかない。その手記は我が塾で購入できる。それによると家が全壊したことによる首の骨折で即死。私の伯母とは対照的に「眠っているような、美しい顔」で「死んでいることが信じられない」ということであった。ちなみに私の伯母は葬儀の時に「死に顔を見てやってください」と言われて見たが、直視に堪えない状況だった、と両親が語っていた。
塾OBには弟が二人いて、二人とも塾生であった。彼らは一瞬にして家と家族を失い、しかも兄は灘受験を数日後に控えていた。テキストもノートも参考書も筆記具すら失う中、一旦は受験をあきらめたそうだが、頑張って灘に合格した。兄弟とも灘から医学部に行った。アチェ津波の時にボランティア活動をしていて、塾にも協力要請に来たが、やはり彼らの心中には災害で亡くなった姉の姿があったのだろう。彼らの志には頭が下がるとしか言い様がないのだが、彼らにして見れば「当然のことをやっているだけ」と思っているのかも知れない。
彼らの高い志には到底及ばないものの、私に出来ることは震災の状況を私の知っている範囲で書くことである。もとより私は被災地に入ったことはない。私が入っても有害無益でしかないからだ。不要不急で被災地入りすることは避けたかったのだ。結局私は被災地域に入ったのは、今の塾に勤務するようになった、震災一年後である。まだ各所に仮設住宅がならび、がれきも多く残っていた。私の塾の周辺もがれき、空き地、ひび割れなどが多くあり、結局完全にきれいになったのは10年後の今年のことである。
私の体験は微々たるものである。それだけに私には震災の状況について知ったかぶりを並べることはできない。時ならぬ震災関係の言論がなされている今、なにほどかの寄与でも為し得ればこれにまさる喜びはない。
追記
今思い出したが、確かヨーロッパからの救助犬が検疫のために被災地入りが遅れたはずだ。これはかなり大きな問題だったはずで、震災における被害者の拡大ということを議論するのであれば、これも議論しないと不十分だろう。むしろ人災という面ではこちらが大きいはずだ。
追記2
私の義父も震災には携わっている。被災地の近隣市の水道局のOBだった義父は被災地域への給水のために一週間家に帰らずに活動していた。被災者の方は「おっちゃん大変やな」と自衛隊が配っていた非常食をくれたりしたと言う。私もその非常食を食べたことがある。牛肉の大和煮だったが結構おいしかった。義父は言っていた。「本当に大変なのは向こうやのに、むしろ気を使ってもらった」と。一方で給水に行くと「犬を洗いたいからもっと水をくれ」と食ってかかる豪邸の「御夫人」方もいたようで、怒っていた。