いま流行りのルワンダ

いま流行りのルワンダ
カトリック教会の罪を言うならなによりもルワンダ問題だろう。
そもそもの根源、植民地時代にツチ族フツ族に対立的構造を持ち込んだ諸悪の根源は、カトリック教会の宣教師達だったそうだよ。ヨーロッパ至上主義の近代。鼻持ちならないヘーゲルみたいな歴史観に彩られた馬鹿垂れ宣教師の性で、「俺達の方が優れた民族♪」思想が入り込んだそうで。
以下参照してください。↓
○連載ルワンダ史 @『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会
http://rwanda.hp.infoseek.co.jp/about_history00.html
かくして「優位な民族」争いがエンドレスで起きる。少数派が多数派を支配する。ベルギーもそういう構造だったらしいし、英国史も似たような構造はある。北アイルランド問題もそういうことだったり。何故アイルランド島に英国領が???的に。
以下の考察はかなり参考になります↓
○ブライアン・ウイルソン先生の思い出
http://wilson.seesaa.net/article/1879000.html
■1997年11月14日比較文化特論2 授業内容(要旨)
創価大学で行われた講義らしい。講義しているイギリス人教授の宗教背景は判らないが、とにかくイギリス人はこうみたという例)
んで、殺害を見て見ぬふりをした教会は今も罪に問われているわけだ。現場にいない私はそれがどういう状況だかは判らない。聖域に逃げ込んできた人を見殺しにした修道女達。聖域が聖域として機能させられなかったこと。現場にいてそれを行えたかどうか。そういう勇気が私にあるか?問われることではある。
また、これらの問題は、多くの民族間の憎悪による虐殺の問題にも関わってくる他方が他方を批判するときの、ただその民族だからといってひっくるめて批判するとき、我々の念頭に「罪を憎む」ことと「ひとを憎む」ことが一緒になってはいまいか?そう問われる瞬間がある。過去の確執を現代の民におしつけ抹殺する。非難する。これらはまぁ・・我々もまた体験していることでもあり、また現代に於いて生じている確執を、目の前にいるそういう発想をしない人に押し付けたりしていまいか?あるいは「あの人は○○だから」というモノの見方で起きるトラブル。単純にカテゴライズするな!!とよく怒ってる人を見かけるけど、女だからとか、こういう思想だからとか、こういう宗教だからとか、我々も何となく無意識にカテゴリの単純化を日常的についついやっていたりするよね。他者を単純にカテゴライズして対立の場においたり。

話は変るが、野原さんの処でイスラエルの罪について問うていた。これも虐殺の問題。
○彎曲していく日常
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060303
■レイチェル・コリーをもう一度殺すこと。
→ジェニンのような悲劇。あのような悲劇はあってはならない。しかしイスラエル側の論理は?と問うことは無駄ではない。度重なるテロの恐怖、千何百年来の悲願。これらもまた切実ななにかがある。だから単純な善悪で分けられない。例えジェニンの悲劇においてあきらかにイスラエル軍の行為に怒を覚え、パレスチナに寄り添いたいと思っても、無差別テロに巻き込まれた一般市民のイスラエル人に思いを馳せることもある。テロという手法は憎んでも、それを行わざるを得ないパレスチナ人に対して思いを馳せるのと同様に。パレスチナイスラムへの憎悪をかき立てるイスラエルイスラエルへの憎悪をかき立てるイスラムも鏡である。(こういう思考はイスラエル寄りだと野原さんに指摘されたけど、どうなんだろう?)
また、他方で「ユダヤ人であるから」というだけで殺害されたフランスのユダヤ人がいる。しかも「ユダヤ人は金持ちである」という理屈だけである。犯人はコートジボワールの少年だった。この事件が起きた時どこかで話あわれていないか探したら2chのスレッドに出くわした。そこでは「ユダヤ人は殺されて当り前」といった論が展開されていて、驚いてしまった。最近の暴動等を受け「またイスラムじゃね」みたいなムスリム批判に陥っているのかと思ったら何故?意外過ぎると同時に、これは酷いなと。で、読んでいて理解出来たのは、結局、日本における外国人問題にスライドして光景をみている人が多いということであった。自国内の少数民族に対しどのように考えるのか?犯罪率が異常に高い等の指摘が多いが、しかしそれはやはり一部の問題であり、また罪を犯す行為やそれを犯した個人がいけないのであって、ましてや民族に帰するのはどうなのか?
最近、民族問題について考えさせられることが多い。「特定アジア」の煽りにおいても、日本国内における反応においても。これらもまた鏡のようになっている。わたくしは伝統を愛するし、国家や国旗を尊重するのだけど、しかし民族主義的な発想に偏り過ぎていくのもまた怖いと思う。
対立する思考はただ悲劇しか生まない。
単純なカテゴリで物事を観るのではなく、そこに起きている個々の事象において判断するべき事柄ではある。

ところでルワンダといえば町山さん。町山さんを巡るいま流行りのアレはともかく、上記のフランスにおけるユダヤ青年の殺害に、日本における外国人問題を見たネラーの方々はまさに悲劇を他人事としてみてはいなかったのであるので、まさに町山さんが主張する「他人事ではない」という思考なはずなのだが。む〜〜ん。
あと目に付いたのが、おフランスイスラムユダヤの扱いの差。イスラムには冷たいがユダヤ問題となると真剣になるフランスのダブスタの指摘。こちらは理解出来るけど・・・どうもアウシュビッツタブーについての不満、『マルコ・ポーロ』事件に見るユダヤ団体の圧力に不審らしい。これもいくらユダヤ団体が他国のマスコミに圧力かけたりすること(←これは好きじゃない)があるとはいえ、一青年が殺されていいものか?などと思ったり。

上記の問題に関して
○+ C amp 4 +
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060308/p1
■[philosophy]「ホテル・ルワンダ」を観て
ルワンダの悲劇の背景。西側の「見捨てた」人々のこと。色々考えさせられます。
○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060309#p2
■差別と虐殺
関東大震災で起きた虐殺が何故、阪神淡路大震災でおきなかったのか?
 虐殺は近代の特徴ナノか?
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060309#p4
■愚痴
→カテゴライズし、単純化された、対立していく光景。

特定の人のblogで批判とか擁護とかすると、途端にに「あっち側」「こっち側」みたいにレッテル貼りする人っていますけど、そんな単純じゃないよねえ。

という方の意見から発展して、党派性を問う。上記の差別問題と絡んでくる。こっち側の人間であることの為に於いてそっち側の人間を攻撃する光景。これは昨今のいじめという光景にも通じる。ブログにおいては「炎上」という現象などにも見られるが。ブログにおけるルワンダ問題の光景で、発端となった女性のブログが炎上した光景もどうなのか?これがもともとのuumin3 さんの問いかけでもあったと記憶する。
どの人間(党派)に加担するのか?というはじめに結果ありきということも、論と或いは現象。行為と、存在そのものを一緒にしてしまっている光景に通じる。単純化する対立構造に自分を置こうとする危険性は例えば、論を批判しているのに、人格(或いは党派、国家等)を攻撃されたと思い込む人なども多い。先日、ドイツ人の神父と話していて幼稚園の問題となり「最近のお母さんは子供が怒られると自分が怒られたと思い込む人が多くて厄介」これなどは子供と自分という同質化が起きている現象ですね。
果たして現代人は関東大震災の時よりなにかを克服しているのか?
単純に法概念が或る程度行き渡っているから暴力行為に対しブレーキがかかるだけで、似たような光景はいつ起きてもおかしくないのではないか?それは日常にも起きている現象かもしれない。既にして「対立構造に単純化する思考」にそれはみられる気がする。
○Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060308/1141787188
■最も怖いのは同胞であり隣人であるということ
→uumin3さんが取り上げられていたブログ。関東大震災に生じた朝鮮人に対するデマと彼らへの暴力に対する考察。対立する構造について参考になる。
○■Tant Pis!Tant Mieux!そりゃよござんした。■
http://malicieuse.exblog.jp/4238459/
■独断で思い込んで消えてもらいまショウ
→フランスにおけるユダヤ人青年殺害問題を多民族国家フランス在住の立場から考察。
最近起きた「民族」「宗教」によって生じた思想、文化差異から生じた悲劇を「思い込み」というキーワードで考察している。「思い込み」というのに押し込めるのは少しどうかな?と保留するが、確かに「朝鮮人は怖い」という「思い込み」によって関東大震災における悲劇は生じた。文化的、思想的差異によって生じる狭まる視野が悲劇を産む構造は確実にある。
これらへの解決はいったん対立する存在をメタ化し、現象を観察することだと思うのだが。つまり「思い込み」もメタ化する(場合によっては、「思い込んでいる」という思考すらもメタ化する)必要がある。

本文にあげた野原さんのブログにおいて、「長崎の殉教聖人を単なる悲劇の被害者として見る視点ではなにも解決しないのでは?迫害者を糾弾する視点ではなく、善悪の悲願に於いて現象を見る。」ということを話して来たのだが、上記にあげた幾つかのブログにもヒントがあると思う。

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・・・にしても、最近出入りしているブログが繋がっていくテーマで論が展開しているこの現象こそなんだろうか?どうもまとまらないので散漫になってしまったが。やはり世間に生じはじめている「民族主義」「反民族主義」的な単純化された現象を、無意識に警戒している人々が増えてきたからなのか?それとも別な理由が在るのか?
ブログという言論世界に馴染むことで、「論」を語るということがどういうことなのか?言葉のもつ限界、カテゴライズして初めて現象を浮き彫りにすることが出来る性質、中世スコラ学の現場で起きた論理学的なことどもが、無意識下であちこちに生じはじめているのではないか?などとまぁ不思議めいてこの現象を眺めています。