昨日はカナがどうにも不安な状態だったのだが、一夜明けたらなんかえらく元気になって食欲までぶんぶんにあった。下痢も治ってやたら元気。
カナとミモザが昨晩私のベットにいたので暑くて眠れずわたくしのほうが更に不調になってしまった。おなかも壊してるし。最悪。
カナは不調なので心配だった為、追い出さなかったんだけど、ミモザまで不安なのかやってきてくっつく。子供と同じだなぁ。不安だとお母さんやお父さんにくっついて寝たがるよね。しかも体温暑いし。

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けふは迎え盆でお寺にお参りに行く。
帰って来たら物見の塔(エホバ)さんがピンポ〜ンとか鳴らすんで、「今日はお盆で寺帰りだからタイミング悪すぎ」と申し訳ないけど追い返した。迎え盆にエホバさんはなぁ。しょうゆとソースの組み合わせみたいで。すみません>エホバさん。
で、母が「うちはカトリックなんでねぇ」といつも言って追い返しているらしいんだけど。寺参りするカトリックってどうよ?
まぁわが父はごりごりの神道仏教伝統日本男児で、正月の初詣とお盆の墓参りは欠かせない習慣になってる。我が家的にはそれは昔からの重要行事。しかし父はエホバさんともタマにお話しするらしい。ミサにも誘うと来る。宗教的無節操の典型だ。


で、昨日から酷い体調で食事がのどに通らないわたくし的には疲れたのでその後寝ていた。むぅ。腹が空っぽなのはいいが何故痩せない?謎だ。
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そういや。けふは大文字の日だ。京都五山送り火ね。
あれは時間差で次々送り火されてカッコいいのよ。昔は京の実家(上京区)の家からも見えたのだけど今は無理だろうね。なんかすごく高いビルとか建ってしまって。
大文字さんはわたくしの夏の思い出なんじゃが、父の友人でわたくしをかわいがってくれたおじさんがが亡くなった日でもある。
大文字の日が来るたびに思い起こすのだな。

マリア被昇天

あ〜昨日はマリア被昇天の祝日だった。けど教会行くの忘れた。というか調子悪くてそれどころじゃなかったんだけど。
マリア信心についてあんまり興味ないんで、どうにも忘れがちなんだが、世の中のカトな人々はどうしてああもマリアが好きなのか?いまだ理解できない不信心者だ。マリアならマグダラの方がいいや。


マリア崇敬に関してはサン・ベルナールの本とか読んで「なるほどなぁ」とか思うけど、頭でわかっても体(感覚)ではよくわからない。たぶん家族を形成していない独身女には一生わからん感覚かも。ありゃ男(マザコン要素を内包する)か母親になった女しかわからん。男は永遠に女性に母を求めるし。女にとってはイエスがいれば充分なんだけど。結局、カトリックが家族を単位に考える宗教であることはこういうところに現れているのだな。わたくしのごとき独身女性はマグダラに共感するのだが、マグダラは何故か近代で廃れていく。


西洋が「家族」をより意識し始めた時代だったということか。女性は家庭人となり良妻賢母を求められる時代だな。西洋でも意外とこういう「良妻賢母」は歴史が浅い。市場の工業化商業化と無縁ではないのかも。
家族という単位が国家というシステムや経済活動の中に組み込まれていく過程でマリアや聖家族というものの捉え方が変容したのかもなぁ。勝手にあれこれ想像してみたけど、以前は修道士が主体だったマリア崇敬が家庭の中心に入り込んでくるのはどういう経緯だったのかの?


ま、いずれにせよマリア崇敬はピンとこんので、あまりマリアマリア言われるとムカつく己には困ったものだ。真面目な信者さんすみません。でも聖人ももっと大切にしてくれ。人間の一生は多様なんだからなぁ。マリアも含めた聖人というのは神でも信仰対象でもないんで、その人に共感できるかどうかが肝だと思う。

靖国問題

耶蘇なわたくし的にはもともとあんまり興味のなかった靖国さんなのだけど。一応整理しておこうなメモ。

靖国の御霊
これ例えばキリスト教的には「死んで神になる」って、微妙に違うけどイエスもまぁ実存の(地上的)推移のみ見ると時系列的に「死んで神になった」構造。こういう観点で靖国の御霊を見ると「ちょいとまてや。」という感覚に襲われなくもないけど。海外なんかこういうカンチガイしてみている人も多いかも。
そもそも日本は敗軍の将を祀るという風習が昔からありますね。「祟り神」平将門などがいい例ですが、未だに丁寧に祭られている。
靖国の場合はどちらかというと「ナウシカ」の漫画でクシャナ姫が字軍の兵士達に「バルハラで会おう」と約束した、「あの世で英霊が集う」という考えなようでケルト的なアニミズムですね。

・政教の問題
約束した主体がクシャナ姫ではなく「国家」という存在だからややこしくなる。国家と宗教というとフランスのムスリムとフランス社会の衝突する場面などでも起きますが、政教の一致する宗教と、政教の分離された社会との価値の相違は平行線に終わることも多く、難しい問題です。靖国の場合近代の新しい宗教とはいえ、「国家が約束して神になる」ということを信じて死んでいった者たちがいるし、信者さんが今もいるわけで。

正直「あの世を具体的に示して目的に利用するたぁカルト的じゃないか?」といいたくもなるけど、カトリックなわたくし的にはそんなこたぁいえません。私だってカトリックが示すあの世を信じているわけでして、カトリックだって何百年も前に十字軍なんてもん出していますから。今の時代に教会が「十字軍に行け」「十字軍の為に祈れ」といっても知らん振りするとか「アホか?」などと思うだろうけど、時代のエートスが違っていたらどうなってるかわかりませんよ。

とにかく、ちょい前に約束されたことは守らねばならないという小泉さんは靖国を信じているわけで、一個人として「国を預かる立場になったからには参らねばならない」と思っている彼のその個人的な信仰は、「国家の代表者だからこそ」という前提があるがゆえに公的な性質になってしまうが、しかし法的拘束はなにひとつないために私的なものであり、とにかく曖昧このうえない。だからややこしい。
フランスのムスリムのジレンマってのをこういう時感じたりします。


・祭られる人々
なんでも宗教とか関係なしに祀るらしい。カトな私だって国家の為に死んだら祭られてしまうわけだ。「なに?余計なお世話だ。」「勝手に違う宗教の神にせんでくれ」と言いたいけど、カトリックにはカール・ラーナーという人がいて「異教徒だろうがイエスによって救われる」などといってる方がいるのでおあいこではある。
原理主義的な人なら当然その辺り「きちんと分けてくれないか?」「曖昧に放置しないでくれない?」と主張すると思うけど。ベネ16なラッツィとか。
多宗教が交差する中で、それぞれの宗教的な立ち位置というのが重なるときどう判断したらいいのか悩みどころである。わたくしは激しく主観的な人間なのでラーナーのように「いい人はみんな天国に行くのよぉ〜」などと考えてしまう余計なお世話人間であるので靖国さんの考える所はわからなくもないが、困る方もいるとは思います。

・中国様が文句言うのは当然である
中国はまぁ彼らの立ち位置からすれば文句を言うのは当然。それに応答する我々は、ではどうなのか?ということになるわけではありますね。
我々にもまた主観はある。それぞれの主観的問題の差異。これを一致させろというのは、戦争という敵対行為があったことで無理に決まってます。今の時代戦勝国の価値で決まっている。「日本は批判されて当然なのだ。我々は全てあの時代を悪なるものと考えねばならない」って、つまりそれは「勝てばそれが正義である」という力の理論を肯定することにもなる。そういう価値観では永遠に戦争はなくならないよ。
物事には善悪の両側面がある。すぎた時代に起きたことは「そういう事実があった」というだけで、それをどう解釈するかはさまざまな見解に分かれるんで、まぁその解釈を一致させようなんてことはややこしくなるだけ。共通の歴史認識は「事実の探求」に留めるしかない。

靖国は公的な慰霊施設か?
わたくしは一宗教法人だと思っていますが。公的なものでなく。
公的な国家経営となると、うみゅ?それなら国民が口出しますよ。神学にも口出しますよ。ということになって靖国さんとしても具合悪くなるんじゃないだろうか?というより靖国的にそれを望んでいるのかなぁ?詳しくないのでよくわからんとです。


ところで、昔はカトリック教会で千鳥ヶ淵に平和ミサに行っていたんだけどなくなっちゃったね。あれはあれでよかったのに。田園調布教会から歩きましたよ。師匠が「いかないの?」「行かないの?」などと顔を見るたび何度も聞くのでうるさかったから。まぁ色々許可もらうとか難しいことがあるんだろうね。

各宗教団体がそれぞれのやり方で慰霊するのはいいと思うよ。
なんだかんだいって平和の方がいい。憎しみを生むだけの「戦争」とはおろかなことは事実だ。その愚かを選択せざるを得ない状況とは激しく悲劇なのだと思う。

・・・・・思いついたトコ、メモしてみました。

かなり参考になる↓

○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060816#p1
靖国データベース

ということで、私は靖国神社の問題を宗教の側面で基本的に考えたいと思っておりますし、そこに現れてくる国としての慰霊の問題は切り分けて考えるべきだと思ってもおります。そして特に後者は、他国がどうこういうものでは絶対にないということも…

私は耶蘇なのでどうしてもモノの見方が分からなくなるときがあります。尚且つ政教分離が望ましいと考えるので、公的な、つまり靖国が公式に国家経営の立場になるなら警戒してしまうかもしれないけど。

故に国家としての慰霊の問題はこれからの未来のためにまた別枠で考えていく必要はあるかな?とわたくしも思っています。