悲しき熱帯

 皆の語るレヴィ・ストロース評を読んでも、まあスゴイのかな、くらいにしか思えないけど、「悲しき熱帯」を読めば、わかる。これは、すごいですよ。しかるべき感受性を持った人が、しかるべき文脈で読めば、面白くないわけがない。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

 学生の頃から温めてきた環境問題という「大きな物語」を見失ってしまっている。そんなところもあって、たぶんなにか大切な視座が抜け落ちているんだろうな、という感覚でいた。生き物を追うのでは飽きたらず、人の造る構造物について学んでみたりもして、それでも不足していたのが、人そのもの、社会と文化であった。生態学から地続きで徒歩10分くらいからの距離にあったのが、文化人類学である。なによりこのタイトルを見て、手に取らないわけにはいかないだろう。

研究書でも、旅行記でもなく、文学

 けっこう、満を持して読んだ。ネームバリューのみで手を出した「オリエンタリズム」は上巻で挫折した経験があって、色褪せない名著を読むのは高山に登るようなもので、それなりに装備を固めておく必要がある、と思っている。しかし、今回に限ってはそれは杞憂だったかもしれない。なぜなら、「悲しき熱帯」は研究書というよりも、旅行記というよりも、文学だったのだ。

そして冒険譚の語り手を迎え入れるのも、五回も六回も満員になるプレイエル音楽堂ではなく、この種のためのパリにおける唯一の場所であった、植物園の隅の古い建物の中にある、暗くて寒々とした、壊れかかった小さな講堂だった。(中略)虫に食われた幻のように影の薄い人々と、じきに退屈してしまう子供たちとの混ぜ合せ――これが、あれほどの努力と心労と研究の最高の報いなのだ

 構造主義とか、神話学とか、そういうのはどうでもいいんだ。そんなものは「悲しき熱帯」の前には霞んでしまう。進化論が今日生物学を学ぶ人にとって空気のような存在であるように、構造主義は「研究」のアプローチとしては、ほとんど空気みたいなもの。それよりも、複雑なものを複雑なまま、しかし一定の強度を保った状態で、世界と向き合う姿勢を示してくれたところに、感動した。……っていうかね、自分でもブログでもまとめてたのにね。忘れてた。

その中で安藤礼二氏は「構造主義者や文化人類学者というよりは、なによりも芸術論の人であり、同時に文芸批評に後戻りのできない一歩を踏み出した人」と評していた。

レヴィ=ストロース---入門のために 神話の彼方へ (KAWADE道の手帖)

レヴィ=ストロース---入門のために 神話の彼方へ (KAWADE道の手帖)

 それにしても、変な本で。旅なんて疲れるだけだし、そんな大したもんじゃないよ、というのを謙遜ととるか、本音だととるか。「私は旅や冒険が嫌いだ」で始まるのは有名だけれども、これはまあツンデレみたいなもんで、「好きでしかたがない」を深掘りしてこうなったというか。未開の地への憧憬がまずあって、そこで出会うものよりも、その幻想に期待して訪れるのだ。そして、裏切られる。その辺の、未開の地への、あるいは世界全体に対する温かい眼差しみたいのものを感じ取れると、このタイトルにも納得がいく。

なぜ熱帯は「悲しい」のか?

 訳者の川田順造によれば、

現著名"Tristes Tropiques"(中略)につけられた"Tristes"が含む「憂鬱な、暗い、うんざりする」といった重苦しい語感が、内容を適切に指示する題名になっている。

とのこと。この言葉を的確に示す日本語は見当たらず、やむを得ず「悲しき」と意訳したのだとか。で、これはタイトルの説明ではあるんだけど、そもそもどういったところが悲しいのか。もちろん、熱帯そのものが「悲しい」ということはなく、ようは要はレヴィ・ストロースさんが悲しく感じているんですよね、と。

未開地を走り回った人々の、もう髪の白くなった先輩である私は、灰のほかには手の中に何も持たずに帰って来た唯ひとりの人間として留まった方が良いのか。

 そんなふうに語る研究書や旅行記を僕は読んだことがない。研究者の眼前にはセンス・オブ・ワンダーが満ち溢れているはずだったし、みんながそれを信じていることになっている。でもよく考えてみたら、それが強がりなことくらい頭のどこかで気づいていて、たいていの場合に感じるのは、「なにもなかったんだ」という果てしない徒労感。構造主義を組み立て、多くの記録と著書を残した人物の言葉としては謙遜も良い所だけど、しかし、そんな人物であっても、旅と探検で得たものは、期待していた「なにか」よりは、よほどに空虚なものであって、灰でしかなかった。これを「悲しき」と言わずになんと言うのだろう。