新しいシリーズ(2)

そんなわけで、昨日もちょいと触れた「新しいシリーズ」、の前に。


今年はいつもの実話怪談に加えて、ホラーゲーム「忌火起草」のシナリオにも携わる機会を得た。実際には2005年くらいからやっていて、今年もなお少し引っぱって書いていてorz、発売になったのがこの秋だった、という感じだった。忌火起草流れで久々に小説も書いた。
結局の所、「恐怖」を題材とした仕事であることに代わりはないわけで、つくづくその道からは逃れられんなあ、と思う。


さて。
ホラーゲーム、ホラー小説と実話怪談というのは同じ恐怖を扱っている代物ではあるけれども、その恐怖の性質や書籍(或いは媒体)も違えば、本来的な意味での目的も違う。んだけど、そのへん突っ込んでいくと一晩では終わらないので割愛。
もうちょっと簡略化して、「なぜ、人は恐怖を求めたがるのか――」について考えてみる。
このテーマは、これまでにも拙書「弩」怖い話、怪コレや「超」怖い話の後書き・前書きなどに何度となく書かせていただく機会を得てきた。
要するに、「怖がりたい、怖がるのが好き」という人もいれば、「怖いモノを見ても、そんなもん怖くないんだぜ」という自分の豪胆さを誇示したい人もいるのではないか、という話。
また、少し前にも「性差・性向によって、恐怖の消化の仕方は違うのではないか」という話を書いた。「女性は恐怖を遠ざけたがり、男性は恐怖を理解・支配したがる」というアレ。男性は恐怖の原因を取り除くことで安心を得ようとして危険に近付き過ぎ、女性は恐怖の後にもたらされる危険から回避して生存率を上げようとする、という行動について触れた。


恐怖というのは、要するに「これから自分に起こる(かもしれない)危険・生命の危機」を事前に想像することで、それらの危険を回避するようにし向ける感情であると言える。
交通事故に遭ったらどういうことになるかを想像できない人は、ついアクセルを踏みすぎるし、赤信号の横断歩道に飛びだしても自分は無傷でいられると思ってしまう。
しかし、実際にはスピードを出し過ぎれば事故を起こし、自分や他人を死亡させてしまう可能性がある。赤信号の横断歩道に飛びだせば、走ってきたトラックに20メートルくらい先まで吹き飛ばされて、頭の後ろ半分がごっそりなくなったりもする。
そういうことが起こることを想像することができるかどうかが、第一段階。そして、それらに「恐怖」を感じることができれば、それをするまいという警戒心が働く。それによって危険を回避できる。
このように、恐怖の効能というのは「実際に危険な目に遭ってしまう前に、未然にそれを回避するためのシグナル」ということだ。


創作であれ実話であれ、恐怖を題材にしたあらゆる作品が、そのおぞましい結末や怪物・怪異などを通じてどこか訓話的な性格を孕んでいるのは、経験則から積み重ねられてできた秩序への帰順が、結果的に危険回避の役に立つことを示唆しているのではないかと思う。
「道に飛びだしたら危ないよ」
「知らない人に付いていったら危ないよ」
「刃物を振り回したら危ないよ」
「パパが整備中のライフルを弟に向けて引き金を引いたら危ないよ」
「人間は一度死んだら、セーブしたところからやり直しは出来ないよ」
このように、「危ないよ」の後に、決まりを守らなかったら何が起こるのかを具体的に描いてみせ、「そのようなことが起こらないようにするために、言われたことは守らなければいけないよ。キミも守らなかった人みたいになりたいのかい?」とやって、危険に対する心構えを作るように促す。
それが、恐怖を題材にした商品の価値であり意義である。
つまりは、危険を想像する想像力を、予め鍛えるために擬似的な恐怖を感じるように促すことに価値があると言える。
もっとも読者のほうも「何を読んでも怖くない」ではマズイわけで、それはそれだけ危険に対して鈍感になっている、危機感を感じ取りにくくなっている、ということでもある。
女の子は箸が転んでもきゃーきゃーと怖がり、おばけ屋敷を駆け抜け、男の子は「そんなもん怖くねえよ!」と、危ないところに突っ込んでいってしまう。
結果として、男の子の生存率は下がり、女の子の生存率は高まる。
だから、男女ともに死亡率の高い社会では、男子の出生率は女子の出生率より高くなるのかもしんない。


と、大幅に脱線。


まあ、要約すると、平和ボケして自衛意識の薄れた人に危険回避の習慣を身につけさせるために、恐怖を題材にした書籍、映像、ゲームなどがあるんでわないか、と。


で、この擬似的な恐怖を与えて、危険回避の訓練をするというのはできるだけ早い時期から始めたほうがいいんじゃないかと思う。
最近は子供を危険から遠ざけるように大人が配慮するというのが一般的になってきている。これは、「子供には何が危険で何が危険ではないのかの判断力がないから、大人が判断してやらなければならない」という思考からきている。
全面的に間違いだとは言わないけれど、それが行きすぎていくとどうなるかというと、常に大人(第三者)に判断を委ねてしまうので、事の是非を自力では判断できなくなる子供が増えてしまう。

「それをしたらどうなるのか?」
を自力判断できない、何が起こるのかを自力で想像できないというのは、実はむしろヤバイことなんじゃないかと思う。
常に大人が寄り添って判断してやれるならいいのかもしれないが、子供を完全に大人・保護者の監視下に置くことは不可能だし、子供自身が自分の判断で危険を回避するという訓練をしていかなければ、子供はいつまで経っても精神的に自立できず、自分の身を自分で守れない。これは非常にマズイ。


「物事の判断ができるような年齢になってから教えるべきで、判断できないうちに教えても意味がない」
という意見もある、それもまた正論かもしれない。
が、じゃあ「いつになったら判断できるようになる」のか?
高校に入ったらいきなり判断できるようになるのか? 卒業と同時か? 成人式の日にいきなり開眼するのか? 誕生日を迎えたらか?
人間の精神の成長というのは、肉体の成長とは一致していないという説がある。
失恋や挫折、嘘、裏切りと後悔、そんなものを味わって、人はひとつ大人になる。
しかし、失恋や挫折は全員が決まった肉体年齢になったときに、同時に得るものではない。
そして、心は「経験*1」を経ることでしか成長しないものだ。


だから、子供にはいろいろ怖い思いをさせてやるのが大人の義務だと思う。
夜、一人でトイレに行けなくなるくらい子供をビビらせるのは大人の責務だと思う。
そして、そういうことは子供が子供のうちにやっておかなければいけない気がする。
故に、大人であり怪談屋でもある僕としては、全身全霊を持って子供をビビらせ、トイレに行けなくさせ、毛穴が開くほどいろいろなことを想像させるようにし向けることは、義務なんではないかと思う次第である。






……というわけで、話はだいぶ長くなりましたが。
来年、2008年4月に、一・二巻同時発売で子供向けの怖い話の本を出すことになりました。
2008年6月には三巻目のリリースも決まっています。
つまり、ドドドと一気に三巻リリース。
全編新作書き下ろし。


対象は小学生。
お財布をばーんと開くのは保護者の皆様ですが。
小学生のお子様をお持ちの方は、是非。



……我々は子供相手でも容赦なんかしないんだぜ(笑)

*1:擬似的なものも含めて

唄うことの意義、唄われることの意味

相変わらずふるみっく状態にある。

先日、人類の逆襲コンピレーションについて紹介させていただいたら、紹介した中にいらした歌ってみた方もお見えになってたみたいで、たいへん光悦。
本日はそこらへん繋がりの話。


僕の生業は音楽関係とは無縁のモノカキであるわけなのだが、なぜ「書く」のかと言われたら、やっぱりそりゃ「伝えたいことがあり、読んで欲しいから」という根源部分から離れることはできない。伝えたいことなどなく、読んで欲しくもなかったら、そもそも書く必然も意味もないからだ。
「こういうこと書いたんだけどどうよ?」「こう思うけどどうよ?」という衝動があって、それを伝達し形にするための方法が僕の場合は文章だった、ということ。

歌曲を作る人の場合も恐らくは同じで、それを伝えるための方法が「歌にする」なのであろうと思う。だから、作られる歌には常に何らかの意味が含まれる。
歌詞によって明確にメッセージやストーリーが伝えられる場合もあれば、メロディの蓄積によって印象のみを伝えたり、聞く者の感情を励起するものもある。その点、クラシック音楽もトランスも変わらない。


本の書き手にとって嬉しい状態というのは、もちろん自分の書いた本が自分以外の人間に読まれること。直接的には本が売れることwだが、売れて終わりではなくて、「読まれて、何かを汲み取られたり、他の人にもメッセージがリレーされていったり、そこからさらに何かが生み出されたり」という連鎖の、最初のスイッチを入れることに繋がるのが、何より嬉しい。
人間が自分以外の人間を動かす、さらには何か行動をするように促す、というのは実は凄く難しいことで、「誰かに何かを伝える」という作品製作・著作の原動力・原目的は、伝えて終わることではなくて「伝えて他人に行動を促すこと」にあるんだと思う。

漫画・アニメ・ゲームの類では、原作品から「二次創作」が生み出される風潮がある。小説からもなくはないんだろうけど、怪談、特に実話怪談から二次的な作品が生まれることは希有*1なので、その点については羨ましいなあと思ったりもする。商業的な二次作品はあるけど、作品を読んだ読者による二次作品というのはほぼ皆無なので。


歌の場合はある意味もっと直接的で、楽曲を創作したソングライター自身以外がシンガーになるケースは、ごく一般的に見られる。アマチュア・プロに限らず、自分で作って自分で歌うシンガーソングライターのみならず、作詞作曲提供として曲だけを作るソングライターも少なくない。


歌が文章ともっとも大きく異なるところはここで、歌には「歌い手」が存在する*2
もちろん、作った当人がいちばんうまく歌える(伝えられる)かもしれないけど、必ずしもそうとは限らない。歌い手が変わることで同じオケでも曲の持つ雰囲気が変わってしまうことはしばしばある。

【シュークリームのうた】(作詞作曲編曲/デッドボールP

  1. Ver.初音ミク http://www.nicovideo.jp/watch/sm1458940
  2. Ver.かなり幼女*3 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1488558
  3. Ver.あきら*4http://www.nicovideo.jp/watch/sm1548856
  4. Ver.黒パンダ*5 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1701560

原曲は18禁曲が多く大人の都合wでランキングには滅多に現れないデッドボールPのセーフ判定だった「シュークリームの作り方の歌*6」なのだが、歌い手によって印象が全く違ってくる。
作者デPが初音ミクに歌わせた(1)は、若干ピグマリオン入ってる*7というか、初音ミクの設定年齢*8を意識しているように感じられる。
(2)はロリータボイスというか、いろいろアウト過ぎでもう完全に犯罪スレスレのニュアンスになってる。と、深読みもできるし、純粋にシュークリームのうたと言い張ることも。
(3)はお姉様ボイスのためか、冒頭で口走ってるせいか、(2)とはまったく印象が違う曲になっている。
(4)に至っては、男性ボーカル(コーラス入り)のせいか、なんか腐女子向けになっちゃってるというか、歌といっしょに脳に浮かぶビジュアルが全然違うものになっちゃってる。


かなり極端な例だけど、歌い手によって曲の持つニュアンスや印象が違ってくるという好例だと思う。


また、歌い手だけでなくオケのアレンジによって雰囲気もメッセージのニュアンスもがらりと変わってしまうことさえある。

【みくみくにしてあげる♪】(作詞作曲原編曲/ika)

  1. Ver.初音ミク(プロトタイプ) http://www.nicovideo.jp/watch/sm1097445
  2. Ver.アニソン風バンドアレンジ http://www.nicovideo.jp/watch/sm1290633
  3. Ver.オーケストラアレンジ http://www.nicovideo.jp/watch/sm1633168
  4. Ver.ファミコン音源アレンジ http://www.nicovideo.jp/watch/sm1225893
  5. Ver.路上ライブアレンジ http://www.nicovideo.jp/watch/sm1588085
  6. Ver.ユーロビートアレンジ http://www.nicovideo.jp/watch/sm1510396
  7. Ver.ピアノアレンジ http://www.nicovideo.jp/watch/sm1499361
  8. Ver.テルミンアレンジ*9 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1229703
  9. Ver.大人アレンジ*10 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1589911
  1. Ver.楽譜 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1274696
  2. Ver.実写版ネギ踊り http://www.nicovideo.jp/watch/sm1545084

先だっても紹介している定番曲「みくみくにしてあげる♪」だが、歌ってみたのバリエーションは360曲以上もあり紹介しきれないので割愛。特に特殊なアレンジ違いを紹介してみただけでもこれだけある。
それぞれに印象はまったく違うものになっていて、アレンジャーの数だけ「違う曲」が生まれていると言っても過言ではない。


文章の場合、読者が原作に対してこうしたアレンジを施すという展開はほぼない。演奏者/歌唱者が必要な歌曲であるが故に出来うることだと思う。
歌は歌だけでソングライターに独占されているだけの状態よりも、シンガーやアレンジャーによって新たな解釈が加えられたほうが、遥かに活性化するという好例と言えるだろう。


作者の心情(信条)も、一枚岩とは言えないかもしれない。
自分の歌が広く知られるようになりたい、多くの人に聞かれたい、さらには多くの人に歌われたい。誰でも知っている、誰でも歌える歌になってほしい。

多くの人に知られ、聞かれたいけど、誰にでも歌える簡単な曲にはしたくない。歌いこなせるスキルのある歌い手に見いだされたい。

中には、自分の思いを歌に込め、自分の魂の叫びとして歌うのだから、自分(或いは自分の代役として認めた公認の歌い手)以外が歌うことを許さない、という思想は、音楽を手がける人の中には少なからずあるだろう。
例えば森進一の「おふくろさん」を巡って、作曲者と歌手の間に相克が生まれた事件は記憶に新しい。
「俺だけ」が或いは「俺の解釈に従ったものだけ」が、俺の歌曲を歌うにふさわしいのであって、その他の歌い手は容認しない、というもの。


そういう考えの人も一概に否定はしないけれど、僕はこうも思う。


人の唇の端に上らなくて、何が歌なのか。
歌は歌われてこそ歌なのではないか。


このへんは、歌われることでニュアンスが変化していくという行程を持たない、文章書きからの嫉妬も含むw


歌われることによって、歌は広まっていく。拡大再生産され、多くの人を突き動かすことになる。歌は歌われることが宿命であり、歌う人を制限することなく、多くの人に歌われる機会を持つことを、作者は尽力すべきなのではないか、と思う。
ぶっちゃけて言えば、作者の皆様方にはどんどんオフボーカル版(カラオケ版)をリリースしていただいて、歌ってみた系の方々の挑戦の機会を増やしていただきたい、と。
実際、カラオケ出してる曲は出していない曲に比べて認知率が高く、カラオケ版のヒットによって原曲が引っぱられるケースも珍しくない。
歌い手のイメージに引き摺られることを恐れる作者もいるのかもしれないが、歌い手を制限することなく誰でも挑戦できるようにし、なおかつその歌曲が、「歌いたい、歌わずにいられない」と思わせるようなパワーを持つものであれば、何十人何百人の歌い手の中からもっとも理想に近い歌い手が見つかるのではないかとも思う。
そうしたら、次はその歌い手が歌うことを前提に曲を作ったっていい。
初音ミクはそうした歌い手を発掘するための、ツールと見なしていいと思う。


初音ミクオリジナル曲は、すでに十分な評価を得てスーパーヒットとなり、着うた(ドワンゴ)やJOYSOUNDに移植されたものを別にしても、一般の商業音楽がそうであるように「宣伝」らしい宣伝があるわけではない。ただ、聞かれる、繰り返し聞かれる、歌われる、多くの人に繰り返し歌われる、そういった原始的な行程でしか人に知られていく術はない。
歌ってみた系の歌い手たちが歌うことによって、元歌も知られる。元歌と歌い手の比較が行われれ、「自分も歌ってみよう」という新たな歌い手が現れる。
有象無象と言ってしまえば語弊もあるが、初めて歌う人や歌いこなせていない人もいるかもしれない反面、「今までなぜあなたは歌わなかったのか!」と驚くような逸材が現れるかもしれない。もしくは、自分がそうであることに、歌ってみる瞬間まで自分自身ですら気づいていなかったかもしれない。




JASRACがまだこの世になかった明冶時代、街頭演歌、辻演歌というものがあった。その時代の「演歌」というのは今でいう古賀政男以降の演歌とは若干意味が違う。

まだネットどころかテレビやラジオがなく、新聞の影響力も今ほどではない明冶時代、人々が情報を得る手段のひとつは街角に立つ弁士、演説家などが主力だった。社会風刺や政治的/思想的主張、瓦版的なニュース・社会概況は、そうした弁士達によって街頭で演説されていたのだが、単に拳を振り上げて口角飛ばすだけでは、誰もふり向かない。新聞を読むのは知識エリートだけで、日々の生活に追われる人々は政治や社会風刺に見向きもしない。

そこで、「演説」を歌に乗せることが自然発生的に始まった。こうしたものを「演歌」或いは「壮士演歌」と言った。歌と言ったって、民謡・謡曲に近い「書生節」などを伴奏なし・旋律無視でがなるだけのところから始まった。それにバイオリンなどによる伴奏が付くようになった。
街頭で歌うのは壮士だけではなくなった。歌いやすい節回しに社会風刺や社会概況を乗せた歌を乗せ、その歌詞を【売る】ものが現れた。

始まりは1900年パリ万博の川上一座*11オッペケペー節、ラッパ節などの政府批判、もう少し下って添田唖蝉坊あたりの「ああ金の世や」、「まっくろけ節」、「ハイカラ節」、ラメちゃんたらぎっちょんちょんでパイのパイのパイ♪で知られる「東京節」*12などなど。

歌本、歌詞カードを売って糊口を凌いでいたこれらの辻演歌師は、その後ラジオ・レコード(蓄音盤)の台頭で次第に姿を消していき、今はチンドン屋さんにその面影を残すのみとなっている。
歌本、歌詞カードを売った、と言うあたりなんとなく今の音楽出版の原点を見るようでもあるんだけど、同じメロディを別の歌詞で歌うことには案外鷹揚で、流行り歌の歌詞だけ変えたものが本家を食ってしまうこともしばしばあった。

また、節回しを歌本に刷っても誰にも歌えないから*13、歌詞カードを売る一方で街頭で歌曲を実演し、歌を教えて回るというのも辻演歌師の仕事であったらしい。
多くは元々知られた民謡のメロディラインをもらうものが占めていたが(デカンショ節など)、東京節のように節回しから作られ、歌われ、大ヒットとなったものも数知れない。

東京節が、なぜ残ったか。
これはやはり、繰り返し歌われたから、に尽きる。
繰り返し聞かれる曲は、実はそれほど残らない。
繰り返し歌われる曲のほうが遥かに後まで残る。
何年も何十年も経って、ふとそのフレーズを思い出すのは、聴いた曲より自ら歌った曲だと思う。子供の頃学校で習った唱歌は、いつまでも歌える。*14
最近の商業曲がすぐに忘れられてしまうのは、唄いにくい曲が多いからか、そうでなければ唄うことに権利制限が掛けられているからか。




作者の皆様におかれましては、時代を超えて思い出せる、歌われる、歌い継がれる曲を書いていただきたい。そして、歌い手達が歌い継ぐことを赦し、後押していただきたい。




僕らはそうした歌を唇の端に乗せ、日々の糧に暮らしていきたいのです。

*1:「超」怖い話新耳袋稲川淳二のように映像化されたり子供向けにリライトされたりという作品もあるけど、それは実話怪談ではかなり特殊な例で、大部分は本だけで終わる。

*2:文章作品、特に詩の類ではポエトリー・リーディングにあるような「朗読」という演じ方があるが、それは文章作品全般で普遍的な方法とも言えない。

*3:特にコテはなし。

*4:井上喜久子17歳……じゃなくて女神Ver.

*5:コーラス入り男性ボーカル。

*6:あくまでシュークリームw

*7:このへんの考察は後日。

*8:16歳

*9:アレンジというかセッションw

*10:先日も紹介の歌和サクラ版Newアレンジとは別の試作版。

*11:記録に残る日本最古のレコーディングは、川上一座によるパリ収録盤らしい。CDが出ています。

*12:これはソウルフラワー・モノノケサミットがカバーしているVer.他、山ほどアレンジ・カバーが存在する。多分、聞いたことがない日本人はいないと思う。

*13:五線譜に対する理解など薄い時代だ。

*14:僕なんかそのせいで未だにオフコースポプコン世代の曲ばかりを歌えるし、楽譜も歌詞も見ないで全フレーズが蘇ってくるのは、一生懸命コピーした曲ばかりだw

晩飯作ってる途中で思い出した

本日の晩ご飯は、里芋のポタージュとオムライス。


里芋のポタージュは、芋の皮剥いて切って水に晒して、いっぺん塩だけで下煮、湧いたらゆでこぼしてもっぺん水張って昆布と塩入れて箸が通るまで煮る。
そしたらお湯を切って、刻んだ干し椎茸と茗荷をフードプロセッサに入れ、そこに里芋入れ、昆布も刻んで入れ、チキンコンソメスープをちょっと入れてブンブン回す。
なめらかになったら、鍋に残りのチキンコンソメを張って沸かし、そこにブンブン回した里芋のピュレを入れて煮込み、アク取りし、塩、胡椒、クミンで味を調え、冷凍コーンをちょっと放り込んで余熱で溶かす。


……そこまで作りかけたところで思い出した。
本日、家人は会社の忘年会とか言ってたな。
ぬぅ。
うっかり米二合半炊いちゃったよorz


オムライス……は、玉葱半分だけ残して使うのもアレなので又今度。
具材見直して、鮭炒飯に変更。
家人がいないってことは、豆類、セロリも使ってokってことになるので、そこらへん見直すことに。
とりあえず飯。飯。