かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

佐々部清監督『カーテンコール』(2004年)

カーテンコール [DVD]
下関の小さな映画館の物語。名画座の「みなと劇場」は映画全盛期で客が劇場にはいりきれないほどにぎわっていた。あるとき、フィルムが切れて観客がさわぎだすと、その穴埋めに映画館で働く安川修平という青年がありあわせの物まねコントをやって、急場をしのぐ。

それから安川修平は、上映のあいだにギターをもって歌うのが主な仕事になる。修平はファンであるという女性と結婚し、幸せな生活が続くようにみえたが、映画の全盛期は過ぎ、映画館はみるみる観客が激減する。もう修平の素人芸に関心をもつものはいない。働き手の妻が亡くなると生活が息づまり、小さな娘を下関に残したままで、修平の行方がわからなくなる……。

小さな映画館を舞台に、安川修平のことを取材する若い女性記者(伊藤歩)の目を通して、修平と娘(おとなになってからは鶴田真由)の感動的な再会までが描かれます。

安川修平は、若いころを藤井隆、老人になってからをミュージシャンの井上堯之が好演しています。

あたたかい感動を求めるひとには、いい作品なのかもしれませんが、DVDをテレビ画面で見たので、集中しきれませんでした。

新藤兼人監督『悪党』(1965年)

悪党 [DVD]
■あらすじ

時は14世紀、動乱の南北朝時代足利尊氏の執事として、天下に権勢をふるっていた高師直(こうのもろなお)と、塩谷判官(えんやはんがん)の妻、顔世(かおよ)の物語。

下品な権力者、高師直(こうのもろなお)は、塩谷判官の妻に懸想し、『徒然草』の作者である吉田兼好に恋文を依頼しますが、顔世(かおよ)は、それを拒否します。顔世への欲望をあきらめきれない師直は、夫の塩谷判官を出雲へ帰し、留守中に顔世への想いを遂げようとします。

高師直の企みを読んだ、塩谷判官と顔世は、ともに手をとり出雲に向かいますが、師直の追っ手に囲まれてしまいます。二人はあの世で再び添うことを約束し、塩谷判官は追っ手の中に切り込んで憤死、顔世は部下の手を借りて自決します。

高師直の前に、顔世の首が運ばれますが、その首はどこか不敵に師直を笑っているようでもありました。


以上のような話で、原作は谷崎潤一郎の戯曲『顔世』だそうです。スジを進行させるのは、侍従役の乙羽信子。あの名作『鬼婆』の、目の縁を黒ずませた邪悪な化粧を思い出させますが、『鬼婆』ほどには、テーマの抽象化が徹底されていないような気がしました。小沢栄太郎の演技が、くどい。

成瀬巳喜男監督『妻として女として』(1961年)


ひとりの男(森雅之)をめぐって、妻(淡島千景)としての言い分と、愛人(高峰秀子)としての言い分が衝突、その結果として、妻も愛人も双方が傷ついていく、そんな映画です。

成瀬巳喜男は、通常激情的なシーンを登場させません。水面は穏やかで、奥底で激しいドラマが展開します。ところが、『妻として女として』は、妻と愛人の激しい会話の応酬が、水面に登場する異色作でした。

高峰秀子は『女が階段を上がる時』を連想させるやとわれマダム。長いあいだ夫も家庭ももたないまま、愛人として齢を重ねてしまった疲労感を全身で漂わしています。いいですね、高峰秀子は。圧倒的な存在感です。

二人の女性のあいだにはいって、目の前の問題を回避することしか考えない、優柔不断な夫を演じるのが森雅之。謹厳そうな表情をしながら、そのなかにずるさをにおわす演技がすごい。森雅之は、本当にうまい。うまいということを意識させないくらい、うまい。


【注】:ringoさんのブログには女性の目から見たこの作品の感想が詳しく書かれております。こちらを参照してください。