731部隊(関東軍防疫給水部)の真実

KSM WORLD より
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731部隊は最近研究はしていたものの、細菌戦を行った証拠は全く見つからなかった。
国立公文書館は、石井四郎中将を始とする731部隊関係者の個別尋問記録や、石井中将が細菌研究の成果を1947年6月頃執筆し米軍に引き渡した事を裏付ける最高機密文書も明かにした。ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査する為、クリントン政権当時の1999年に編成された記録作業部会(IWG)は「人体実験」に留まらず「慰安婦問題」などの悪事を裏付ける文書も必死に探したが、それらを裏付ける証拠は何一つ見つからなかった。つまり1999年以降の調査で「性奴隷」が言いがかりである事はクリントン政権には既に判明していたという事だ。しかし、同盟国米国は口を噤んでいた。
奉天(現:瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べたり、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないかを調べたりしたが「当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も発見された。つまり米国が持っていた731部隊に関する10万頁の機密文書には、731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った証拠は全くなく、戦後に言われた事は全て根拠なき捏造であったと証明された。
731部隊はもともと昭和11(1936)年に、関東軍板垣征四郎参謀長によって「関東軍防疫給部」として発足。同時に「関東軍軍馬防疫廠(しょう)」も併設された。この二つが昭和15(1940)年に統合されて「関東軍防疫給水部」となり通称「満州731部隊」と呼ばれた。
この731部隊の大手柄となったのがノモハン事件(昭和14年)で、この時石井軍医中将は、特殊な技術の石井式濾水機を考案し、現地での給水活動にあたった。大陸では洋の東西を問わず、糞尿を川にそのまま垂れ流す風習があった。この為、過去においては西洋でさえペストが大流行し、人口の3分の1が失われるという大変な事態を招いた。よって大陸における衛生的な給水は、軍の行動にとって、とても大切なことです。この事は少し考えたら判ります。日本は、国土の表土が衛生的に保たれ、山には森の樹々が茂り、その下の土は腐葉土や岩盤、砂利、粘土層など、幾重にも折り重なった地層があって、雨水が自然濾過されて、衛生的できれいな地下水が、全国いたるところで湧きます。(ちなみに、富士山に降り積もった雪溶けて地下水となり、これが足柄あたりで湧水となるまでに、約30年かかる。自然は、それだけの長い時間をかけて、水を清潔で美味しい水にしてくれているわけです。ところが大陸では、まず緑がありません。黄砂の砂漠で、表土にはわずかばかりの草が茂るだけです。自然に木が生えても、すぐに刈り取られたり燃やされたりするのです。緑が出来ようがない。いま、グーグル・アースなどで衛生写真を見ることが出来ますが、赤や黄色の砂漠ばかりの大陸で、かつての満州朝鮮半島、あるいは日本軍が進駐していた支那東部に緑があるのは、当時、日本の軍閥関係者や民間人が「緑の潤いがあれば人々の殺伐とした心がきっと和むに違いない」と、数十億本単位で植林事業を展開したからです。)
そんな黄土ばかりの大陸で、軍が水を確保することは、実はとても大切なことでした。だからその為に防疫をする。そのための防疫の専門部門をつくる。これは、もう当然すぎるぐらい当然の活動であったわけです。防疫ですから、当然、細菌への対策研究をします。しかもそれは当時としては、世界最先端の防疫学上の第一級資料です。この為731部隊の研究資料などは、戦後、すぐに米軍がすべて接取してしまいました。この資料は、米軍にとっても、米国の薬品メーカーにとっても、極めて貴重性の高い資料でした。ですからその接取資料は極秘扱いとされました。そして極秘である事をいいことに、まるで731部隊が細菌兵器開発の悪魔の部隊と言われるようになりました。言い出し始めは森村誠一の「悪魔の飽食」です。この小説は単なる空想話でしかないし、史実にかんしてあまりにも誤りが多いことが度々指摘されていたにもかかわらず、いつの間にか、その小説の作り話が、あたかも真実であるかのように宣伝されました。これを利用したのが中共政府で、中共内に「731部隊記念館」を作り、そこに実は日本人が被害者である済南事件の時の写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として蝋人形にして展示し、且つ又学校の歴史教科書にまで掲載しました。風土病にコレラにペスト。とにかく大陸は(いまも)伝染病の巣窟でした。だから当然その研究をしたし、現地の人達に731部隊は「無償で予防接種」もしています。その予防接種のことが、人体実験にすり替えられました。最後に、731部隊の石井四郎陸軍軍医中将は、戦後、新宿区内で医院を開業し、近隣の住民が怪我や病気になると無償で診察、治療を行いました。このことは、昭和57(1982)年8月29日の「The Japan Times」で、報道されています。たいへんな人格者で、多くの患者さんから慕われました。そして、昭和34(1959年)年10月に、満67歳で天寿をまっとうされてお亡くなりになりました。