文化財指定無しの丹波亀山城

丹波亀山城は、当時坂本城主で有った明智(惟任日向守)光秀が、織田信長の命を受けて丹波国の攻略を担当する過程で、天正6年(1578年)から亀岡盆地の中心であった亀山に築城した城だ。天正7年(1579年)の丹波国平定後、そのまま丹波一国を与えられてからは、この城が丹波経営の拠点となった。ところが天正10年(1582年)に本能寺の変を起こした光秀も、山崎の戦い羽柴秀吉に敗れ、その後は秀吉一門の羽柴秀勝・羽柴秀俊などが入った。江戸時代の徳川政権下では、慶長5年(1600年)から2年間を前田玄以と玄以の次男茂勝が入封、慶長14年(1609年)に譜代大名岡部長盛丹波亀山藩主として入封させ、更に藤堂高虎に縄張りを勤めさせ、幕府による西国大名への「天下普請」により大修築し、慶長15年(1610年)頃に完成する。城郭構造は平山城で、複合式層塔型5重5階の構造を持つ天守閣が本丸にそびえる近世城郭だったとの事。その後は、松平(大給)氏→菅沼氏→松平(藤井)氏→久世氏→井上氏→青山氏→松平(形原)氏と代々各家が継ぐ。明治維新後は、1877年(明治10年)の政府の廃城処分の決定後、市町村に払い下げされ転売されるが、管理が出来ず放置され荒廃していた城郭跡を、1919年(大正8年)に宗教法人大本が購入して整備し、現在に至った。訪れた折、外堀の遊歩道を散歩中の壮年に本丸一帯の見学が出来るか否か尋ねると、大本会館事務所に許可を貰えば可能との事で有った。城郭内部を覗いて見たがビル風の建物と社殿風の建物が有り、そこで数人の作務衣を着た方が広場を掃除していた。確かに中世の山城で兵庫県の長水山城跡の天守台や香川県高松城跡の天守台には神社仏閣が建てられているが、城郭全体とも成ればとても宗教色が強く、私の個人的な偏見かも知れないが、異様な雰囲気さえ感じ、流石に許可を得て天守台の見学や遺構のカメラ撮影までには至らなかった。結果的に信仰の場として立派に遺構が整備され残されている点は宗教法人大本に依るところが大きいが、それ以前に公共が大切な歴史文化財として管理が出来なかった事が非常に残念。色々な問題も有り、素人の私には計り知れないが、例え法人所有とは言え日本の重要な歴史の1つでも有り、文化財の指定が一切成されていない点が非常に残念で有る。画像は街道と堀に沿って整備されている遊歩道の間に立つ自衛隊の小さな事務所の片隅に建てられた記念碑と堀に咲き乱れる白蓮を撮影したもの。